詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

植木信子「父」(「現代詩手帖」2008年12月号)

2008-12-07 08:52:28 | 詩集
 植木信子「父」の初出誌は『その日--光と風に』(2007年12月発行)。その書き出し。

父はシャツとサンダルで
わたしたちが寝ている部屋の窓から見えるように歩いていた
時の重みの地層や湧きでる汗や熱
父に繋がるチチハハの祖父母の聞きとれない叫びが 父の
肩に置かれていたが陽は明るかった

 父を思い出している詩である。植木が父に対して特別な思いを抱いていることは、たとえば「時の重みの地層」というような表現からも窺い知ることができる。
 「時の重みの地層」と言われてもなんのことかさっぱりわからないが、そのさっぱりわからないこと(誰か、わかるひとがいるだろうか)を書かずにはいられないほどの思いが植木にはあるということだろう。植木は、そして、その「時の重みの地層」に「祖父母」を重ね合わせていることは、わかるにはわかるが、この「わかる」は推測できるということのほどのことであって、正直に言えば、なんだこれは、というところである。
 このあとも、なんだ、これは、という表現がつづいていく。たぶん、植木は、私がなんがこれは、と思っていることをこそ書きたいのだと思うのだが、その書きたい気持ちはわかるけれど、私はやっぱりなんだこれは、と思うしかない。そこには植木の思い入れがあまりにも濃く出ていて、なんだか重たい。読んだ後、その重たさが残っていて、ちょっとうんざりする。
 それでも、私はこの詩について感想を書いておきたい。書かずにはいられない。そういう思いを引き起こす行がある。

あの夏
みんな若く元気だった
時の爪 天の斧 地のうねりは父を去らせ
姉は応用に秋の初めに逝き
平成十九年七月
小さくも美しい建物は倒壊した
陽は軽やかにあの朝 父の肩を差していた
今 思う
あの建物には情熱が 辛苦が込められていた

 「あの夏」「今 思う」。その2行に、私は、はっと胸をつかれた。この作品の「思想」はそこにある。「あの夏」「今 思う」。何を思ったかは重要ではない。植木は思った内容(意味)が重要だと感じて、たとえば「時の重みの地層」とか「時の爪」「天の斧」というようなことを書くのだが、そういうことを読者はほとんど覚えていられない。(頭のいい読者はきちんと覚えているだろうし、その覚えていることを元にして詩を評価するだろうが、私は、そういうことは読んだ先から忘れてしまう。)私にわかるのは、植木が、「あの夏」のことを「今 思う」という行為だけである。
 あ、そうなんだ。植木にとっては、「あの夏」がとても大切だったんだ。それを、「いま」「思う」(思っている)。そのことに胸をつかれる。

 「あの夏」も「今 思う」も特別なことばではない。誰でもがつかうことばである。けれども、そういうことばにこそ、「思想」はあふれている。「思想」というのはとても大切なことである。そういう大切なことは、ややこしいことば、むずかしいことばでは抱えきれない。ずーっともちつづけることができない。単純な、だれもがつかうことばを掘り下げて行って、それが純粋なものになったとき、そこに思想があらわれる。肉体になる。
 植木は、今、あの夏のことを思っている。あの夏の父のことを思っている。そのことを、「思っている」ということがこの詩の思想なのである。
 それを思うのは、それが、もうここにはないからだ。今、ここにない。だから、思うのだ。「あの夏」、それが存在したことを思えるのだ。「今 思う」というのは、強烈な思想である。存在論に触れる思想である。それが肉体として、この詩の中にはある。 




その日―光と風に
植木 信子
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(29)中井久夫訳

2008-12-07 00:07:43 | リッツォス(中井久夫訳)
残骸  リッツォス(中井久夫訳)

おれにゃ何もない。おれは何も思い出せない。そう彼は言った。
季節を送り迎えした。あせた色ばかり。
真昼の果物の腐りゆく匂い。目を刺す白い漆食いのギラツキ。
ある晩、きみがマッチを擦った時、きみの耳の下にちらりと小さな影が見えた。
あの影。これだけ。
後はもう、樹の下を吹く風が遠く吹き飛ばしてしまった。
紙ナプキンと葡萄の葉といっしょに--。



 この詩の構造は「老漁夫」に似ている。「おれ」とは「彼」である。そして、「彼」とは実は「私」なのである。(「老漁夫」が結局は街でみかけた老漁夫というよりも、老漁夫に託されたリッツォスであるように。)
 「私」を「彼」と第三者のように描く。「彼」には「私」が投影されているのである。そんなふうにして、リッツォスは自分を自分から分離して眺める。自分を「ふたつ」にする。投影した影と、それをみつめる詩人とに。
 自分が体験したことを「私」を主人公にして書くにはつらすぎる。だから、それを他人に起きたことのようにして書く。
 --ただそれだけではないかもしれない。
 リッツォスの生きた時代が、ここに反映しているかもしれない。内戦のギリシア。そこでは自分が経験したことを自分の感じたこととして書くのは危険なことかもしれない。また、友人に起きたことを友人の体験として書くことも危険かもしれない。誰でもない存在。架空の第三者の体験として書くことしかできないかもしれない。そういうもどかしさ、そういうさびしさ。そのなかで、ふるえる孤独なこころが、いつでもリッツォスのことばの中にあるのかもしれない。

ある晩、きみがマッチを擦った時、きみの耳の下にちらりと小さな影が見えた。

 それにしても、なんと美しい1行だろう。他者を、それも自分にとっての大切な他者をそういう細部でしっかりとつなぎとめる。世界に存在させる。世界には大きな力が暴れまわっている。その力に消されてしまう小さな存在。その小ささの中にある美。その美とふれあうこころの、その悲しみ。孤独。透明な透明な抒情。清潔な抒情。



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