詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言B(1966)」より(34)中井久夫訳

2008-12-12 10:36:00 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス「証言B(1966)」より(34)中井久夫訳

儀式の後  リッツォス(中井久夫訳)

叫びに叫んだ。ざわめき。とりどりの色鮮やかな美しい衣裳。
すっかり忘我。目を挙げて見るのも忘れた。神殿の背の高い破風を。
つい一月前、足場を組んで職人が洗ったのを。だがあたりが暗くなり
ざわめきも静まった時、一番若いのがふらふらと皆を離れて、
大理石の階段を昇って独り高みに立った。儀式が朝にあった、今は無人の場所に。
彼の立ち姿(われわれは後に続いた。あいつより駄目に見えたくはなかった)。
端麗な容貌を微かに挙げ、六月の月光を浴びて破風の一部に見えた。
われわれは近寄って肩を組み、沢山の階段を下に降りた。
だが彼の雰囲気はまだ彼方のものだった。若い神々と馬の間の遠い大理石の裸像だった。



 儀式の後、その儀式にとりつかれた独りの若者が「神」になる。憑依。それを見る「われわれ」。
 最後の行は、どう読むべきなのか。
 「若い神々と馬の間の遠い大理石の裸像」。特に、その「神々と馬の間」をどう読むべきなのか。私は、半神半獣を思うのだ。「彼」は単なる「神」ではない。「半神半獣」なのだ。それはたぶん単純な「神」よりもはるかに尊い。「神」は「人間」に似ているが、「半神半獣」は「人間」には似ていないからだ。
 では、何に似ているのか。
 欲望に似ている、と私は思う。私たちの肉体の内部に眠っている欲望。いのちの欲望。その、形の定まらないざわめき。
 --ここから、詩は最初の1行に戻る。循環する。神話になる。
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渋田莉子「最高の運動会」

2008-12-12 10:34:32 | 詩(雑誌・同人誌)
渋田莉子「最高の運動会」(「朝日新聞」福岡版2008年12月12日)

 「小さな目」というこどもの詩を紹介するコーナーがある。その作品。後半部分。

もう少しで私の出番
心臓がバクバクして
じっとしてられなくなった
5m4m3mとせまってきた時
悠がこけてしまった
「もう少しでぬかせそう
だったのに」
でも悠はあきらめず
立ち上がってバトンを
わたしてくれた
絶対抜かしてやる
その心が熱い炎となり
燃えた
1人抜いて
アンカーにバトンをわたした
わたしにはあと応援すること
だけしかできない
心の底から応援した
結果は2位
6年生最後の
最高の運動会だった

 途中で、私は、不思議に興奮してしまった。

その心が熱い炎となり
燃えた

 この2行に感動してしまったのである。常套句である。こういうことばを、もし現代詩でみかけたとしたら、あるいは小説の中でみかけたとしたら、私は興奮はしない。感動はしない。興ざめする。しかし、この作品のなかでは興奮してしまった。
 「心があつい炎となり/燃えた」が最適のことばであるかどうかは、わからない。たぶん、もっとほかの表現の方がこどもらしい肉体をつたえられるかもしれない。しかし、渋田は、「心があつい炎となり/燃えた」と書く。
 書くことで、心をあつい炎にし、燃えさせている。
 あ、そうなのだ。ことばは、いつでも私たちより先にある。どんなことばもすでに存在している。その存在していることばを呼吸しながら、ひとはこころを育てている。ことばがなくては、こころは育たない。
 渋田にそういう自覚があるかどうかはわからないが、いま、ここで、この瞬間、渋田のこころが育っている。いままでとは違ったものになっている--そのことが、その2行から強く伝わってくる。そのことに興奮してしまった。

 こころは、そのあとにも登場する。

心の底から応援した

 ことばを得て、こころがこころになる。そういう瞬間がある。
 詩の、原型を見るような気がした。

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ベティナ・オベルリ監督「マルタのやさしい刺繍」(★★★★)

2008-12-12 00:12:06 | 映画
監督 ベティナ・オベルリ 出演 シュテファニー・グラーザー、ハイディ・マリア・グレスナー、アンネマリー・デュリンガー、モニカ・グブザー

 好きなシーンがいくつかあるが、一番好きなのは、シュテファニー・グラーザーが仲間の4人と街へ行くためにバスを待っているシーンだ。バスが近付く。4人は立ち上がる。しかし、バスはバス停に停車せず、通りすぎる。通りすぎてから、ブレーキをかける。4人は、とことこと歩きだす。
 バスの運転手は、まさか老人4人が街へ行くとは想像していない。でも、バックミラーに映った(?)4人を見て、はっと気がつく。あ、4人は街へ行くのだ。そして、とまる。そして4人を乗せて行く。
 これはシュテファニー・グラーザーが1人で街へ行くとき、もう一度繰り返されるシーンだ。
 このシーンが好きなのは、たぶん、このシーンが映画全体を象徴しているからだ。
 誰も老人が何かをしたいと思っている、夢を持っているとは想像していない。街へ行くということさえ、考えてもいない。なぜ、老人4人がわざわざバスに乗って街へ行く必要があるのか、なんて、考えもしない。村にいればいい、家にいればいい。そう考えている。だから、立ち上がっても、すぐにはその存在に気がつかない。--けれども、運転手は気がつく。あ、バスに乗るのだ、と気づいてブレーキをかける。そして、老人を待っている。
 この映画では、こうしたことが形をかえながら繰り返される。
 シュテファニー・グラーザーはレースのついた奇麗なランジェリーをつくりたいという夢を持っていた。それは田舎の村にはふさわしくない夢だった。夫が死んで、なにもすることがなくなって、シュテファニー・グラーザーは、その夢をもう一度追いかける。最初は誰もその夢に気がつかない。気がつかないだけではなく、気がついた人々は、ばかげたことだと否定する。ののしり、拒絶する。特に、シュテファニー・グラーザーに近しい人、たとえば牧師の息子が拒絶する。友人の、息子が否定する。年齢が近い世代が「いやらしい」と爪弾きにする。近付こうとしない。
 最初に、シュテファニー・グラーザーの才能に気づくのは、インターネットの向うにいる顔も知らなければ名前も知らない人である。それは、ある意味ではバスの運転手に似ている。土地のつながりにしばられていない人が、シュテファニー・グラーザーに気づくのである。映画の中で最初にシュテファニー・グラーザーを支えるのは、アメリカ帰りの女性というのも、この土地にしばられない関係を象徴している。
 「移動」と「距離」が、人間の魅力を受け入れる最初の要素なのだ。
 シュテファニー・グラーザーを受け入れる若い女性。娘たち。そこには「年代」の「距離」を超えるという美しいさも存在する。

 この映画には、ほんの少しだけ出て来るだけだか、インターネットの魅力に打つ汁ものをこの映画は提示している。「時間」「場所」という「距離」を超えて、人は夢をかなえる。シュテファニー・グラーザーの夢は、時空の距離を超えるインターネットがあったから実現した。そして、その時空を超えることは、いつだってできる。何かをやるのに遅すぎることはない。美しい才能は、時空を超えて花開く。頑張れ、お年寄りたち、と励ましている。そんなふうにも感じた。
 

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