詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言C(1966-67)」より(1)中井久夫訳

2008-12-18 01:24:45 | リッツォス(中井久夫訳)


古代ふうの動作  リッツォス(中井久夫訳)

一日中身体に泌み通る暑さ。馬たちがひまわりの傍で汗をかく。
風が立つ。午後には山から吹き降ろしがあるのだ。
永遠の同じくくぐもった音がオリーヴの茂みを通り抜ける。
湧井戸の傍の桑の木の下に低い丸椅子がある。
百歳にもなろうかという老婆が出て来た。その庭だ。
椅子に座る。古代ふうの動作で。
その前に黒い前掛けの埃をひょろ長い僧侶ふうの腕ではたく。



 午後のスケッチ。最初の2行が好きだ。人間とは違った生き物。馬。それが人間のように汗をかいている。汗という肉体の表現が、馬をとても近しいものにする。

風が立つ。午後には山から吹き降ろしがあるのだ。

 この行は感覚の動き、意識の動きをとてもすばやくスケッチしている。風を感じる。そして、そのあとに風がどういうものか説明しているのだが、「風が立つ」という短い表現が、はっと風に気がついたときの瞬間をきわだたせている。「午後、山から吹き降ろしの風が吹いてきた」では、風に気がついた瞬間のさわやかな感じは出ない。あくまで「風」、そしてその理由という順序がいい。

 清水哲男の「ミッキー・マウス」という詩のなかに、次の2行がある。

「ああ、くさがぬっか にえがすっと」
(ああ、草の暖かいがするぞ)     (「現代詩文庫」1976年06月30日発行)

 この標準誤訳(?)に対して、私は批判したことがある。「草の温かい匂いがするぞ」では、口語のリズムを壊している。感覚の動きを壊している、という批判である。あくまで、「草が温かい」と感じ、そのあとで「匂いがするぞ」というのが口語のリズム、肉体の感覚である。草に触れた瞬間「温かい」という感覚が瞬時にやってきて、そのあとで「温かさ」を感じた肉体が(温かさによって目覚めた肉体のなかの嗅覚が)、「匂いがするぞ」と感じたのである。「草の暖かい匂いがするぞ」では、「頭」が全体を整理してしまっていて、肉体の動きが疎外されている。

 「頭」ではなく、「肉体」そのものでことばを動かす。ことばをつかむ。リッツォスのことばは短いが、それは「頭」で書いているからではなく、「肉体」で詩を書いているからである。

コメント (1)
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