清水昶「アデンアラビア」、和合亮一「黄河が来た」(「現代詩手帖」2008年12月号)
清水昶「アデンアラビア」の初出誌は「ユリイカ」2008年01月号。
なつかしい抒情がある。「友だち」ということば。友人でも知人でもなく、「友だち」。その音の響き。リズム。このことばの大切な音は「だ」である。濁音。そして「あ」という一番大きな母音。その組み合わせが、この詩の抒情をつくっている。
1連目。
清水昶はもともと「意味」ではなく、音、音楽でことばを動かす詩人である。「アデンアラビア」は、2行目の「二十歳の死」と組み合わせて考えればポール・ニザンから借りてきたことばであると思うが、なぜそのことばを借りてきたかといえば、「アデンアラビア」が日本語にはない音楽、リズムを持っているからである。それにあわせて清水は詩を書きはじめる。そして、「アデンアラビア」の音楽にあわせて「友だち」ということばが選ばれる。「アデン」のなかには「だ」と通い合うだ行の濁音がある。そして、「友人」でもなく「知人」でもなく、「友だち」ということばを無意識に選びとったときに、そこに抒情が入り込む。なつかしい青春。取り戻すことのできない青春という抒情が。清水は、いまも、その青春を詩の出発点としている。
「アデンアラビア」のなかにあるもうひとつの音、音楽。「ら行」。それは1行目の「彼」のなかにひっそりと登場したあと、2行目「完了」のなかできっちりしめくくる。青春も抒情にも「おわり」が必要だが、「完了」という強いことばと、そのなかにある音楽が、この詩の場合、絶対必要なものである。「完了した」ということばが「友だち」とともに抒情をくっくりと浮かびあがらせるのだ。
2連目、3連目と清水は抒情に酔うようにことばを動かしていく。自分で書いたことばに酔いながら、そのことばの向うへ行く--音楽が主旋律を出発点として自立して動くように、清水のことばは自立して動いていくような感じがする。その自立の感じ、人間にしばられず(頭にしばられず)動いていくその動きが清水の詩の一番の魅力だと思う。
2連目の書き出し。
「死んで」「逝った」ということばの重複。清水は、ことばの意味など気にしない。音楽と、それから文字(漢字の美しさ)だけを重視している。その美の運動にすべてをあずける。その特徴があらわれた行だ。3行目の「輝かせぬままにね」も「輝」という文字、その音にひかれて、書かされたことばだろう。そこに清水の意識は入っていない。無意識はもちろん含まれるが、清水は、そういうことばを「頭」では書いていない。だから、とても不思議な美しさがある。
3連目にも、似たことばがある。
「真水のように」という比喩には意味がない。意識がない。「頭」がそのことばを欠かせたのではなく、「真夜中」という音の響き、その文字が「真水」を呼び出したのである。清水の無意識から。
こういうことばの運動を、私はとても美しいと思う。
美しいと思うが、とても危険だとも思う。無意識がときどき奇妙なものにひっぱられるからである。
3、4連目は次のようになっている。
「死」「戦争」は1連目にすでに登場していることばである。1連目には意味はなかった。1連目には音楽しかなかった。音楽が美の基本だった。それが3連目の途中から音楽ではなく、意味が動きはじめる。
こういう意味の動き方は危険である。
清水が書いていることは重要なことであるけれど、そういうことばを動かしていくには、最初から音楽を排除して、つまり人を無意識の内に酔わせる要素を排除して、しっかり「頭」を目覚めさせておかなければならない。絶対に音楽にならない工夫が必要だと思う。ことばに酔わせるのではなく、ことばに考えさせる。
清水には、そういう意識はないように思える。「地獄」「六道の辻」「子守唄」。それらのことば、うわずっている。まだ音楽であろうとして、逆に和音を乱している。
3連目の「この道は……」という、常套句から、清水の詩は破綻しはじめ、4連目で崩壊している、というのが私の印象である。「何か死よりも/おそろしいもの」という行が象徴的である。「何か」ではなくて、それを具体的なことばで提示できなければ詩ではないだろう、と思う。
*
和合亮一「黄河が来た」の初出誌は「読売新聞」2008年01月22日。
和合は清水のように「何か」とは書かない。「黄河」とはっきり書いている。それが清水と和合を明確に分ける。
「黄河」って何? 中国の川のこと? そんなものが、どうやってやって来る? という質問はぐもんである。ここには「黄河」と書かれているが、「黄河」は「黄河」そのものであって、同時に「黄河」ではないからだ。「黄河」でありながら「黄河」ではない。というのは「矛盾」である。矛盾だから、そこに詩がある。矛盾でしか言えないもの、書けないものがある。書こうとすると、矛盾してしまうものがある。それをむりやり書いてしまうのが詩である。わざと、矛盾したまま、書くのである。
矛盾は読者を不安にさせる。こは、いったい、何? 何が書いてあるかわからない。もしかしたら、私は頭が悪い? そうじゃなくて、和合がまともな論理を、意味を、書けなくなっている? そんなものを読んでいて、私は大丈夫?
