詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清水昶「アデンアラビア」、和合亮一「黄河が来た」

2008-12-15 12:40:13 | 詩集
清水昶「アデンアラビア」、和合亮一「黄河が来た」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 清水昶「アデンアラビア」の初出誌は「ユリイカ」2008年01月号。
 なつかしい抒情がある。「友だち」ということば。友人でも知人でもなく、「友だち」。その音の響き。リズム。このことばの大切な音は「だ」である。濁音。そして「あ」という一番大きな母音。その組み合わせが、この詩の抒情をつくっている。
 1連目。

アデンアラビアの 彼の
二十歳の死の青春は戦争で完了した
その後ぼくは友だちと
理屈抜きで随分酒を飲んだりもした

 清水昶はもともと「意味」ではなく、音、音楽でことばを動かす詩人である。「アデンアラビア」は、2行目の「二十歳の死」と組み合わせて考えればポール・ニザンから借りてきたことばであると思うが、なぜそのことばを借りてきたかといえば、「アデンアラビア」が日本語にはない音楽、リズムを持っているからである。それにあわせて清水は詩を書きはじめる。そして、「アデンアラビア」の音楽にあわせて「友だち」ということばが選ばれる。「アデン」のなかには「だ」と通い合うだ行の濁音がある。そして、「友人」でもなく「知人」でもなく、「友だち」ということばを無意識に選びとったときに、そこに抒情が入り込む。なつかしい青春。取り戻すことのできない青春という抒情が。清水は、いまも、その青春を詩の出発点としている。
 「アデンアラビア」のなかにあるもうひとつの音、音楽。「ら行」。それは1行目の「彼」のなかにひっそりと登場したあと、2行目「完了」のなかできっちりしめくくる。青春も抒情にも「おわり」が必要だが、「完了」という強いことばと、そのなかにある音楽が、この詩の場合、絶対必要なものである。「完了した」ということばが「友だち」とともに抒情をくっくりと浮かびあがらせるのだ。
 2連目、3連目と清水は抒情に酔うようにことばを動かしていく。自分で書いたことばに酔いながら、そのことばの向うへ行く--音楽が主旋律を出発点として自立して動くように、清水のことばは自立して動いていくような感じがする。その自立の感じ、人間にしばられず(頭にしばられず)動いていくその動きが清水の詩の一番の魅力だと思う。
 2連目の書き出し。

その友だちも
次々と死んで逝った
女友達は肉体を輝かせぬままにね 

 「死んで」「逝った」ということばの重複。清水は、ことばの意味など気にしない。音楽と、それから文字(漢字の美しさ)だけを重視している。その美の運動にすべてをあずける。その特徴があらわれた行だ。3行目の「輝かせぬままにね」も「輝」という文字、その音にひかれて、書かされたことばだろう。そこに清水の意識は入っていない。無意識はもちろん含まれるが、清水は、そういうことばを「頭」では書いていない。だから、とても不思議な美しさがある。
 3連目にも、似たことばがある。

真夜中
真水のように目覚めていると

 「真水のように」という比喩には意味がない。意識がない。「頭」がそのことばを欠かせたのではなく、「真夜中」という音の響き、その文字が「真水」を呼び出したのである。清水の無意識から。
 こういうことばの運動を、私はとても美しいと思う。

 美しいと思うが、とても危険だとも思う。無意識がときどき奇妙なものにひっぱられるからである。
 3、4連目は次のようになっている。

真夜中
真水のように目覚めていると
誰かの悲鳴が聞こえてくる
この道はいつか来た道……
ではない

いま日本人は颱風の眼の中にいる
一歩 外へ出れば
この世の地獄……
ひたひたと六道の辻あたりから
子守唄を口ずさみながら
何か死よりも
恐ろしいものが
やって来る

