赤城君が農林水産大臣をやめたネ。この男いつも嫌味なほど派手な太いストライプの背広を着ている。そして三つボタンの上二つをきちっとはめてね。それが子供みたいに貧弱な体と何ともいえないミスマッチなんだ。男子専科でも読んでいるのかナ。たしかそういう雑誌があったヨネ、男子のファッション雑誌、服装だけを気にする男の愛読誌。いまでもあるかな。
赤城君は幼稚園の制服を着せたほうが似合いそうだ。
赤城君が農林水産大臣をやめたネ。この男いつも嫌味なほど派手な太いストライプの背広を着ている。そして三つボタンの上二つをきちっとはめてね。それが子供みたいに貧弱な体と何ともいえないミスマッチなんだ。男子専科でも読んでいるのかナ。たしかそういう雑誌があったヨネ、男子のファッション雑誌、服装だけを気にする男の愛読誌。いまでもあるかな。
赤城君は幼稚園の制服を着せたほうが似合いそうだ。
2場所出場停止の処分が決まった。今回は相撲協会も迅速に対処した。この処分が重いか、軽いか。おそらく重過ぎるという議論は成り立つまい。問題は適切か、軽すぎるかという議論だろう。
前に述べた昭和22年に来日中のアメリカ3Aの野球を観戦して引退させられた横綱前田山と比べてどうかということだ。
年齢の問題、前田山は当時すでに33歳、朝はたしか26歳くらいだヨネ。まだ盛りを過ぎたという感じもしない。改悛の情著しければもう一花咲かせてやろうという人情論もあろう。
問題の悪質性では朝のほうだろう。前田山は休場中だったが病気だったかどうか。しかし、野球見物だけなら病名にもよるが観戦くらいできるかもしれない(物理的にという意味ヨ)。朝はサッカーをやったからね。あきらかに仮病でうそをついている。
社会情勢はどうか、敗戦直後で国技館はアメリカ軍に取り上げられていた。たしかアーニーパイル劇場とか名前を変えてアメリカ兵の慰安施設になっていた(メモリアル・ホールと書いてある資料もある)。国技という誇りのある相撲協会としては、横綱ともあろうものが敵性(アメリカということヨ)スポーツにうつつを抜かすとは許せないことだったろう。今はこういう問題はない。
当時は両国国技館を追い出された大相撲は、蔵前国技館というのを作って、そこで本場所が行われていた。私も行ったことがあるが、木造で急造した田舎の芝居小屋のような雰囲気で柱なんか丸太がむき出しでしかも傾いている柱もある始末だった。かっての国技館はアメリカ兵のためのジャズやらショーの舞台となっている。前田山の行為は吐き気の出るようなものだったろう。
なお、蔵前国技館は昭和29年鉄筋コンクリートの建物に立替られて昭和60年まで、今の両国国技館が出来るまで大相撲の舞台だった。
ま、謹慎中の「朝」の行状を見て、更なる処分もあるぞヨという含みを残したということなのだろう。
アナウンサーが代読する「朝」のコメントは意外に殊勝なものだネ。もっとも従来から彼のマスコミ向けの発言は年に似合わず「適切」なものだと感心している。赤城ストライプ男よりははるかに日本語の対応がうまく、精神年齢は前農林大臣より上で世慣れたものだ。
もし、テレビカメラの前に顔を出さないでコメントしたのが、謹慎中だということを計算した上でのものであれば、近頃の日本の若者よりかはるかに立場をわきまえたものだ。
「従軍慰安婦問題」をタックルする手法についての若干の考察――
これはお約束した「正気の歌」の「ショウキノウタ」の第一章であります。アメリカの新聞でしたか、あるいはマイケル・ホンダ議員でしたか、従軍慰安婦(いわゆるとか、留保を示すために括弧でくくるべきなのですが面倒なので以下素でいきます)問題はホロコーストにも匹敵するとトンチンカンな発言がありました。いわゆる南京大虐殺問題なるものと従軍慰安婦の問題は同一の人物、グループが騒ぎ立てている問題ですからホロコーストという言葉について考えてみましょう。
まずは言葉のお勉強から。皆さんの世代はじゅうたん爆撃という言葉をしっていますか。もともと発明者の言葉である英語ではカーペット・ボンビングといいます。パターン・ボンビングということもある。日本語は直訳だね。この表現からどういうことか推測できますか。
マンションの床一面にすきまなくじゅうたんを敷き詰めるように目標地域に片っ端から爆弾を投下する無差別殺傷爆撃方法をいいます。いわばバルサン方式だネ。ダニを皆殺しにする方法である。アメリカの小学校の教科書には日本人はダニやゴキブリとおなじだと書いてあるらしい。
それを民間人の居住地域におこないます。しかも戦闘地域のはるか後方で実施します。非戦闘員の皆殺し方法です。戦時国際法の違反ですね。アメリカ人はさすがに気が引けるのか後では戦略爆撃と呼ぶようになった。日本占領後、じゅうたん爆撃をした都市や広島、長崎をアメリカ軍の「戦略爆撃調査団」がまわりました。爆撃の効果を確かめるためにね。
日本全国の都市に対してじゅうたん爆撃を米軍は行いました。これを日本が戦争を始めたからだとか、はやく降参しなかったから悪いんだと一部の日本人が日本人を責めるのは切ないね。
東京は昭和19年の冬から空襲を受けましたが、昭和20年3月から5月24日にわたってじゅうたん爆撃を受けてほぼ東京の半分が焼失しました。いわゆる3月10日の大空襲では本所深川を中心として下町で死者10万を出したが、米軍の爆撃方法は緻密に冷酷に計算されたものである。まず予定爆撃地域の周辺を囲む輪に焼夷弾を落として火災を発生させる。
最近の東京ではマンションというコンクリートの集団棺オケだらけになって想像できないだろうが、日本の家屋は紙と竹で出来ているといわれた。焼夷弾を落とせば簡単に大火災になる。周辺にリンク状にまず焼夷弾を落としたのは輪の中の人間が外に逃げられないようにするためである。それから輪の中にじゅうたん爆撃を加える。
バルサンを炊くときに部屋を密閉する要領です。住民全員を焼き殺すためである。これはナチスがワルシャワのユダヤ人ゲットーなどで行った地域壊滅作戦とは比較にならない残虐行為である。
ナチスは逃げ出してくる住民は逮捕して収容所に送った。いずれ高い確率で死がおとずれたにしても抵抗しないで投降した住民をその場で殺さなかっただろう。また、当時のナチス占領地はどこでも住民のゲリラが盛んでいわば交戦地域での戦闘行動である。ワルシャワ市民はゲリラあるいはゲリラ支援者で戦闘員であった。軍服を着ていないだけだ。東京は占領地ではない。アメリカ軍と交戦している地域ではなかった。その東京の下町の人口密集地の民間人だけの地域をホロコーストの目標にしている。
アメリカの下院が従軍慰安婦の非難決議を採択した。その「勇気」と「おろかさ」と「狂気」に敬意を表そう。そこでかねて約束したとおり、慰安婦関係、アメリカのホロコースト犯歴についての記事を順次復刻してお届けする。