詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川上未映子「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」

2008-12-13 11:44:29 | 詩集
川上未映子「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 川上未映子「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」の初出誌は『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』(2008年01月発行)。
 次のような部分が、私にはおもしろい。

 腎臓がわたしにしっかりとした意識を持ちやというので、わたしは泣きながらそれは出来ん不可、不可不可やと腰を持ちあげ布団に押しつければ女子の先端がずきずきと痛むのでトイレに出かけるのもおっくう、ほんならトイレに三島を持って帰りにこの人、睨むはあっても睨まれがなかっのではないやろかと先端に話しかけてみる。

 ことばに省略がある。たとえば「トイレに三島を持って帰りにこの人、睨むはあっても睨まれがなかっのではないやろかと先端に話しかけてみる。」はトイレに三島由紀夫の小説(だろう)を持って入って、三島を読みながら用を足し、そのあと「三島の視点というのは睨むという行為はあっても、睨まれるという行為(?)はなかったのではないか」と考えるということだろうと思うのだが、そうすると「三島を持って/帰りにこの人」の、私が/を挿入した部分には「トイレに入り、用を足しながら、そこで三島を読んで、そのあと」ということが省略されていることになる。その省略されているのは、そして、なんといえばいいのだろうか、だれもがすることなのである。だれもがすることは書かずに省略して、だれもがしないこと、「わたし」(川上)だけがすることを、それだけを選んでことばにしている。
 だれもがすることは、どうぞ勝手にだれもがすることを想像してください、と読者にゲタをあずけてしまっている。だが、そういうゲタをあずけてしまっているという印象を少しも残さず、ぐいぐいと、読者をひっぱっていく。
 その省略のリズム、それがとても魅力的だ。
 そしてそのリズムには、関西弁が深くかかわっている。トイレと三島の部分でも、「ほんなら」ということばが差し挟まれている。この「ほんなら」に誘われて、読者の肉体か動く。「トイレ」と「ほんなら」が一緒になっているので、読者もつられてトイレへ行ってしまう。トイレへ行くとき、長くなりそうだと本を持ち込み、読もうか……というような行為を思い出す。
 関西弁は、とても肉体的なことばなのだ、と思う。

 このことは、別な言い方をすれば、肉体がきちんと書き込まれているとき、ことばはどんなふうにも省略できるということだと思う。「頭」ではなく、「肉体」で書く。そのとき、ことばは肉体そのものに働きかける。
 そして、そういうことばのあとに、たとえば観念的なことばがでてきたとしても、それは観念ではなく、肉体なのである。先の引用のつづき。

お話やお喋り親切こんなにもリズムでたのしいのにな、様式が美様式が出口をしこたま可愛がって抱きしめてやっぱ離さんのは誰のせいでもないんやろうけれど、編まれてゆくのはいつだって交渉ではなく告白やった、白の、橙の、濃紺の。

 様式、様式美(川上は美様式と、おもしろい書き方をしている)も、「頭」ではなく、「肉体」と向き合うので、「出口をしこたま可愛がって抱きしめてやっぱ離さん」というセックスそのものへと楽々と変わっていく。そして、あ、そうだなあ、三島というのは一方的に見るばっかりのひとだったなあ、視覚から観念を育て上げる作家だったなあと、川上に誘われるままに納得してしまう。
 関西弁というのは強いことばだなあ、とも思った。






先端で、さすわさされるわそらええわ
川上 未映子
青土社

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リッツォス「証言B(1966)」より(35)中井久夫訳

2008-12-13 00:07:07 | リッツォス(中井久夫訳)
回想  リッツォス(中井久夫訳)

家が燃えた。虚ろな窓から空が見えた。
下の谷から葡萄摘みの声。遠い声だった。
ややあって、若者が三人、水差しをさげてやって来て、
新しい葡萄液で彫像を洗った。
イチジクを食べ、バンドを外して、
乾いた茨のなかに身を寄せ合って座り、
バンドを締めて去って行った。



 1行目と他の行との関係がわからない。わからないけれど、書き出しの1行を私はとても美しいと感じる。火事の家の描写が美しい。うっとりしてしまう。
 家が燃える。屋根が落ちたのだろうか。壁は立ったままで、そこには窓があって、その窓の、虚ろな穴の向こうに、真っ青な空が見える。その赤と青の対比。それが「虚ろ」ということばとともにある不思議さ。火の暴力。空気の、つまり風の高笑い。そして、青空の無関心。不思議な美しさがある。
 若者三人の美しさは、その火と、空気と、青空の絶対的な美しさに対抗しているのかもしれない。
 水差しの中にはぶどう酒。焼け残った彫像に、みそぎ(?)の酒をそそぎ、それから快楽にふける。飲んで、食べて、体を寄せ合って、何事もなかったかのように帰っていく。家が燃えたことなど、何の意味もない。

 他者を拒絶した美しさがある。いつのことを思い出しているのかわからないけれど、こういう他者を拒絶した回想は詩のなかにしか存在し得ない美しさだと思う。



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