詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

目黒裕佳子『二つの扉』(1)

2008-12-23 14:15:57 | 詩集
 目黒裕佳子『二つの扉』(1)(思潮社、2008年11月30日発行)

 とても不思議な詩集である。とても魅力的である。巻頭の「雨」。全行。

キリンの首にからまってねむる。
雨をまってゐるのです、と、いったら、
それはよいことですね、と、
すこしわらって、からまってきた。
毛並みがすばらしく、なまあたたかいので、
すぐにすうっとねむくなる。
キリンの首はトントンとかすかにうっている。
ああ、ありがたいことです。
からまってゐた首は次第につよく、
からだをしめつけ、気も、
とほのく。
キリンがまたわらってゐるのが
ゴロゴロといふ首の様子でわかる。
雨が降ってきた。
もう、キリンとははなれられない、
そんな気がする。

 キリンの長い首を抱きしめ、キリンの首に抱かれて(?)、眠りたいという気持ちになってくる。
 「キリンの首はトントンとかすかにうっている。」「キリンがまたわらってゐるのが/ゴロゴロといふ首の様子でわかる。」--この2行の「首」の具体的な描写が美しい。首の血管の気配だろうと思うけれど、こんなふうに具体的に書かれると、キリンの首にさわったことのない私にも、キリンの首が、くっきりと「肉体」として感じられる。「肉体」に触れ合って、「肉体」であることを確かめるときの、気持ちよさ。安心感。それが伝わってくる。
 キリンとの会話(?)もすばらしく美しい。「雨をまってゐるのです」(私)「それはよいことですね」(キリン)。この、キリンの、さりげない肯定。「なぜ」とは問わない。「なぜ」と問うて、答えを引き出してみても、何の解決にもならない。そういうことがある。「なぜ」と問うても、その答えに満足できないことがあるだろうし、答える方も正確にはいえないこと、そしていいたくないこともあるかもしれない。だから、「なぜ」とは問わない。わからないことはわからないままでいいのだ。わからないまま、ただ、こうして同じ「肉体」を生きているということが、あたたかく、気持ちがいいのである。
 それは、この詩全体に対していえることでもある。
 「キリン」って、本物のキリン? それともなにかの比喩? それはつきつめてもわからないだろうと思う。そして、それがわからないということは、私には大事なこととは思えない。むしろ、わからないままにしておくことが大事だと思える。キリンは何かわからないけれど、その首の描写、首の中をながれる血管の音の描写、それがいつか聞いたことのある誰か(人間)の首の音のようななつかしさで肌に伝わってくる。その肌の感じ、肉体の感じをくっきり感じるためには、キリンがなんであるかは、むしろわからない方がいいように思える。キリンの首に身をまかせて、感じるしあわせ--首の中を流れる血管の音を聞くしあわせは、たぶん、それと同じものが自分の中にもあると感じるしあわせなのだ。
 私とはまったく別の生き物(キリン)と私は、そういう同じ「肉体」の何かを共有している。一緒に生きている。その感じさえ伝わればいいのである。



 どのことばも、私には、とても正直なことばに感じられた。「肉体」を通ってきたときだけに獲得できる正直さが、ひとつひとつのことばをしっかりと存在させている--そういう気がする。
 読みはじめたばかりだが、これは2008年の詩集のなかでもとてもすぐれた詩集だと思う。詩人の「質」というものを感じさせる詩集である。しばらく、この詩集を読みつづけたい。



二つの扉
目黒 裕佳子
思潮社

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リドリー・スコット監督「ワールド・オブ・ライズ」(★★★★)

2008-12-23 11:53:48 | 映画
監督 リドリー・スコット 出演 レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウ、マーク・ストロング、ゴルシフテ・ファラハニ、オスカー・アイザック

