詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

目黒裕佳子『二つの扉』(3)

2008-12-26 10:19:12 | 詩集
 目黒裕佳子『二つの扉』(3)(思潮社、2008年11月30日発行)

 詩集のタイトルとなっている「二つの扉」は非常に「広い」詩である。宇宙を感じる。しかも、その宇宙というのは、「空」の彼方ではないのだ。「物理」ではないのだ。
 私は、萩原朔太郎の「竹」を思い出した。この作品は、21世紀の「竹」である。

夜空の黒に 根をはる
夜の真空に向かって
その奥に向かって はる
無数の星屑に向かって
あのひとつの星に向かって はる

細らぬ根のさきに 青白い光の尽きるとき
<わたし>は逆さになって 泣く
幾光年もの隔たりのなかで
<わたし>といふ広がりのなかで
そして川床に泡を 吐く

 宇宙で逆立ちしてしまう<わたし>。遠い彼方へ根をはりながら、泣いている。その根の震え。それを一方で、目黒は「地上」で見ている。「肉眼」で、つまり「肉体」で見ている。宇宙で逆立ちしてしまう<わたし>は、現実の現象としてはありえない。だから、それを見つめるのは「肉眼」「肉体」でなければならない。「肉体」を持たないものは、つまり「頭」では、それは見つめることはできない。
 宇宙で逆立ちしてしまう<わたし>と「地上」の、いま、ここにある「肉体」としての<わたし>。それは向き合う鏡像のようなものである。その宇宙にある<わたし>と地上の<わたし>を、目黒は「向かひあふ/二つの扉」と書いているように、私には思える。
 詩の、つづき。

向かひあふ
二つの扉が 蝶つがひを緩めるとき
世界の草むらは薫る ゆっくりと
石はみづからを開き
びわの実は殴り合ふ

 宇宙の<わたし>は、いわば空想の<わたし>、架空の<わたし>である。その架空と、地上の本物の<わたし>。それが向き合い、架空・本物という関係を緩める。架空・本物という識別をしない。そのとき、世界が激変する。ふたつの関係を「混沌」としたものにしてしまうそのとき、その「混沌」こそが「宇宙」そのものになる。「宇宙」は空の彼方にあるのではなく、空の彼方と地上、架空と本物を結ぶ、その「間」のなかに出現する。
 「混沌」とは関係を放棄した世界である。関係を自在につくっていく「場」、生成の「場」になる。
 それは「無」に似ている。「無」としての「場」。だからこそ、そこでは固いはずの石も「みづからを開」ということが起きるのだ。なんでも可能なのだ。
 詩は、さらにつづく。

そのとき
この位置に なだれこむ見ず知らずのもの
細い根は
<わたし>の奥に至りつき 破き そっと
外側にでてゆく

開け放された
二つの扉のあひだには
誰ひとりゐなくなる
ただ時折 低い声で 詩が
ささやきあっている

 「無」の「場」。そこには「時」だけがある。(時間ではない。)そこでは生成だけがおこなわれるのである。生成にあわせ「時」は動き、その結果として「時間」が生まれるかもしれないが、それはあくまで結果であって、存在するのは「時」である。あらゆる変化をうけいれる「時」、そして、運動とともに広がる「場」。充実する「場」。
 その「時」を目黒は「詩」と呼んでいる。
 生成は、常に、何かを破壊してこそ生成である。もちろん、そこでは<わたし>も破壊される。(破られる。)そうすることで、<わたし>は<わたし>の外へ出ていく。<わたし>を超越する。そのときも、存在するのは、そういう生成の運動と、それを保証する「時」だけである。

 この、奥深い哲学を目黒はどこからつかんできたのか。どうして、この形で書き表せるとわかったのか。
 --私には、何もわからないけれど、ぶるぶると震えてしまう。
 なまなましく、そして、どこまでもどこまでも広い「宇宙」。肉体の中の「宇宙」。いや、肉体になった「宇宙」。

 これは、すごい。すごいとしか、いいようのない作品である。





二つの扉
目黒 裕佳子
思潮社

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リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(5)中井久夫訳

2008-12-26 00:32:47 | リッツォス(中井久夫訳)
顔か表看板か    リッツォス(中井久夫訳)

彼は言った、--この石の彫像は私が彫ったものだが、
ハンマーを使わず、素手のこの指で、この眼で、
素裸のわが身体で、私の口唇で彫ったので、
今では誰が私で誰が彫像か、分からなくなりました。

       彼は彫刻の陰に隠れた。
彼は醜い、醜い男だった。彼は彫刻を抱擁し、抱き上げ、腰の周りに手を廻して
一緒に散歩した。
       それから彼はこう言った。おそらくは
この像のほうが私でしょう。(実に素晴らしい像だった)。いや、この像は
独りで歩くのですとまで言った。だが誰が信じるか、彼を?



 どんな作品であれ、つくられたものは作者を代弁する。そこには作者が含まれている。いや、含むのではなく、作者そのものである。鑑賞者にとってだけではなく、作者にもそういえる場合がある。作品がすべてである。作品以外に「私」といないのだ、と。リッツォスは、彫刻家に託して、そういう「人間」(芸術家)を描いている--という「意味」を主体にして読んでしまうと、この作品は、ただそれだけでおわってしまう。
 それでもいいのだろうけれど、何か、そういう「意味」で作品を読んでしまうと、「おもしろい」という部分がなくなってしまう。と、私には思える。 

 私がおもしろいと思うのは、たとえば3行目の「私の口唇で彫ったので、」という「口唇」ということばである。くちびるで石を彫るということは、現実にはできない。そのできないことをリッツォスは書いている。同じようなことばが2行目にある。「この眼で」彫った。「眼」でももちろん石を彫るということはできない。しかし「眼」で彫るといった場合、口唇で彫るというときほど違和感はない。たぶん、眼が見たまま、眼の見たものを彫ったという意味で、「眼で彫る」という言い方は可能だからである。その「文法」を流用すれば「口唇で彫る」とは「口唇で味わったもの」を彫るということかもしれない。「口唇」が味わいたいものを彫るということかもしれない。
 ナルシシズム。--私は、ナルシシズムを感じる。それも、非常に肉感的なナルシシズムである。ナルシスのように「眼」だけで「美」を感じるのではない。肉体全体で味わうナルシシズムを感じる。官能的なナルシシズムだ。
 そして、それ、石像ではなく、ナルシシズムは、たしかに「独りで歩く」かもしれないとも思う。
 --と書いてしまうと、また別の「意味」があらわれてしまうので、どうもいやな気持ちになる。
 私は、この詩では3行目の「口唇で彫った」ということばはとても好きだ。そのことばにうっとりしてしまった、とだけ書けばよかったのかもしれない。

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