中尾太一「カーサ・デスペランサ」(「現代詩手帖」2008年12月号)
中尾太一「カーサ・デスペランサ」の初出誌は「文学界」2007年11月号。途中に、
という美しい行があって、最後がそれ以上に美しい。
「ああ、」の詠嘆がいい。特に、その読点「、」がまなまなしい肉体そのもののようで、ふいに中尾のからだがくっきり浮かび上がってくる。
この詩は
という「君」のことばから始まっているのだが、その最初の1行にも読点「、」があり、「僕」はその読点の呼吸を探して絶望の街をさまよっているという感じが、「ああ、」でピークに達する。そして、透明に、透明に、さらに透明に、つまりなまなましい肉体を地上に残して高く高く昇天していく感じがする。「ああ、」という詠嘆とともにある、せつない感情の透明さと、そのせつなさから取り残された肉体の、どうしようもない共存。「苦しみ」というのは、たしかに感情と肉体の不思議な齟齬のことなのだ。
齟齬はあらゆるところに存在する。
「甘蔓」と「排水」、「甦った街」と「汚い飯店」、「くさい」と「光」。そうした存在の間を、肉体を抱え、呼吸(読点「、」)をしながら動いていく。歩いていく。とぎれとぎれの呼吸は、どうしたって途中で「ああ、」と深く息を吐き出さずにはいられない。詠嘆せずにはいられない。息は、吐けば吐くほど、肉体の内部に深く溜まるものなのである。
1年も遅れて、この詩に出合う。その不思議さ。--年鑑、アンソロジーの意義は、こういうところにあるかもしれない。詩にしろ、他の様々な芸術作品にしろ、世界にあふれかえっている。読んでいないもの、見ていないもの、聞いていないもののの方が、自分で読んだもの、見たもの、聞いたものよりはるかに多い。あたりまえのことであるけれど。そういう作品、気づかずにいた作品を知るのは、とこも興奮する。
しばらく「現代詩手帖」のアンソロジーを読んでみようと思う。
中尾太一「カーサ・デスペランサ」の初出誌は「文学界」2007年11月号。途中に、
一緒に性器にさわると噴きこぼれて
という美しい行があって、最後がそれ以上に美しい。
小さな田園にひとりで入っていくとき
甘蔓の根っこや排水の流れに沿って
家に帰ろう、と言っていた君が振った右手も、左手も
甦った街の、きたない飯店に並んでいる
ここも、僕たちのホームなんだね
ああ、君がいちばん高い声で歌った来世まで
くさい光が渡っていく、その下で
僕たちの顔はこぶしのように苦しく、開いている
「ああ、」の詠嘆がいい。特に、その読点「、」がまなまなしい肉体そのもののようで、ふいに中尾のからだがくっきり浮かび上がってくる。
この詩は
「うち、ずっとここにいたかった」
という「君」のことばから始まっているのだが、その最初の1行にも読点「、」があり、「僕」はその読点の呼吸を探して絶望の街をさまよっているという感じが、「ああ、」でピークに達する。そして、透明に、透明に、さらに透明に、つまりなまなましい肉体を地上に残して高く高く昇天していく感じがする。「ああ、」という詠嘆とともにある、せつない感情の透明さと、そのせつなさから取り残された肉体の、どうしようもない共存。「苦しみ」というのは、たしかに感情と肉体の不思議な齟齬のことなのだ。
齟齬はあらゆるところに存在する。
「甘蔓」と「排水」、「甦った街」と「汚い飯店」、「くさい」と「光」。そうした存在の間を、肉体を抱え、呼吸(読点「、」)をしながら動いていく。歩いていく。とぎれとぎれの呼吸は、どうしたって途中で「ああ、」と深く息を吐き出さずにはいられない。詠嘆せずにはいられない。息は、吐けば吐くほど、肉体の内部に深く溜まるものなのである。
1年も遅れて、この詩に出合う。その不思議さ。--年鑑、アンソロジーの意義は、こういうところにあるかもしれない。詩にしろ、他の様々な芸術作品にしろ、世界にあふれかえっている。読んでいないもの、見ていないもの、聞いていないもののの方が、自分で読んだもの、見たもの、聞いたものよりはるかに多い。あたりまえのことであるけれど。そういう作品、気づかずにいた作品を知るのは、とこも興奮する。
しばらく「現代詩手帖」のアンソロジーを読んでみようと思う。
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