詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

倉橋健一「誕生」

2008-12-29 08:48:07 | 詩(雑誌・同人誌)
倉橋健一「誕生」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 倉橋健一「誕生」の初出誌紙は「イリプスⅡnd」(創刊号、2008年04月)。
 書き出しがとても魅力的だ。

老いた駅夫がしわがれた声で駅名を連呼するが
木棚のところではじけとんで
こちらまでは届いて来ない
私はずっと前から
アブラゼミになったり
シオカラトンボになったり
ヒキガエルになったり
そのたんびに棲み分けながら

 夏の風景。光が見える。白い光だ。その白い光のように、人間の声がはじけとんでしまって、いま、ここに静寂がある。いや、沈黙がある。その沈黙は、人間の奥から、人間以前のものをすくい上げてくる。人間が沈黙するとき、いのちが声をあげるのだ。
 「アブラゼミ」「シオカラトンボ」「ヒキガエル」。そして、そういう「人間以前」をすくい上げながら、同時に「場」もすくい上げる。「そのたんびに棲み分けながら」と簡単に書いているのに、木が、風が、草むらが、泥が見える。匂う。それらか絡み合って、ひとつの風景になる。
 このいのちの増殖の引き金が「なる」(なったり)という動詞なのも、とてもいい。いのちの増殖は、いのちの運動(動詞)なのだ。
 あ、アブラゼミになってみたい、シオカラトンボになってみたい、ヒキガエルになってみたいと思う。そういういのちになると、何が見えてくるか。
 詩はつづいていく。

ただ周りは見渡すかぎり田畑で
山裾辺りにわずかに藁葺屋根の家があって

 高橋が書きたいことは、ほんとうは、私が引用している後の部分かもしれないが、私は、ここまでのリズムがとても好きなのだ。
 小さな生き物、そのいのちの視線が、しだいに人間の暮らしに近づいていく。「田畑」「藁葺屋根の家」。そういう風景の広がりが、いのちの営みの連続した広がりになって感じられる。
 こういう作品は、どうしても哲学的になっていく。
 その後半こそ、高橋の書きたいことなのだとは思うけれど、それは、ここでは省略。
 私は、井川博年の詩に触れたとき書いたように、たいへんな田舎で育ったので、哲学的なことばよりも、高橋がこの作品で書いているようないのちの運動の連続がそのまま人間の暮らしになっていくという「自然」がとても好きなのだ。なつかしく感じるのだ。
 高橋は夏の光を描写しているわけではないが、いのちを祝福する夏の光、天からまっすぐに降ってくる光が見えるようだ。あらゆる影を切り取って、いのちを光の中で、単独で存在させる夏。そのときの、孤独。至福。愉悦。どんないのちにでもなれる--そういう限りない可能性の時間。そういうものを感じさせることばのリズム。それに、私は烈しく揺さぶられた。



化身
倉橋 健一
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(8)中井久夫訳

2008-12-29 00:43:34 | リッツォス(中井久夫訳)
カルロヴァッシにおける死    リッツォス(中井久夫訳)

死んだ男とイコンは奥の部屋に安置された。女は男の上にかがみ込んだ。女も男も手を組み合わせていた。女には男の見分けが付かなかった。
彼女は腕をほどいた。もう一人の女が台所でサヤエンドウを湯がいていた。
鍋の沸騰する湯の音が死んだ男の部屋にどっと入って来た。長男が部屋に入った。あたりを見廻した。
のろのろと帽子を取った。最初の女は、できるだけ音を立てないように、
卵の殻をテーブルから集めてポケットに入れた。



 私は、こういう生活がきちんと書かれた作品が好きだ。生活をきちんとことばにして、そういうことばが詩になるのだと教えてくれる作品が好きだ。
 だれかが死ぬ。そういうときも、人の暮らしはつづいている。それは非情なことなのか、とけも情がこまやかなことなのか、よくわからない。よくわからないけれど、そういう時間がたしかに存在する。そして、それはことばになることを待っている。
 死とサヤエンドウを湯掻くという生活の出会い。そこに詩があるのだ。人間の淋しさがあるのだ。こういう出会いをみると、私は西脇順三郎を思い出す。淋しい。淋しい、ゆえに我あり、といった西脇を。その淋しさの美しさを。

鍋の沸騰する湯の音が死んだ男の部屋にどっと入って来た。長男が部屋に入った。あたりを見廻した。

 この文体も、私は非常に好きだ。森鴎外を思い出す。
 長男がドアを開けて部屋に入ってきた。そのために湯の音が聴こた、というのではない。湯の音に気がつく。気がついてみると、そこに長男が入ってきていた。そういう意識の動きを説明をくわえずに具体的に描く。説明を省略しているために、ことばが非常に速くなる。意識にではなく、肉体に直接何事かを知らせる。そういう強い文体に、とてもひかれる。(これは原詩の力というよりも、中井の訳の力かもしれない。中井の訳には漢文のスピードが非常に多く登場する。)
 説明がないからこそ、私たちは、「頭」を経由しないで、男の動き、その意味を肉体で知る。女の動きの意味を、「頭」を経由しないで、肉体で知る。そういうとき、肉体のなかに、死の記憶、誰かの死と立ち会ったときの記憶がくっきりと浮かび上がり、作品を、遠い世界のものではなく、自分の身近なものと感じる。
 肉体のことばで書かれた作品には、時空を超える力がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする