詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

今野和代『ニコラス・スレッジ・ブルース・マシーンを聴きながら』

2008-12-04 11:23:58 | 詩集
今野和代『ニコラス・スレッジ・ブルース・マシーンを聴きながら』(思潮社、2008年10月30日発行)

 詩の朗読を私は一度だけしたことがある。大失敗だった。1行だけ、会場にいるひとに読んでもらうことにしたのだが、その人がその1行だけではなく、その後も読んでしまって、収拾がつかなくなった。せっかく会場にひとがいるのだから、そのひとの声を取り込み交流をしなければ朗読の意味はないと私は思っていたのだが、うまくいかなかった。念入りにリハーサルをすればなんとかなるのかもしれないが、それでは異質なものがまぎれこむという感じはなくなり、結局、読む技術だけの勝負になる。それではおもしろくないだろうなあ、と思う。

 今野和代の『ニコラス・スレッジ・ブルース・マシーンを聴きながら』は朗読した作品を一冊にしたものらしい。私は今野の朗読を聞いたことがないので、これから書くことは朗読詩に対する感想ではなく、あくまで書きことばの詩集を黙読したときの感想である。今野が読んでいるときに、どんなことが起きたのか、それを今野がどう取り込んで詩を動かしていったのか、そういうことはいっさいわからないままの感想である。ただし、私は、その作品が今野だけのパフォーマンスではなく、観客を取り込んでのパフォーマンスの「台本」と受け止めながら読んだ。

 「破れガラス」という作品が私にはおもしろかった。
 安部公房の「友達」のような作品である。誰かが今野を訪ねてくる。そして部屋に入り込み、眠る。そのひとの数がどんどん増えてくる。この状況を観客を動員しながらことばにするとおもしろいだろう。観客の反応によって、ことばをかえていかないと詩がつづかない、という形で展開するとおもしろいだろうと思う。
 その途中。

「ちょっと みなさん 勝手に人の部屋に入り込んで
どういうつもりですか
出ていってください!」
抗議をしている声が自分のしらない女になって金属音で響く

 詩の過程で、自分が「自分の知らない女にな」る。他人に「なる」。あ、いいなあ。詩とは本来自分であることを抜け出して他人になってしまうことである。自分が自分でなくなるためにことばを動かすのが詩である。その新しい自分が自分の望んでいた自分であるときは、まだ、自分を脱出したとは言えないかもしれない。他人の力で、他人と出会うことで、自分の望まない自分になってしまう。それを、そのままことばにして再現できたら、これは傑作だなあ。スリリングだなあ、と読んでいて、どきどきする。
 この詩の中で、今野はもう一度変化する。
 追い返した知らない人を追いかけて外へ出た瞬間、自分の部屋なのに閉め出されてしまう。部屋に入れなくなる。
 詩の最後の部分。

「ごめんなさい こんのが悪かったです 家に入ってください」
思い荷物を半分持って 戸をあけ 入ろうとすると
いつのまにか 中から閉じられてしまっていて開かない
ドアが壊れるくらい叩く
たちまち四肢は痛いほどしばれる寒気に襲われ始めた
このままでは凍え死んでしまう
「いいかげんにしてください あなたたちは大嫌い 人の気持ちに
つけこんで するってズカズカ入ってくる ここはホテルではありません」
憤慨した自分の声が戸の内側から聞こえてきた

 どれが本当の自分?
 わからなくなる。この瞬間がいい。自分を脱出するということは簡単ではない。いつだって自分を脱出することなんかできない。ただ自分が自分であるかどうかわからなくなる。それだけのことなのかもしれない。だが、その自分がどういう自分であるかわからないという「場」をくぐりぬけなければ、「思想」は身につかない。「思想」は肉体に放ってくれない。

 こういう状況を、今野は「声」とともにつかんでいる。「声」で今野は自分を確認し、同時にとまどっている。ことば、ことばの内容ではなく、「声」が問題なのだ。この「声」へのこだわりがいい
 「声」が今野にとっての「思想」なのだ。

 結局、今野の詩は、実際に「声」を聞かない限り、どんな感想を書いても無効かもしれない。無効だろう。声が変わる瞬間を聞いてみたいものだ。




ニコラス・スレッジ・ブルース・マシーンを聴きながら―ポエトリー・リーディング詩集
今野 和代
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(26)中井久夫訳

2008-12-04 00:07:23 | リッツォス(中井久夫訳)
色彩について   リッツォス(中井久夫訳)

彼いわく、色を避けるべし。最後の最後に
せいぜい茶色、灰色。オフ・ホワイトの空間。
考え抜いたあげくに残った色。厳粛さ。だが、
彼の口は深紅色。薄い青みがかったモーヴ色の翳りが
下唇と顎の間に。



 カヴァフィスとリッツォスの違いはなんだろうか。こういう作品を読むと、必ずそう思ってしまう。
 男が男の肖像を描いている。その、モデルのとらえ方というより、モデルの対象そのものがたぶんカヴァフィスとリッツォスは違う。カヴァフィスの場合、もっと崩れている。なんというか、下卑たところがどこかにある。人を堕落させる生々しさがある。その堕落が、不思議に人間のいのちの生々しさ、生きている足掻きのようなものをを浮かび上がらせる。
 リッツォスには、そういう生々しさがない。(印象批評、記憶による感想でしかないのだが、そう思う。)
 最後の2行も、なんだか美しすぎる。人間を見ているというよりも、完璧な、すでに完成された絵を見ているような感じになってしまう。カヴァフィスだと、絵の印象は消え、生身の人間が浮かび上がってくるのだが。

 リッツォスは見ている人間、視力の詩人、カヴァフィスは触る人間、触覚の詩人なのかもしれない。
 視力と触覚の一番の違いは対象との距離である。見るためには対象から離れなければならない。触るためには対象に近付かなければならない。その距離の差が、孤独の差になってあらわれる。リッツォスの孤独は透明で冷たい。カヴァフィスの孤独は不透明で温かい。

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