 「死」「戦争」は1連目にすでに登場していることばである。1連目には意味はなかった。1連目には音楽しかなかった。音楽が美の基本だった。それが3連目の途中から音楽ではなく、意味が動きはじめる。
 こういう意味の動き方は危険である。
 清水が書いていることは重要なことであるけれど、そういうことばを動かしていくには、最初から音楽を排除して、つまり人を無意識の内に酔わせる要素を排除して、しっかり「頭」を目覚めさせておかなければならない。絶対に音楽にならない工夫が必要だと思う。ことばに酔わせるのではなく、ことばに考えさせる。
 清水には、そういう意識はないように思える。「地獄」「六道の辻」「子守唄」。それらのことば、うわずっている。まだ音楽であろうとして、逆に和音を乱している。
 3連目の「この道は……」という、常套句から、清水の詩は破綻しはじめ、4連目で崩壊している、というのが私の印象である。「何か死よりも/おそろしいもの」という行が象徴的である。「何か」ではなくて、それを具体的なことばで提示できなければ詩ではないだろう、と思う。



 和合亮一「黄河が来た」の初出誌は「読売新聞」2008年01月22日。

来た 黄河が来た
天井や床下や手のひらに来た
驚くほどの水が流れて来た 生命が
大空と大海とを またぎ越して来た

 和合は清水のように「何か」とは書かない。「黄河」とはっきり書いている。それが清水と和合を明確に分ける。
 「黄河」って何? 中国の川のこと? そんなものが、どうやってやって来る? という質問はぐもんである。ここには「黄河」と書かれているが、「黄河」は「黄河」そのものであって、同時に「黄河」ではないからだ。「黄河」でありながら「黄河」ではない。というのは「矛盾」である。矛盾だから、そこに詩がある。矛盾でしか言えないもの、書けないものがある。書こうとすると、矛盾してしまうものがある。それをむりやり書いてしまうのが詩である。わざと、矛盾したまま、書くのである。
 矛盾は読者を不安にさせる。こは、いったい、何? 何が書いてあるかわからない。もしかしたら、私は頭が悪い? そうじゃなくて、和合がまともな論理を、意味を、書けなくなっている? そんなものを読んでいて、私は大丈夫?
 ほら、変でしょ? どうしていいか、わからないでしょ?
 和合は、わざと、そういう変な感じを引き起こしているのである。それが詩だからである。どこにもないもの、いままで存在しなかったもの、それをあらわすために、わざと、ことばを不安定にしている。意味を剥奪し、放り出して見せる。そして、ことばが、どこまで動いていけるか、読者に代わって実演して見せる。
 3連目がとても美しい。

 僕らの子どもは
 黄色い運命
 可愛らしいこの頬
 妻の心臓を流れる黄河に
 かつて僕は祈った
 生まれてこい 強く
 優しく 派手に

 特に「派手に」が美しい。輝いている。このことばにたどりつくために「黄河」が必要だったのだとわかる。意味はない。「派手に」ということばに「黄河」が流れ着いたとき、「黄河」は「黄河」を超越する。そして和合と一体化する。
 1連目が、突然、輝きだす。もう一度、引用しよう。

来た 黄河が来た
天井や床下や手のひらに来た
驚くほどの水が流れて来た 生命が
大空と大海とを またぎ越して来た

 この一体感は、とてもすばらしい。美しいとしか言いようがない。



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リッツォス「証言B(1966)」より(37)中井久夫訳

2008-12-15 00:38:15 | リッツォス(中井久夫訳)
最初の喜び  リッツォス(中井久夫訳)

誇り高い山々。カリドロモン。イテ。オスリス。
こごしい岩。葡萄の樹。小麦。オリーヴの茂み。
ここは石切り場だった。昔の海の引いた跡だ。
陽に灼けた乳香木のいつい香り。
樹脂が塊になって滴っている。
大きい夜が上から降りて来る。あそこだ、あの山稜のあたりだ、
まだ少年のアキレスが、サンダルを履こうとして、
かかとを掌に包み、あの特別の快楽を感じたところは--。
水鏡に己の姿を見て一瞬こころここにあらずになった。それから
気を取り直して鍛冶屋に楯を注文に行った。
彼には今分かった、形が隅々まで。楯に色々な情景が描かれていた。
等身大で。



