詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「反復(1968)」より(1)中井久夫訳

2008-12-30 15:42:09 | リッツォス(中井久夫訳)
終わらない    リッツォス(中井久夫訳)
山に雲がかかった。誰がいけないって? 何だって? つかれて、黙り、
男は足許を見つめ、きびすを返し、歩き、腰を屈める。
石は下。鳥は上。水瓶は窓辺。アザミは谷。手はポケット。
口実。口実。詩は遅れる。空虚。
言葉の意味は言葉が隠すもので決まる。

 ことばはたしかに何かをあらわすために使うというよりも、何かを隠すためにつかうものかもしれない。
 詩において、何かを具体的に書きたいときでも、それはそのことばが他の何かをためにつかわれるということを「隠す」。つまり、限定する。ことばにはいろいろな意味があるのに、その意味のいくつかを隠すことで、ことばは突き進む。そして、隠しつづけて、いま、ここにないものにまでたどりつく。
 いま、ここに存在しないもののために、ことばは動く。詩は、動く。
石は下。鳥は上。水瓶は窓辺。アザミは谷。手はポケット。
 この単純な事実を述べることばは、何を隠しているのか。何を隠していると、読者は感じるか。何を感じると想定して、リッツォスはことばを書いているのか。
 私が感じるのは、いつも孤独なこころだ。リッツォスの孤独だ。石に、鳥に、水瓶に、アザミにこころを寄せる。そして、こころは下に、上に、窓辺に、谷へとさまよう。そこで、こころは石、鳥、水瓶、アザミ以外の何にも出会わない。孤独である。
 手は、ポケットのなかで何をつかんでいるのだろう。何を探しているのだろう。ポケットのなかにある手そのものを探している。手は、なぜ、ここにあるんだろう、と手のこころを探している。
 そんな孤独を思う。
 この孤独に、おわりはない。


コメント
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