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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スコット・デリクソン監督「地球の止まる日」(★)

2008-12-25 23:14:19 | 映画
監督 スコット・デリクソン 出演 キアヌ・リーブス、ジェニファー・コネリー

 始まった瞬間に、あ、この映画はだめ、とわかる。ヒマラヤで男がテントのなかにいる。夜。外は吹雪。明るいものが飛んできて、落ちる。それを男が探しに行く。なぜ、そんな危険なことをする? 冬山登山は安全を第一にこころがける。好奇心だけで、吹雪のなかを山を登ったりはしない。リアリティーというものがまったくない。安っぽい嘘。しかも、ストーリーのための嘘である。
 ストーリーも味気なければ、映像もとても味気ない。情報量が少ないのである。だいたいキアヌ・リーブスもジェニファー・コネリーの表情に乏しい。表情の情報量が少ない。喜怒哀楽も興奮も落胆も、のっぺりした顔からは伝わってこない。キアヌ・リーブスはそののっぺり顔を買われて、「宇宙人」(人間の表情を適用して相手の考えていることを窺い知ることができない存在)に抜擢されたのだろうけれど、相手がジェニファー・コネリーでは、まるで仮面劇である。
 人間の表情の単調さを補う「もの」の洪水がないとスクリーンが持たない。スクリーンに空白が目立ちすぎる。「ワールド・オブ・ライズ」と対照的だ。「ワールド・オブ・ライズ」では、「もの」「ひと」がスクリーンからあふれていた。「もの」「ひと」があふれかえることで、ストーリーの隙間を完全に埋めていた。さらに、これにレオナルド・ディカプリオとラッセル・クロウの顔、肉体、動きが加わるのだから、自然に映像は充実してくる。ストーリーではなく、ストーリーをはみだす肉体が映像を活気づかせる。アニメの「ウォーリー」でさえ、もっと情報が多い。ウォーリーが自分の家を電球で装飾していたり、ごみを分類したり、さらには収納の棚を工夫したり、細部が充実していた。。
 それに比べて、この映画は何?
 「宇宙人」を分析する科学者の数が少なすぎる。ジェニファー・コネリーだけで、いったい何がわかる? 何人か科学者が登場するけれど、名前(専攻)を語るだけ。キアヌ・リーブスの「分析」に何か役立つことをしたのだろうか。あるいは謎の物体を分析するのに何かしたのだろうか。そのことと、先行する科学と、どういう関係かあるのだろうか。何も分からない。肝心のジェニファー・コネリーにしても、科学の知識を活かしてキアヌ・リーブスを分析したり、接近したりするのではない。女として、母として、接近するだけである。最先端の科学者である必要はまったくない。注射が打てて、子どもに対する愛情を持っている女性という条件だけで充分である。医師、看護士という役どころの方がリアリティーが出たかもしれない。
 とってつけたように、ジェニファー・コネリーが尊敬する学者とキアヌ・リーブスの数学談義(?)があるのだが、観客には何のことか分からない。あの数式、いったい何を証明したもの? 説明するとおかしくなるので、何も説明していない。単なる飾りにおわっている。観客をごまかしているだけである。
 軍隊も同じ。攻撃が単調で、紙芝居である。とても国家を守るため、人類を守るための戦いには見えない。「地獄の黙示録」でコッポラが、サーフィンをするために、椰子の並木(?)を焼き払った武器のつかい方の方がはるかに素晴らしい。
 唯一面白いのは、なんでも破壊する超小型イナゴ(?)ロボットだが、登場が遅すぎるし、その破壊力は予告編で見てしまっているので、まったく新鮮味がない。予告編では、トラックが分子に分解して壊れていくのか、スタジアムも粉々の分子にまで壊れていくのかと思ってみていたが、イナゴロボットに食いつくされていくだけなのか、といささか興ざめしてしまったと言った方が正直な感想になる。
 オバマ次期米大統領を意識してなのか、「われわれは変われる」というだけ。母の子に対する献身的(?)な愛が、その証拠、というのはあまりにも紋切り型。こんな映画によく出るなあ、とあきれかえってしまった。



