詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言B(1966)」より(24)中井久夫訳

2008-12-02 00:25:23 | リッツォス(中井久夫訳)
宵   リッツォス(中井久夫訳)

彼女は花に水をやった。バルコニーから垂れる雫の音に耳を澄ました。
床板は水を吸って腐っていた。
明日バルコニーが壊れても、彼女はそのまま宙に浮かんでいるでしょう。
美しく物静かに、ゼラニュームの大きな鉢を二つ腕に抱えて微笑みながら。



 リッツォスにはときどき、こういう不思議な詩がある。前半と後半が「主語」が違っている。前半の2行の「主語」は「彼女」である。彼女は花に水をやりながら、その水の音を聞いている。床が腐っていると感じている。
 後半は、その彼女を見ている別のひとが主語である。彼女の美しさに見とれている。そして、その姿は、彼にとって永遠である。明日、そこに彼女がいようがいまいが、彼にはいつでも花といっしょに彼女がいる。「宙に」浮かんでいる。それは、彼女の、永遠の美としてのイメージなのだ。

 ギリシア語はわからないが、この中井の訳は絶妙である。たぶん、ギリシア語の詩よりも中井の訳の方が面白いとさえ言えると思う。
 日本語の文章は主語がなくてもいい。1行目。「バルコニーから垂れる雫の音に耳を澄ました。」の主語は、私は「彼女」だろうと推測して読みはじめるが、日本語の場合、そこに「彼は」という主語を補っても不自然ではない。1行目から、すでに「彼」は登場してきていると読むこともできる。水の音に耳を澄まし、それから、「彼」は床板が腐っていると推測する。その推測をさらにふくらませて、その床が崩れ落ち、彼女は墜落する。死亡する。それでも、「彼」には彼女が見える。彼女が好きだから。花に水をやる彼女が、花の鉢を抱える彼女が好きだから。

 こういう夢想・妄想が成立し得るのは、1行目の「耳を澄ました」の主語を省略しているからである。主語の省略があって、はじめて、この夢想がスムーズに動く。
 リッツォスの詩はことばが切り詰められている。中井の訳は、そのことばをさらに切り詰め、そうすることでリッツォスを追い越している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐佐木朋子「鶴見和子 在りし日の恋」

2008-12-02 00:23:49 | その他(音楽、小説etc)
「朝日俳壇歌壇」の「うたをよむ」というコラムで、佐佐木朋子が「鶴見和子 在りし日の恋」という文を書いている。鶴見和子の歌は、佐々木が紹介している限りでは、私にはそんなにおもしろくない。おもしろく感じたのは佐佐木の「読み方」である。

<創作ノート>を参照しながら、一つの恋の物語を読んでみたい。

春立てば佳き物語よむに似てよみがえりくる遠き日の想い

 <ノート>には02年2月6日の日付がある。恋の歌かどうかは定かではないが、過去の或(あ)る「感情」が今では穏やかで懐かしい「思い出」になっていることが伺(うかが)える。

 「恋の歌かどうかは定かではないが、」「一つの恋の物語を読んでみたい。」あ、いいなあ。ことばを読むとは、結局、自分の「読んでみたい」物語を探すことなのである。作者が書きたかったかどうかは二の次、それが自分の読みたいものに合致するかどうかが大切なのだ。

 それは別のことばでいえば、自分の、ことばにならない思いを他人のことばによってすくい取ることだ。誰にでも、言いたくても言えないことばがある。自分の肉体にしみついていればいるほど、それはことばにならない。もやもやした思いだけが満ちてくる。

 他人のことばは、自分の肉体とは距離がある。その、距離、少しだけ離れているものが、自分の体から何かをすくいだしてくれる。一種の客観視(?)の力で、自分が見えるのだ。

 最後の部分。


時代は様々な別れをつきつけたはずだが、その後鶴見和子が開拓した普遍性を見る時、岐路の一方に立っていた人のひたすらな重さを思わずにいられない。

 佐佐木という歌人を私は知らないが、きっと、いくつかの岐路があったのだろう。そこには恋がからんでいたのだろう。佐佐木は鶴見の歌に託して、佐佐木自身の恋の物語を思い出しているのだろう


山姥―歌集
鶴見 和子
藤原書店

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする