詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨恵子「二月の水」

2008-12-08 08:45:45 | 詩集
嵯峨恵子「二月の水」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 嵯峨恵子「二月の水」の初出誌は『悠々といそげ』(2007年12月発行)。この詩も、誰かを失った悲しみを書いている。

私の中に満ちてくる水があって
思わず苦笑する
頬のあたりに
冬の刃先を感じながら
並んだ裸木の間をぬっていく
ぬっていくしかなく
どのような祈りも
どれだけの言葉も
追いつけないところまで来てしまった
ねじれた風のゆくえに
水仙 フリージア 白梅
それらを愛したひとの
おどけた仕種を思い出す

 あるひと。そのひとが「水仙 フリージア 白梅/それらを愛した」ということを知っているくらい嵯峨はそのひとと親しいということだろう。そのひとを思うと、思いがけずに涙がこみあげてくる。その涙と「水仙 フリージア 白梅」が同じ水位で視界に浮かぶ。
 だが、私がこの詩を読んでいちばん印象に残ったことばは、その行ではない。後半に出てくる「二月」ということばだ。

二月
記憶のための刺
を逆立て
立ちつくしている季節
立ちつくしながら
私の中に
予兆のように
満ちてくる水があって

 嵯峨は、たぶん、「二月」よりももっとほかに書きたかったことばがあるかもしれない。「立ちつくす」ということばが繰り返されているが、何もできずただ立ちつくすしかない悲しみ--立ちつくすということばのなかに、何かを書きたかったのかもしれない。立ちつくすから、その水平の移動をやめた体の中を、水平ではなく、垂直に下から立ち上がってくる水。肉体の内部の、水平と垂直の交差--その感情の動きを書きたかったのかもしれない。そして、実際、そういう感情の動きはリアルに伝わってくるのだが、そういうリアルな感情をしっかり感じながらも、私はこの詩の中では「二月」という1行が好きだ。無造作に、ただ放り出された1行。それが大好きだ。
 「二月」に嵯峨がこの詩で書いている大事なひとは嵯峨のもとから去ったのだ。「二月」はどんなふうにも書き換えができない。涙を「私の中に満ちてくる水」というふうに書き換えることはできても「二月」は書き換えられない。「水仙 フリージア 白梅」はあるいは「モーツァルト セザンヌ サガン」であるかもしれないけれど(そういう可能性があるかもしれないけれど)、「二月」だけは「二月」以外にない。「一月」や「三月」ではだめなのだ。そういう絶対的なものとして、1行、なんの装飾もなくそこにある。
 ああ、嵯峨にとって「二月」は大切なことばなのだ。「そのひと」と同じ大切なものだ。「そのひと」と「二月」はぴったり重なり合う「ひとつ」のものなのだ。--その、ぴったりと重なり合った感じが、とても正直に伝わってくる。
 だから、私は、その「二月」という1行がこの詩のなかではいちばん好きだ。「二月」は植木信子「父」の「あの夏」と同じように強くこころに迫ってくる。



悠々といそげ
嵯峨 恵子
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(30)中井久夫訳

2008-12-08 01:25:27 | リッツォス(中井久夫訳)
熱  リッツォス(中井久夫訳)

岩。焔の真昼。大波。
海はわれわれを容赦しない。強い。やばい。上の方の路では
騾馬使いが叫んでいる。荷車には西瓜が満載。
それからナイフ。やわらかな切れ目。風。
赤い果肉と黒い種子。



 真夏の情景。夏には西瓜がうまい。そういう詩である。
 「騾馬使い」は「西瓜だよ、西瓜売りだよ」と叫んでいるのだろう。そして、やってきた人の前で西瓜を割って見せる。切って見せる。真夏の光の中で、赤と黒が強烈である。その赤と黒が強烈なのは、それより先に崖下の海が描かれるからである。岩。大波。そこにあるのは白と青。そういう強烈な色があって、赤と黒が強烈なになる。

 リッツォスの詩は、前半と後半では、しばしば主語が変わる。同じように、何か風景(情景)を描く場合でも、対象が変わる。この詩では海から西瓜へ変わっている。そういう変化を「騾馬使い」の存在によってスムーズにしている。「騾馬使い」はたぶんギリシアのありふれた日常なのだと思う。日常を間にはさみながら、世界を一気に違うものに変える。そういうところにリッツォスのひとつの特徴があると思う。



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