ほら、変でしょ? どうしていいか、わからないでしょ?
和合は、わざと、そういう変な感じを引き起こしているのである。それが詩だからである。どこにもないもの、いままで存在しなかったもの、それをあらわすために、わざと、ことばを不安定にしている。意味を剥奪し、放り出して見せる。そして、ことばが、どこまで動いていけるか、読者に代わって実演して見せる。
3連目がとても美しい。
特に「派手に」が美しい。輝いている。このことばにたどりつくために「黄河」が必要だったのだとわかる。意味はない。「派手に」ということばに「黄河」が流れ着いたとき、「黄河」は「黄河」を超越する。そして和合と一体化する。
1連目が、突然、輝きだす。もう一度、引用しよう。
この一体感は、とてもすばらしい。美しいとしか言いようがない。
清水昶「アデンアラビア」の初出誌は「ユリイカ」2008年01月号。
なつかしい抒情がある。「友だち」ということば。友人でも知人でもなく、「友だち」。その音の響き。リズム。このことばの大切な音は「だ」である。濁音。そして「あ」という一番大きな母音。その組み合わせが、この詩の抒情をつくっている。
1連目。
アデンアラビアの 彼の
二十歳の死の青春は戦争で完了した
その後ぼくは友だちと
理屈抜きで随分酒を飲んだりもした
清水昶はもともと「意味」ではなく、音、音楽でことばを動かす詩人である。「アデンアラビア」は、2行目の「二十歳の死」と組み合わせて考えればポール・ニザンから借りてきたことばであると思うが、なぜそのことばを借りてきたかといえば、「アデンアラビア」が日本語にはない音楽、リズムを持っているからである。それにあわせて清水は詩を書きはじめる。そして、「アデンアラビア」の音楽にあわせて「友だち」ということばが選ばれる。「アデン」のなかには「だ」と通い合うだ行の濁音がある。そして、「友人」でもなく「知人」でもなく、「友だち」ということばを無意識に選びとったときに、そこに抒情が入り込む。なつかしい青春。取り戻すことのできない青春という抒情が。清水は、いまも、その青春を詩の出発点としている。
「アデンアラビア」のなかにあるもうひとつの音、音楽。「ら行」。それは1行目の「彼」のなかにひっそりと登場したあと、2行目「完了」のなかできっちりしめくくる。青春も抒情にも「おわり」が必要だが、「完了」という強いことばと、そのなかにある音楽が、この詩の場合、絶対必要なものである。「完了した」ということばが「友だち」とともに抒情をくっくりと浮かびあがらせるのだ。
2連目、3連目と清水は抒情に酔うようにことばを動かしていく。自分で書いたことばに酔いながら、そのことばの向うへ行く--音楽が主旋律を出発点として自立して動くように、清水のことばは自立して動いていくような感じがする。その自立の感じ、人間にしばられず(頭にしばられず)動いていくその動きが清水の詩の一番の魅力だと思う。
2連目の書き出し。
その友だちも
次々と死んで逝った
女友達は肉体を輝かせぬままにね
「死んで」「逝った」ということばの重複。清水は、ことばの意味など気にしない。音楽と、それから文字(漢字の美しさ)だけを重視している。その美の運動にすべてをあずける。その特徴があらわれた行だ。3行目の「輝かせぬままにね」も「輝」という文字、その音にひかれて、書かされたことばだろう。そこに清水の意識は入っていない。無意識はもちろん含まれるが、清水は、そういうことばを「頭」では書いていない。だから、とても不思議な美しさがある。
3連目にも、似たことばがある。
真夜中
真水のように目覚めていると
「真水のように」という比喩には意味がない。意識がない。「頭」がそのことばを欠かせたのではなく、「真夜中」という音の響き、その文字が「真水」を呼び出したのである。清水の無意識から。
こういうことばの運動を、私はとても美しいと思う。
