宵 リッツォス(中井久夫訳)
彼女は花に水をやった。バルコニーから垂れる雫の音に耳を澄ました。
床板は水を吸って腐っていた。
明日バルコニーが壊れても、彼女はそのまま宙に浮かんでいるでしょう。
美しく物静かに、ゼラニュームの大きな鉢を二つ腕に抱えて微笑みながら。
*
リッツォスにはときどき、こういう不思議な詩がある。前半と後半が「主語」が違っている。前半の2行の「主語」は「彼女」である。彼女は花に水をやりながら、その水の音を聞いている。床が腐っていると感じている。
後半は、その彼女を見ている別のひとが主語である。彼女の美しさに見とれている。そして、その姿は、彼にとって永遠である。明日、そこに彼女がいようがいまいが、彼にはいつでも花といっしょに彼女がいる。「宙に」浮かんでいる。それは、彼女の、永遠の美としてのイメージなのだ。
ギリシア語はわからないが、この中井の訳は絶妙である。たぶん、ギリシア語の詩よりも中井の訳の方が面白いとさえ言えると思う。
日本語の文章は主語がなくてもいい。1行目。「バルコニーから垂れる雫の音に耳を澄ました。」の主語は、私は「彼女」だろうと推測して読みはじめるが、日本語の場合、そこに「彼は」という主語を補っても不自然ではない。1行目から、すでに「彼」は登場してきていると読むこともできる。水の音に耳を澄まし、それから、「彼」は床板が腐っていると推測する。その推測をさらにふくらませて、その床が崩れ落ち、彼女は墜落する。死亡する。それでも、「彼」には彼女が見える。彼女が好きだから。花に水をやる彼女が、花の鉢を抱える彼女が好きだから。
こういう夢想・妄想が成立し得るのは、1行目の「耳を澄ました」の主語を省略しているからである。主語の省略があって、はじめて、この夢想がスムーズに動く。
リッツォスの詩はことばが切り詰められている。中井の訳は、そのことばをさらに切り詰め、そうすることでリッツォスを追い越している。
彼女は花に水をやった。バルコニーから垂れる雫の音に耳を澄ました。
床板は水を吸って腐っていた。
明日バルコニーが壊れても、彼女はそのまま宙に浮かんでいるでしょう。
美しく物静かに、ゼラニュームの大きな鉢を二つ腕に抱えて微笑みながら。
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リッツォスにはときどき、こういう不思議な詩がある。前半と後半が「主語」が違っている。前半の2行の「主語」は「彼女」である。彼女は花に水をやりながら、その水の音を聞いている。床が腐っていると感じている。
後半は、その彼女を見ている別のひとが主語である。彼女の美しさに見とれている。そして、その姿は、彼にとって永遠である。明日、そこに彼女がいようがいまいが、彼にはいつでも花といっしょに彼女がいる。「宙に」浮かんでいる。それは、彼女の、永遠の美としてのイメージなのだ。
ギリシア語はわからないが、この中井の訳は絶妙である。たぶん、ギリシア語の詩よりも中井の訳の方が面白いとさえ言えると思う。
日本語の文章は主語がなくてもいい。1行目。「バルコニーから垂れる雫の音に耳を澄ました。」の主語は、私は「彼女」だろうと推測して読みはじめるが、日本語の場合、そこに「彼は」という主語を補っても不自然ではない。1行目から、すでに「彼」は登場してきていると読むこともできる。水の音に耳を澄まし、それから、「彼」は床板が腐っていると推測する。その推測をさらにふくらませて、その床が崩れ落ち、彼女は墜落する。死亡する。それでも、「彼」には彼女が見える。彼女が好きだから。花に水をやる彼女が、花の鉢を抱える彼女が好きだから。
こういう夢想・妄想が成立し得るのは、1行目の「耳を澄ました」の主語を省略しているからである。主語の省略があって、はじめて、この夢想がスムーズに動く。
リッツォスの詩はことばが切り詰められている。中井の訳は、そのことばをさらに切り詰め、そうすることでリッツォスを追い越している。