今野和代『ニコラス・スレッジ・ブルース・マシーンを聴きながら』(思潮社、2008年10月30日発行)
詩の朗読を私は一度だけしたことがある。大失敗だった。1行だけ、会場にいるひとに読んでもらうことにしたのだが、その人がその1行だけではなく、その後も読んでしまって、収拾がつかなくなった。せっかく会場にひとがいるのだから、そのひとの声を取り込み交流をしなければ朗読の意味はないと私は思っていたのだが、うまくいかなかった。念入りにリハーサルをすればなんとかなるのかもしれないが、それでは異質なものがまぎれこむという感じはなくなり、結局、読む技術だけの勝負になる。それではおもしろくないだろうなあ、と思う。
今野和代の『ニコラス・スレッジ・ブルース・マシーンを聴きながら』は朗読した作品を一冊にしたものらしい。私は今野の朗読を聞いたことがないので、これから書くことは朗読詩に対する感想ではなく、あくまで書きことばの詩集を黙読したときの感想である。今野が読んでいるときに、どんなことが起きたのか、それを今野がどう取り込んで詩を動かしていったのか、そういうことはいっさいわからないままの感想である。ただし、私は、その作品が今野だけのパフォーマンスではなく、観客を取り込んでのパフォーマンスの「台本」と受け止めながら読んだ。
「破れガラス」という作品が私にはおもしろかった。
安部公房の「友達」のような作品である。誰かが今野を訪ねてくる。そして部屋に入り込み、眠る。そのひとの数がどんどん増えてくる。この状況を観客を動員しながらことばにするとおもしろいだろう。観客の反応によって、ことばをかえていかないと詩がつづかない、という形で展開するとおもしろいだろうと思う。
その途中。
詩の過程で、自分が「自分の知らない女にな」る。他人に「なる」。あ、いいなあ。詩とは本来自分であることを抜け出して他人になってしまうことである。自分が自分でなくなるためにことばを動かすのが詩である。その新しい自分が自分の望んでいた自分であるときは、まだ、自分を脱出したとは言えないかもしれない。他人の力で、他人と出会うことで、自分の望まない自分になってしまう。それを、そのままことばにして再現できたら、これは傑作だなあ。スリリングだなあ、と読んでいて、どきどきする。
この詩の中で、今野はもう一度変化する。
追い返した知らない人を追いかけて外へ出た瞬間、自分の部屋なのに閉め出されてしまう。部屋に入れなくなる。
詩の最後の部分。
どれが本当の自分?
わからなくなる。この瞬間がいい。自分を脱出するということは簡単ではない。いつだって自分を脱出することなんかできない。ただ自分が自分であるかどうかわからなくなる。それだけのことなのかもしれない。だが、その自分がどういう自分であるかわからないという「場」をくぐりぬけなければ、「思想」は身につかない。「思想」は肉体に放ってくれない。
こういう状況を、今野は「声」とともにつかんでいる。「声」で今野は自分を確認し、同時にとまどっている。ことば、ことばの内容ではなく、「声」が問題なのだ。この「声」へのこだわりがいい
「声」が今野にとっての「思想」なのだ。
結局、今野の詩は、実際に「声」を聞かない限り、どんな感想を書いても無効かもしれない。無効だろう。声が変わる瞬間を聞いてみたいものだ。
詩の朗読を私は一度だけしたことがある。大失敗だった。1行だけ、会場にいるひとに読んでもらうことにしたのだが、その人がその1行だけではなく、その後も読んでしまって、収拾がつかなくなった。せっかく会場にひとがいるのだから、そのひとの声を取り込み交流をしなければ朗読の意味はないと私は思っていたのだが、うまくいかなかった。念入りにリハーサルをすればなんとかなるのかもしれないが、それでは異質なものがまぎれこむという感じはなくなり、結局、読む技術だけの勝負になる。それではおもしろくないだろうなあ、と思う。
今野和代の『ニコラス・スレッジ・ブルース・マシーンを聴きながら』は朗読した作品を一冊にしたものらしい。私は今野の朗読を聞いたことがないので、これから書くことは朗読詩に対する感想ではなく、あくまで書きことばの詩集を黙読したときの感想である。今野が読んでいるときに、どんなことが起きたのか、それを今野がどう取り込んで詩を動かしていったのか、そういうことはいっさいわからないままの感想である。ただし、私は、その作品が今野だけのパフォーマンスではなく、観客を取り込んでのパフォーマンスの「台本」と受け止めながら読んだ。
「破れガラス」という作品が私にはおもしろかった。
安部公房の「友達」のような作品である。誰かが今野を訪ねてくる。そして部屋に入り込み、眠る。そのひとの数がどんどん増えてくる。この状況を観客を動員しながらことばにするとおもしろいだろう。観客の反応によって、ことばをかえていかないと詩がつづかない、という形で展開するとおもしろいだろうと思う。
その途中。
「ちょっと みなさん 勝手に人の部屋に入り込んで
どういうつもりですか
出ていってください!」
抗議をしている声が自分のしらない女になって金属音で響く
詩の過程で、自分が「自分の知らない女にな」る。他人に「なる」。あ、いいなあ。詩とは本来自分であることを抜け出して他人になってしまうことである。自分が自分でなくなるためにことばを動かすのが詩である。その新しい自分が自分の望んでいた自分であるときは、まだ、自分を脱出したとは言えないかもしれない。他人の力で、他人と出会うことで、自分の望まない自分になってしまう。それを、そのままことばにして再現できたら、これは傑作だなあ。スリリングだなあ、と読んでいて、どきどきする。
この詩の中で、今野はもう一度変化する。
追い返した知らない人を追いかけて外へ出た瞬間、自分の部屋なのに閉め出されてしまう。部屋に入れなくなる。
詩の最後の部分。
「ごめんなさい こんのが悪かったです 家に入ってください」
思い荷物を半分持って 戸をあけ 入ろうとすると
いつのまにか 中から閉じられてしまっていて開かない
ドアが壊れるくらい叩く
たちまち四肢は痛いほどしばれる寒気に襲われ始めた
このままでは凍え死んでしまう
「いいかげんにしてください あなたたちは大嫌い 人の気持ちに
つけこんで するってズカズカ入ってくる ここはホテルではありません」
憤慨した自分の声が戸の内側から聞こえてきた
どれが本当の自分?
わからなくなる。この瞬間がいい。自分を脱出するということは簡単ではない。いつだって自分を脱出することなんかできない。ただ自分が自分であるかどうかわからなくなる。それだけのことなのかもしれない。だが、その自分がどういう自分であるかわからないという「場」をくぐりぬけなければ、「思想」は身につかない。「思想」は肉体に放ってくれない。
こういう状況を、今野は「声」とともにつかんでいる。「声」で今野は自分を確認し、同時にとまどっている。ことば、ことばの内容ではなく、「声」が問題なのだ。この「声」へのこだわりがいい
「声」が今野にとっての「思想」なのだ。
結局、今野の詩は、実際に「声」を聞かない限り、どんな感想を書いても無効かもしれない。無効だろう。声が変わる瞬間を聞いてみたいものだ。
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