 この映画は人間を描くというよりも、「情報」を描いている。現代をとても象徴している。現代を象徴した映画である。
 俳優は一生懸命がんばってはいるが、その背景から「情報」を取り去ると、とてもつまらないものになる。レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウも単なる情報であって、人間ではないのである。レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウの活動ではなく、中東の街の様々な表情、空気の色、偵察衛星の映像、CIAが集めている情報、何台もの車、軍人、警官、テロリストの顔、顔、顔。そういうものが映像の奥で繋がって、映画に厚みをもたせている。映像は、そういう細部をしっかりと描いている。それらがどう繋がっているかという説明は省略しても、実際に見える「もの」の情報だけはふんだんにあふれかえさせている。テロリストの流す緊張した汗や、爆発、けがをした人々の悲惨な姿、壊れたビルがストーリーをつくる。あふれかえるものの情報が、かってに(?)といえるくらいに濃密なストーリーをつくる。レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウは、いわば脇役である。情報のひとつである。この映画は情報量の多さで、観客を圧倒するのである。それがこの映画のつくり方である。
 象徴的なのは、映画の最大の「嘘」に関係している。映画の中で、建築家がテロリストにでっち上げられる。建築家を偽のテロリストに選ばんだのはディカプリオを初めとする「人間」ではなく、コンピューターが蓄積しているデータである。ふんだんな「情報」を利用して、現実とは無関係にひとつの情報世界を作り上げてしまう。ニュースをつくりあげてしまう。そして、ひとは(ほんとうのテロリストも)、それに操られてしまう。人間と人間の関係よりも、ものの情報が世界の深部を構成し、関係を作り上げる。
 だからこそ、ラッセル・クロウがほとんどアメリカにいて、中東にいるディカプリオに指示を与えることができる。ものの情報は、「頭」のなかで簡単に距離を短縮する。現実の「距離」は関係がないのである。情報は情報とむすびついて、世界になる。
 そしてこの映画がおもしろいのは、そういうアメリカスタイルの「情報」ストーリーを展開する「場」が中東であるということである。「コーラン」などを読むとわかるが、アラブというのは「情報」を重視しない。というよりも、人間と人間の直接関係を(あるいは神と人間の直接関係を)大切にする。アラブのキーワードは「直接」なのである。実際、この映画でも、ヨルダンの諜報機関がとる方法は「直接」人間を利用するという方法であって、その点がアメリカスタイルとはまったく違う。アメリカスタイルでは中東の問題はけっして解決できない--ということまで、この映画は「情報」として提供している。だからこそ、現代を描いている、といえる。

 映画そのものは、情報の展開に忙しくて、人間そのものの味わいに欠けるけれど(「バンク・ジョブ」とはその点が違うが)、アメリカとアラブの世界観の違いをくっきり浮かび上がらせ、それを自然にテーマにしてしまうところは、とても興味深い。エンターテインメントなのか、政治告発なのか、という点が、まあ、あいまいではあるのだけれど。しかし、この濃密な情報量の映画というのは、やはりハリウッドならではなんだろうなあと思う。



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リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(2)中井久夫訳

2008-12-23 10:23:11 | リッツォス(中井久夫訳)
救済の途    リッツォス(中井久夫訳)

大嵐の夜に夜が続く。孤独な女は聞く、
階段を昇ってくる波の音を。ひょっとしたら、
二階に届くのでは? ランプを消すのでは?
マッチを濡らすのでは? 寝台までやって来るのでは?
そうなると、海の中でランプは、溺れた男の頭みたいになるでしょう。
ただ一つ黄色い考えしきゃ持たない男の--。このことが女を救う。
女は波が退く音を聞く。女はテーブルのランプを見つめる。
そのガラスは少し塩が付いて曇っていませんか?



 この作品も、前半と後半が違っている。違った印象を与える。
 前半は夜の描写。後半は女の空想。しかし、よく考えてみれば、前半も女の想像力の世界かもしれない。女は波を具体的に見ているわけではない。音を聞いて、その波が襲ってくることを想像しているだけである。「そうなると」以下も、空想という点ではおなじである。同じ空想なのに、なにかが違う。なにが違うのか。
 前半は、そこにあるもの、近くにあるものを想像している。それがどんな形をしているか、どこまで迫っているかを想像している。後半は「不在」を想像している。「溺れた男」は女の近くにはいない。ここにないもの、「不在」を想像していることになる。
 「不在」を想像することが、女を救っている。女の不安をやわらげるきっかけになっている。そして、その「不在」は「非在」でもある。存在しないだけではなく、存在し得ない。「海の中」の「ランプ」はもはや「ランプ」ではない。明かりを点すことができない。けれども、その「非在」を「存在」として人間は想像することができる。海なのかで、なお、黄色い明かりを点していることができるランプというものを人間は想像することができる。なにも見えないのに、ただ、黄色い光が見える。荒れ狂う海の中に、ランプが黄色く点っているのが見える。
 あ、これは素敵だ。
 この、現実には存在しないはずの、海のなかのランプを見ることができる、その不思議さが女を救済する。人間の想像力を楽しいものにする。海の中でランプが黄色く点っているなら、女はそのランプと一緒に生きることができる。男と向き合うように、ランプと向き合って。少しばかげた(?)考えを持っている男を楽しく見つめるみたいに、ランプと向き合って見つめることができる。
 これは楽しい空想である。
 この楽しい空想の出発点の、「そうなると、海の中でランプは、溺れた男の頭みたいになるでしょう。」がとても美しい。「そうなると、」という口語が楽しい。
 最終行も、とても美しい。「そのガラスは少し潮が付いて曇っていませんか?」の「いませんか?」という口語がやわらかくて、とても気持ちがいい。

 中井の訳は、ことばが自在である。漢語も出てくるが、この詩にあるように、口語のつかい方がとても気持ちがいい。口語が、深刻な状況、危険な状況(嵐)を、かるくいなしていく。「頭」で考えると、恐怖に陥ってしまうが、「肉体」で受け止めると、なんとかなるさ、という気持ちになる。
 「頭」(知)ではなく、なにか別のものが人間を最終的に救済するのだ、という感じがする。そういうきっかけのようなものを、私は、中井のつかう口語に感じる。

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