川上未映子「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」(「現代詩手帖」2008年12月号)
川上未映子「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」の初出誌は『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』(2008年01月発行)。
次のような部分が、私にはおもしろい。
ことばに省略がある。たとえば「トイレに三島を持って帰りにこの人、睨むはあっても睨まれがなかっのではないやろかと先端に話しかけてみる。」はトイレに三島由紀夫の小説(だろう)を持って入って、三島を読みながら用を足し、そのあと「三島の視点というのは睨むという行為はあっても、睨まれるという行為(?)はなかったのではないか」と考えるということだろうと思うのだが、そうすると「三島を持って/帰りにこの人」の、私が/を挿入した部分には「トイレに入り、用を足しながら、そこで三島を読んで、そのあと」ということが省略されていることになる。その省略されているのは、そして、なんといえばいいのだろうか、だれもがすることなのである。だれもがすることは書かずに省略して、だれもがしないこと、「わたし」(川上)だけがすることを、それだけを選んでことばにしている。
だれもがすることは、どうぞ勝手にだれもがすることを想像してください、と読者にゲタをあずけてしまっている。だが、そういうゲタをあずけてしまっているという印象を少しも残さず、ぐいぐいと、読者をひっぱっていく。
その省略のリズム、それがとても魅力的だ。
そしてそのリズムには、関西弁が深くかかわっている。トイレと三島の部分でも、「ほんなら」ということばが差し挟まれている。この「ほんなら」に誘われて、読者の肉体か動く。「トイレ」と「ほんなら」が一緒になっているので、読者もつられてトイレへ行ってしまう。トイレへ行くとき、長くなりそうだと本を持ち込み、読もうか……というような行為を思い出す。
関西弁は、とても肉体的なことばなのだ、と思う。
このことは、別な言い方をすれば、肉体がきちんと書き込まれているとき、ことばはどんなふうにも省略できるということだと思う。「頭」ではなく、「肉体」で書く。そのとき、ことばは肉体そのものに働きかける。
そして、そういうことばのあとに、たとえば観念的なことばがでてきたとしても、それは観念ではなく、肉体なのである。先の引用のつづき。
様式、様式美(川上は美様式と、おもしろい書き方をしている)も、「頭」ではなく、「肉体」と向き合うので、「出口をしこたま可愛がって抱きしめてやっぱ離さん」というセックスそのものへと楽々と変わっていく。そして、あ、そうだなあ、三島というのは一方的に見るばっかりのひとだったなあ、視覚から観念を育て上げる作家だったなあと、川上に誘われるままに納得してしまう。
関西弁というのは強いことばだなあ、とも思った。
川上未映子「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」の初出誌は『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』(2008年01月発行)。
次のような部分が、私にはおもしろい。
腎臓がわたしにしっかりとした意識を持ちやというので、わたしは泣きながらそれは出来ん不可、不可不可やと腰を持ちあげ布団に押しつければ女子の先端がずきずきと痛むのでトイレに出かけるのもおっくう、ほんならトイレに三島を持って帰りにこの人、睨むはあっても睨まれがなかっのではないやろかと先端に話しかけてみる。
ことばに省略がある。たとえば「トイレに三島を持って帰りにこの人、睨むはあっても睨まれがなかっのではないやろかと先端に話しかけてみる。」はトイレに三島由紀夫の小説(だろう)を持って入って、三島を読みながら用を足し、そのあと「三島の視点というのは睨むという行為はあっても、睨まれるという行為(?)はなかったのではないか」と考えるということだろうと思うのだが、そうすると「三島を持って/帰りにこの人」の、私が/を挿入した部分には「トイレに入り、用を足しながら、そこで三島を読んで、そのあと」ということが省略されていることになる。その省略されているのは、そして、なんといえばいいのだろうか、だれもがすることなのである。だれもがすることは書かずに省略して、だれもがしないこと、「わたし」(川上)だけがすることを、それだけを選んでことばにしている。
だれもがすることは、どうぞ勝手にだれもがすることを想像してください、と読者にゲタをあずけてしまっている。だが、そういうゲタをあずけてしまっているという印象を少しも残さず、ぐいぐいと、読者をひっぱっていく。
その省略のリズム、それがとても魅力的だ。
そしてそのリズムには、関西弁が深くかかわっている。トイレと三島の部分でも、「ほんなら」ということばが差し挟まれている。この「ほんなら」に誘われて、読者の肉体か動く。「トイレ」と「ほんなら」が一緒になっているので、読者もつられてトイレへ行ってしまう。トイレへ行くとき、長くなりそうだと本を持ち込み、読もうか……というような行為を思い出す。
関西弁は、とても肉体的なことばなのだ、と思う。
このことは、別な言い方をすれば、肉体がきちんと書き込まれているとき、ことばはどんなふうにも省略できるということだと思う。「頭」ではなく、「肉体」で書く。そのとき、ことばは肉体そのものに働きかける。
そして、そういうことばのあとに、たとえば観念的なことばがでてきたとしても、それは観念ではなく、肉体なのである。先の引用のつづき。
お話やお喋り親切こんなにもリズムでたのしいのにな、様式が美様式が出口をしこたま可愛がって抱きしめてやっぱ離さんのは誰のせいでもないんやろうけれど、編まれてゆくのはいつだって交渉ではなく告白やった、白の、橙の、濃紺の。
様式、様式美(川上は美様式と、おもしろい書き方をしている)も、「頭」ではなく、「肉体」と向き合うので、「出口をしこたま可愛がって抱きしめてやっぱ離さん」というセックスそのものへと楽々と変わっていく。そして、あ、そうだなあ、三島というのは一方的に見るばっかりのひとだったなあ、視覚から観念を育て上げる作家だったなあと、川上に誘われるままに納得してしまう。
関西弁というのは強いことばだなあ、とも思った。
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