 この作品もまた前半と後半でことばの動きが違う。描いている世界が変わる。前半は自然の情景。そして、後半は人間がつくりだした光景である。こころの動きが世界をかえてしまう。
 「特別な快楽」について、この作品は具体的には書いていない。ギリシア神話に詳しいひとならアキレスのエピソードのいくつかを思い出すだろうか。一番有名なのはアキレス腱のエピソードだろうか。不死のはずが、母がかかとをにぎっていたために、そこだけ不死の水に浸されず、死の原因になった。
 そうすると、この「快楽」は「死の快楽」ということになるだろうか。誰でもが死ぬ。死ぬことができるという快楽。逆説としての快楽。そうであるなら、水鏡に映った己の姿とは死んで行く姿だろう。死んで行く己を見るというのも、不死を約束されたはずの人間には快楽かもしれない。知らないこと、体験できないはずのことを体験できる、不思議な快楽、絶対的な快楽。その瞬間、アキレスはアキレスを超越する。アキレス自身を超えて存在してしまう。
 そして、わかったのだ。楯に描かれている戦場の詳細が。戦場の情景のすべてが。
 「等身大で」というのは、実際にその大きさというよりも、比喩だろう。「等身大」の大きさで、歴史が、つまりこれから起きることが分かったということだろう。

 その瞬間にも、山々はおなじ姿をしている。岩も葡萄もオリーヴも。だからこそ、人間の悲劇が美しく輝く。

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ファビアン・オンテニアンテ監督「ディスコ」(★★)

2008-12-15 00:36:33 | 映画
監督 ファビアン・オンテニアンテ 出演 フランク・デュボスク、エマニュエル・べアール、ジェラール・ドパルデュー、サミュエル・ル・ビアン

 40歳をすぎた中年の男3人が「サカデー・ナイト・フィーバー」を再現する。主人公の夢、イギリスにいる息子とオーストラリアへ旅行するという夢のために。ディスコ大会で優勝すれば航空券が手に入るのである。
 ストーリーもチープだし、映像もチープだし、見ていて、とても退屈する。ただし、主人公のフランク・デュボスクだけは奇妙におもしろい。
 フランク・デュボスクを見るのは、私は初めてである。
 美男子ではない。目に特徴がある。映画のなかでも、エマニュエル・べアールが「みみずくみたいな目」と呼んでいるが、まっすぐに、無心に、みつめかえす目である。とても純粋で、濁りをいっさい感じない。
 シャイではあるけれど、テレがない。
 あまりに純粋な目なので、彼の頼みは断われない。彼に頼まれれば何かをしなければならない。そういう気持ちにおこさせる目である。その目の力で(?)、仲間を巻き込み、エマニュエル・べアールを巻き込み、古くさいダンスを今風にかえていく。最初は、フランク・デュボスクと距離をとって、巻き込まれないようにしているのだが、知らずに、フランク・デュボスクに対してシャカリキになっていってしまう。フランク・デュボスク自身いろいろなことをするのだが、それ以上に、周囲が一生懸命になる。他人の一生懸命を引き出す目なのである。
 見ていて、演技なのか、地なのか、わからない。しかし、この他人をシャカリキにさせる目というのはいいものだ。他人のために何かをするというのはとても楽しいことかもしれない。しかも、相手が、フランク・デュボスクのように、彼等は自分のために何かをしてくれているという気持ちもないまま、ただ自分がしたいからそうしていると人間だったら、その何かをするということは、結局自分自身のためにすることになるからだ。
 フランク・デュボスクはディスコ大会で優勝する。3人組で踊ったのに、彼だけが息子とオーストラリアへ行く。そのことに対して、誰も不満を言わない。当然のことと思っている。彼にオーストラリア旅行をプレゼントするために3人で踊ったのだからといえばそれまでだが、この「無償」の感じがとても自然な人間の行為に見えてくるのは、フランク・デュボスクの目の力による。

 ばかばかしいストーリー、チープな感じが漂う小品なのだが、なぜか、奇妙な味わいが残る。フランス映画はときどきこんな不思議な作品を生み出す。


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