美しいと思うが、とても危険だとも思う。無意識がときどき奇妙なものにひっぱられるからである。
3、4連目は次のようになっている。
真夜中
真水のように目覚めていると
誰かの悲鳴が聞こえてくる
この道はいつか来た道……
ではない
いま日本人は颱風の眼の中にいる
一歩 外へ出れば
この世の地獄……
ひたひたと六道の辻あたりから
子守唄を口ずさみながら
何か死よりも
恐ろしいものが
やって来る
「死」「戦争」は1連目にすでに登場していることばである。1連目には意味はなかった。1連目には音楽しかなかった。音楽が美の基本だった。それが3連目の途中から音楽ではなく、意味が動きはじめる。
こういう意味の動き方は危険である。
清水が書いていることは重要なことであるけれど、そういうことばを動かしていくには、最初から音楽を排除して、つまり人を無意識の内に酔わせる要素を排除して、しっかり「頭」を目覚めさせておかなければならない。絶対に音楽にならない工夫が必要だと思う。ことばに酔わせるのではなく、ことばに考えさせる。
清水には、そういう意識はないように思える。「地獄」「六道の辻」「子守唄」。それらのことば、うわずっている。まだ音楽であろうとして、逆に和音を乱している。
3連目の「この道は……」という、常套句から、清水の詩は破綻しはじめ、4連目で崩壊している、というのが私の印象である。「何か死よりも/おそろしいもの」という行が象徴的である。「何か」ではなくて、それを具体的なことばで提示できなければ詩ではないだろう、と思う。
*
和合亮一「黄河が来た」の初出誌は「読売新聞」2008年01月22日。
来た 黄河が来た
天井や床下や手のひらに来た
驚くほどの水が流れて来た 生命が
大空と大海とを またぎ越して来た
和合は清水のように「何か」とは書かない。「黄河」とはっきり書いている。それが清水と和合を明確に分ける。
「黄河」って何? 中国の川のこと? そんなものが、どうやってやって来る? という質問はぐもんである。ここには「黄河」と書かれているが、「黄河」は「黄河」そのものであって、同時に「黄河」ではないからだ。「黄河」でありながら「黄河」ではない。というのは「矛盾」である。矛盾だから、そこに詩がある。矛盾でしか言えないもの、書けないものがある。書こうとすると、矛盾してしまうものがある。それをむりやり書いてしまうのが詩である。わざと、矛盾したまま、書くのである。
矛盾は読者を不安にさせる。こは、いったい、何? 何が書いてあるかわからない。もしかしたら、私は頭が悪い? そうじゃなくて、和合がまともな論理を、意味を、書けなくなっている? そんなものを読んでいて、私は大丈夫?
ほら、変でしょ? どうしていいか、わからないでしょ?
和合は、わざと、そういう変な感じを引き起こしているのである。それが詩だからである。どこにもないもの、いままで存在しなかったもの、それをあらわすために、わざと、ことばを不安定にしている。意味を剥奪し、放り出して見せる。そして、ことばが、どこまで動いていけるか、読者に代わって実演して見せる。
3連目がとても美しい。
僕らの子どもは
黄色い運命
可愛らしいこの頬
妻の心臓を流れる黄河に
かつて僕は祈った
生まれてこい 強く
優しく 派手に
特に「派手に」が美しい。輝いている。このことばにたどりつくために「黄河」が必要だったのだとわかる。意味はない。「派手に」ということばに「黄河」が流れ着いたとき、「黄河」は「黄河」を超越する。そして和合と一体化する。
1連目が、突然、輝きだす。もう一度、引用しよう。
来た 黄河が来た
天井や床下や手のひらに来た
驚くほどの水が流れて来た 生命が
大空と大海とを またぎ越して来た
この一体感は、とてもすばらしい。美しいとしか言いようがない。
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