詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

目黒裕佳子『二つの扉』(2)

2008-12-24 09:13:15 | 詩集
 目黒裕佳子『二つの扉』(2)(思潮社、2008年11月30日発行)

 目黒裕佳子のことばは私の知らない世界から響いてくる。そして、知らないはずなのに、とてもなつかしい。「鬼の子守唄」という作品。

子守唄が呪ひのごとく聴こえた夜
わたしはすっかり目をさまし
まるで世界中でもっとも覚醒した子供のやうに
鬼退治にでかけた

 火が
燃えてゐた
重たい雪のどっしり降る夜ふけ
燃えてゐたのは
雪だった

雪のまはりを
数百匹の鬼たちがうろついて
あんなに鬼のゐるくせに あたりはしんしん静まって
あんなに燃えてゐるくせに あたりはしんしん寒かった

 昔物語のような夢。夢のような物語。--これが、なつかしく感じるのは、そのことばが肉体を通っているからである。「声」になっているからである。「頭」で動いてしまう「文字」ではなく、喉という「肉体」を通って動く声になっているからである。
 旧かなづかいで書かれているけれど、ことばのリズムは口語である。口語のなかの、口語でありながらやはり日本語は日本語の肉体のままにきちんと活用するということを踏まえて動いていくリズム。それが、不思議に、ぴったり息があっている。(これは、ほんとうは不思議なことではなく、自然なことであり、新式?のかなづかいが日本語の肉体を壊したということなのかもしれないけれど。)
 とても読みやすいだけではなく、思わず、そのことばを繰り返して読んでしまう。

あんなに鬼のゐるくせに あたりはしんしん静まって
あんなに燃えてゐるくせに あたりはしんしん寒かった

 こういう行に会うと、私は、もう夢中になってしまう。何度も何度も、その行を繰り返して読んでしまう。私は音読はしないけれど、目で読むだけなのだけれど、喉が無意識に動いている。舌が無意識に動いている。耳が、肉体の中でなっている音を聞いている。

 作品の後半。

 鬼が
鬼のなかを出入りし
わたしのなかを出入りし
その激しさに
目を眩ませたまま

 鬼が
わたしを抱きとめた

 その鬼が
寡黙に降りつづける
夜が
いとほしかった

 うらごゑの鬼たち
 眼をあけた子どもたち
 夜たち

 書かれている内容は(意味は?)、子どもの昔話の領域を超えるのだけれど(きのう取り上げた「キリン」と「鬼」は似ているかもしれない)、子どもと大人(?)をつらぬいて存在する「肉体」の何かとつながっている。子どもと大人の肉体はまったく別だけれど、それは切れ目なくつながって「ひとり」になる。その「ひとり」になる感じが、ことばのなかに残っている--と、私には感じられる。
 この子どもと大人をつらぬいて「ひとり」であることの不思議さ、ことばでは追いきれない何かが、目黒のことばからはあふれている。正しい(?)ことばではいえないことがある。間違った(?)ことばが偶然つかんでくるものもある。たとえば「キリン」ということばが、なぜか動物の「キリン」を超えるものをつかんでくることがある。「鬼」もおなじである。そして、その間違いと正しいのあいだにあるひとつづきのものというのは、どこかで子どもと大人のあいだにあるひとつづきのものと似ていると私は思う。そのおなじものを目黒のことばは、とても自然につかまえてきている。それがあまりに自然なために、どこから分析すれば(?)、解説すれば(?)、目黒のことをきちんと伝えられるのか、私には、まだ見当がつかない。
 だから、ただ繰り返していうしかない。おもしろい。不思議だ、と。
 「鬼たち」「子どもたち」「夜たち」。
 あ、「夜たち」。
 なんという楽しい日本語。とても自然に出てくる文法やぶりのことば。文法やぶりなのに、きちんとことばが描き出すものがわかる不思議さ。
 いいなあ。




二つの扉
目黒 裕佳子
思潮社

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リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(3)中井久夫訳

2008-12-24 00:10:20 | リッツォス(中井久夫訳)
海について   リッツォス(中井久夫訳)

誇らしいほれぼれする器用な包丁捌きで
波止場で大魚を切る。
頭と尾を海に投げる。
血が板をポタポタ伝って光る。
足も手も真赤になる。
女たちが囁き合う--、「あの赤い包丁、
あの子の黒い瞳に似合うわ、赤と黒と赤、ね」
波止場の上の狭い通りでは
漁夫の子たちが煤けた古い竿秤りで
魚と石炭の重さを計っている。



 魚を捌く少年(?)を描いている。タイトルは「海について」。海そのものというより、海とともにある生活--それを含めて、海と考えるということだろう。
 少年をみつめる「女たち」。女たちは少年よりも年上である。年上の女性の余裕が少年を冷酷に、残酷に、つまり生々しく自分たちの生活に引きつけた上で、じっくり眺めている。こうした女たちの視線はリッツォスの詩では珍しいと思う。
 そういう生々しい肉体的な感じと、同じ時間に、同じ場所で、少年たちが家の手伝いをしている別の描写も描かれる。そうすることで、海の暮らし、漁師の街の暮らしが、強い日差しの中にくっきりと浮かんで見える。
 なつかしいような、かなしいような気持ちになってくる。そのかなしみというのは、たぶん、どの国にも共通する「暮らし」に基づくものだと思う。



 この詩は、中井久夫から預かった原稿の中で、もっもと「書き直し」の多いものである。私が先に引用したものは、ワープロの文字を手書きで推敲したものである。推敲のあとのある作品である。
 手書きの推敲が入らないものを引用する。

誇らしいほれぼれする器用な包丁捌きで
彼は波止場で大魚を切った。
頭と尾を海に投げた。
血が板をポタポタ伝って光った。
彼は足も手も真赤になる。
女たちは囁き合った--、「あの赤い包丁、
あの子の黒い瞳に似合うわ、赤と黒と赤、ね」
波止場の上の狭い通りでは
漁夫の子たちが煤けた古い竿秤りで
魚と石炭の重さを計っていた。

 過去形「……した」がすべて現在形「……る」に変わっている。「彼は」という主語が省略されている。
 これはとても興味深い翻訳である。
 私は原詩を知らないのだが、「……る」と現在形にすることで、情景がなまなましくなる。そして、そのなまなましさが女たちの「ささやき」(うわさ)にぴったり合う。また「彼は」を省略することで、魚を捌いている人間の年齢があいまいになる。「彼は」という主語があったときは、たぶん「彼」を「少年」とは思わない。終わりから2行目に出てくる「漁夫の子」とは年齢の違った青年を想像するだろうと思う。女たちがうわさしている男が「青年」か「少年」かというのは、とても大事なことだ。「青年」だと、あまりおもしろくない。「ささやき」が卑近になってしまう。「少年」だと、おなじようになまなましくても、すこし距離が出てくる。そして、その距離がここに描かれている暮らしを清潔にする。

 リッツォスの詩は、私にはどれもとても清潔に感じる。そして、その清潔さは、この詩にあるような距離が生み出している。人間と人間が存在するとき、そのふたりのあいだにある「空気」の隔たり、その距離が人間の思いを洗い流し清潔にするように思われる。


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