目黒裕佳子『二つの扉』(3)(思潮社、2008年11月30日発行)
詩集のタイトルとなっている「二つの扉」は非常に「広い」詩である。宇宙を感じる。しかも、その宇宙というのは、「空」の彼方ではないのだ。「物理」ではないのだ。
私は、萩原朔太郎の「竹」を思い出した。この作品は、21世紀の「竹」である。
宇宙で逆立ちしてしまう<わたし>。遠い彼方へ根をはりながら、泣いている。その根の震え。それを一方で、目黒は「地上」で見ている。「肉眼」で、つまり「肉体」で見ている。宇宙で逆立ちしてしまう<わたし>は、現実の現象としてはありえない。だから、それを見つめるのは「肉眼」「肉体」でなければならない。「肉体」を持たないものは、つまり「頭」では、それは見つめることはできない。
宇宙で逆立ちしてしまう<わたし>と「地上」の、いま、ここにある「肉体」としての<わたし>。それは向き合う鏡像のようなものである。その宇宙にある<わたし>と地上の<わたし>を、目黒は「向かひあふ/二つの扉」と書いているように、私には思える。
詩の、つづき。
宇宙の<わたし>は、いわば空想の<わたし>、架空の<わたし>である。その架空と、地上の本物の<わたし>。それが向き合い、架空・本物という関係を緩める。架空・本物という識別をしない。そのとき、世界が激変する。ふたつの関係を「混沌」としたものにしてしまうそのとき、その「混沌」こそが「宇宙」そのものになる。「宇宙」は空の彼方にあるのではなく、空の彼方と地上、架空と本物を結ぶ、その「間」のなかに出現する。
「混沌」とは関係を放棄した世界である。関係を自在につくっていく「場」、生成の「場」になる。
それは「無」に似ている。「無」としての「場」。だからこそ、そこでは固いはずの石も「みづからを開」ということが起きるのだ。なんでも可能なのだ。
詩は、さらにつづく。
「無」の「場」。そこには「時」だけがある。(時間ではない。)そこでは生成だけがおこなわれるのである。生成にあわせ「時」は動き、その結果として「時間」が生まれるかもしれないが、それはあくまで結果であって、存在するのは「時」である。あらゆる変化をうけいれる「時」、そして、運動とともに広がる「場」。充実する「場」。
その「時」を目黒は「詩」と呼んでいる。
生成は、常に、何かを破壊してこそ生成である。もちろん、そこでは<わたし>も破壊される。(破られる。)そうすることで、<わたし>は<わたし>の外へ出ていく。<わたし>を超越する。そのときも、存在するのは、そういう生成の運動と、それを保証する「時」だけである。
この、奥深い哲学を目黒はどこからつかんできたのか。どうして、この形で書き表せるとわかったのか。
--私には、何もわからないけれど、ぶるぶると震えてしまう。
なまなましく、そして、どこまでもどこまでも広い「宇宙」。肉体の中の「宇宙」。いや、肉体になった「宇宙」。
これは、すごい。すごいとしか、いいようのない作品である。
詩集のタイトルとなっている「二つの扉」は非常に「広い」詩である。宇宙を感じる。しかも、その宇宙というのは、「空」の彼方ではないのだ。「物理」ではないのだ。
私は、萩原朔太郎の「竹」を思い出した。この作品は、21世紀の「竹」である。
夜空の黒に 根をはる
夜の真空に向かって
その奥に向かって はる
無数の星屑に向かって
あのひとつの星に向かって はる
細らぬ根のさきに 青白い光の尽きるとき
<わたし>は逆さになって 泣く
幾光年もの隔たりのなかで
<わたし>といふ広がりのなかで
そして川床に泡を 吐く
宇宙で逆立ちしてしまう<わたし>。遠い彼方へ根をはりながら、泣いている。その根の震え。それを一方で、目黒は「地上」で見ている。「肉眼」で、つまり「肉体」で見ている。宇宙で逆立ちしてしまう<わたし>は、現実の現象としてはありえない。だから、それを見つめるのは「肉眼」「肉体」でなければならない。「肉体」を持たないものは、つまり「頭」では、それは見つめることはできない。
宇宙で逆立ちしてしまう<わたし>と「地上」の、いま、ここにある「肉体」としての<わたし>。それは向き合う鏡像のようなものである。その宇宙にある<わたし>と地上の<わたし>を、目黒は「向かひあふ/二つの扉」と書いているように、私には思える。
詩の、つづき。
向かひあふ
二つの扉が 蝶つがひを緩めるとき
世界の草むらは薫る ゆっくりと
石はみづからを開き
びわの実は殴り合ふ
宇宙の<わたし>は、いわば空想の<わたし>、架空の<わたし>である。その架空と、地上の本物の<わたし>。それが向き合い、架空・本物という関係を緩める。架空・本物という識別をしない。そのとき、世界が激変する。ふたつの関係を「混沌」としたものにしてしまうそのとき、その「混沌」こそが「宇宙」そのものになる。「宇宙」は空の彼方にあるのではなく、空の彼方と地上、架空と本物を結ぶ、その「間」のなかに出現する。
「混沌」とは関係を放棄した世界である。関係を自在につくっていく「場」、生成の「場」になる。
それは「無」に似ている。「無」としての「場」。だからこそ、そこでは固いはずの石も「みづからを開」ということが起きるのだ。なんでも可能なのだ。
詩は、さらにつづく。
そのとき
この位置に なだれこむ見ず知らずのもの
細い根は
<わたし>の奥に至りつき 破き そっと
外側にでてゆく
開け放された
二つの扉のあひだには
誰ひとりゐなくなる
ただ時折 低い声で 詩が
ささやきあっている
「無」の「場」。そこには「時」だけがある。(時間ではない。)そこでは生成だけがおこなわれるのである。生成にあわせ「時」は動き、その結果として「時間」が生まれるかもしれないが、それはあくまで結果であって、存在するのは「時」である。あらゆる変化をうけいれる「時」、そして、運動とともに広がる「場」。充実する「場」。
その「時」を目黒は「詩」と呼んでいる。
生成は、常に、何かを破壊してこそ生成である。もちろん、そこでは<わたし>も破壊される。(破られる。)そうすることで、<わたし>は<わたし>の外へ出ていく。<わたし>を超越する。そのときも、存在するのは、そういう生成の運動と、それを保証する「時」だけである。
この、奥深い哲学を目黒はどこからつかんできたのか。どうして、この形で書き表せるとわかったのか。
--私には、何もわからないけれど、ぶるぶると震えてしまう。
なまなましく、そして、どこまでもどこまでも広い「宇宙」。肉体の中の「宇宙」。いや、肉体になった「宇宙」。
これは、すごい。すごいとしか、いいようのない作品である。
二つの扉目黒 裕佳子思潮社このアイテムの詳細を見る |