詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市「砂丘 S・N師を偲んで」

2008-12-16 10:48:36 | 詩(雑誌・同人誌)
 粕谷栄市「砂丘 S・N師を偲んで」の初出誌は「歴程」2008年02月号。
 ごくありふれたことばが、ある日、突然新鮮に見えるときがある。粕谷栄市「砂丘」にそれを感じた。

 静かな朝、紺碧の天の下で、白髪の老人が踊っているのを見るのは、いいものだ。それも、誰もいない砂丘で、ひそかに、ただ独り、踊っているのを見るのは。

 書き出しは、いつもの粕谷の詩である。ここに書かれている情景を「見る」ことがほんとうに「いい」ことかどうか、私はわからない。私の感覚では、むしろ、不気味である。この不気味な(粕谷によれば「いい」)光景は、いつもの粕谷のことばの運動にそって、徐々にかわっていく。
 ていねいにていねいに描けば描くほど、「現実」の様相とは違ってくる。

 既に、この世を去って久しいはずの彼が、そこでそうしているのを見ることができる者は、限られている。生涯のどこかで、彼と会い、親しく、ことばを交わしたことのある者である。
 その後、歳月を経て、思いがけなく、その彼を見ることがあるのだ。つまり、人々が夢と呼ぶ、日常を超えてやってくる、特別の時間のなかのことである。

 粕谷は「夢」の世界を描いている。そして、そういう「夢」を見ること、見ることがずきることを「いい」と言っているのである。不気味さが漂うのは(私が不気味に感じるのは、それが「現実」ではなく、夢だからである。)
 そして、そういうふうにていねいに「論理的」種明かしをしたあとに、信じられないくらい美しいことばが出てくる。誰でもがつかうのに、このことばはそんなふうにつかうのか、とうなってしまうような美しい形で、それはやってくる。

 その機会が、どうして、自分に訪れたのか、それは、わからない。自分が、どんな心の闇の旅をして、そこに辿りついたか、それも、わからない。
 ただ、永い歳月の後に、自分が、見知らぬ町から、遠く、砂の渚を歩いてきたことはわかる。今、その砂丘に立ち、非常に、淋しいものを見ていることはわかる。

 「淋しいもの」。「淋しい」。このひとことに、私は、全身を洗われたような、洗い清められたような、厳しい衝撃を受けた。「淋しい」とはこんなに美しいことばだったのか、と衝撃を受けた。
 「淋しいもの」を見ているとき、ひとは、その存在と同じように「淋しい」。ひとは、「淋しさ」を「淋しいもの」を見ることで確かめる。実感する。そのものと「一体化」して、「淋しさ」そのものになる。その一体感--それが、このことばのなかにある。
 粕谷は、夢で、砂丘にひとり踊っている老人を見るのではない。夢で、砂丘にひとり踊る老人になるのだ。その「淋しさ」と、何にも汚れぬ美しさ。「静かな朝、紺碧の天の下」。「天」は「そら」と読ませるのだろうけれど、こいう「淋しさ」には確かに「天」という文字が似合う。
 孤独には「天」が似合う。
 そして、「天」だけにかぎらず、ここにかかれていることばのすべてが、「淋しい」ということばと拮抗している。響きあっている。「淋しい」ということどは、まるで、広い宇宙の水面に投げ込まれた小さな小石であり、その小石の立てる小さな波紋がどこまでもどこまでも広がっていくというような感じなのだ。

 私は、詩の部分しか引用しなかった。ぜひ、全文を雑誌で読んでください。




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リッツォス「証言B(1966)」より(38)中井久夫訳

2008-12-16 00:09:59 | リッツォス(中井久夫訳)
怒り  リッツォス(中井久夫訳)

目を閉じて太陽に向けた。足を海に漬けた。
彼は己の手の表現を初めて意識した。
秘めた疲労は自由と同じ幅だ。
代議士連中が代わるがわる来ては去った。
手土産と懇願と、地位の約束とふんだんな利権とを持って来た。
彼は承知しないで足元の蟹を眺めていた。蟹はよたよたと小石によじのぼろうとしていた。
ゆっくりと、やすやすと信用しないで、しかし正式の登り方で。永遠を登攀しているようだった。
あいつらにはわかっていなかった。彼の怒りがただの口実だったのを。



 この詩のキーラインは3行目だ。「彼」は「自由」を味わっている。「自由」を味わうために、怒りをぶちまけるふりをして海へ逃れてきたのだ。
 やってきたのは「代議士連中」であるかは、どうでもいい。「代議士連中」は比喩かもしれないし、本物かもしれない。比喩にしても、実際に「代議士」と同じような権力者的な存在には違いないだろう。
 そして、「彼」の自由とは「蟹」になることだ。
 たった一匹で、誰にも頼らず石に登ろうとする蟹。たった一匹であることが「自由」なのだ。いまの「彼」のように。
 「彼」にとって登るべき小石が何かは、この詩では書かれてはいない。ただひとりであること、ただ一匹であることが、「彼」を「自由」にする。

 孤独と自由は、リッツォスにとって同義語かもしれない。

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