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河津聖恵「ふたたび花園」

2008-12-25 08:52:00 | 詩集
河津聖恵「ふたたび花園」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 河津聖恵「ふたたび花園」の初出誌は『神には外せないイヤホンを』(2008年03月)。 「ガーデンミュージアム比叡」を3年ぶりに尋ねたときのことを書いている。その後半。

「カフェ・ド・パリ」でこんどは奥の席ではなく
窓際をこともなげに選び
同じアイスコーヒーを頼む
客たちの静かなざわめきを撫で
アルペジョーネ・ソナタが流れ
アダージョに少しずつ未来が微分されていく
テーブルにひろげた頁に潮のようにゆっくりみちてくるひかり
文字たちに意味はこくこくとやってくる
ミツバチが花の蜜を熱心に吸うように   2007・7・30

 「こんどは」「同じ」は3年前との比較である。違うものがあり、同じものがある。そして「違い」が3年という時間を浮かび上がらせる。3年という「過去」。それがあるから、音楽が「微分」するのは「未来」になる。
 そして、「積分」ではなく、「微分」であるところが、この作品のポイントなのだ。「未来はそのなかに含まれる「過去」を思い出すのだ。「未来」はいま、ここにはなく、想像するしかないものなのに、想像した瞬間から、「過去」を呼び込んでしまう。
 こういう「過去」のことを、河津は、「意味」ということばで言い換えている。
 河津は、それをあたかも「ミツバチが花の蜜を熱心に吸うように」、しっかりすくい取ろうとしている。
 河津は、この詩の中で、「時間論」をこころみている。時間と人間存在について考えている。とても哲学的な作品だ。
 末尾に「2007・7・30」と記されている。これはこの詩を書いた日時であろう。哲学的なしてあるからこそ、その思考が動いた瞬間をしっかりと記録し、点検しようとするのかもしれない。

 この詩には、詩の本文に匹敵するような「後書き」というか「注釈」がついている。

過去、思い出はセイレーンの呼び声のようだ。私たちをときに苦しめる。しかしそれは、私たちにこころを封じる蜜蝋があるからで、むしろそれを解き、時の真意を知ろうと努めることが必要なのだと思う。私たちを悲しませるヒグラシにも、識られざる神の音域がある。

 「時の真意」。これは、とても微妙なことばである。「時」は生き物ではない。そういうものに「真意」とういものが、存在するか。
 「時」は存在するが、それは人間が「時」を考えるときにはじめて姿をあらわすものにすぎない。一種の「仮説」である。「時」という概念を導入することで、いろいろな現象を説明し、理解することが簡単になる。それはいわば人間が考え出したものである。人間が考え出したものであるから、そこに「真意」というものをとりこもうとすれば、とりこむこともできる。
 ここから、いわば「時間哲学」が始まる。

 河津は、その「哲学」に「悲しみ」を結びつける。「過去」「思い出」を結びつける。それは「未来」を「過去」「思い出」で先取りする抒情精神を浮かび上がらせる。抒情はときとしてセンチメンタルに流されるけれど、河津の場合、その流れを「哲学」で制御している。




神は外せないイヤホンを
河津 聖恵
思潮社

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リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(4)中井久夫訳

2008-12-25 00:23:53 | リッツォス(中井久夫訳)
夜の儀式   リッツォス(中井久夫訳)

男どもはおんどりを、野鳩を、山羊を殺した。
肩に、首に、顔に血を分厚く塗った。一人など、
壁の方を向いてセックスに血を擦りつけた。
白いヴェールの女が三人、隅に立っていたが、
これを見て、小声で悲鳴を上げた。自分がされるように。男らは、
聞こえないふりをして、チョークで床に落書きをした、
長く延びた蛇を、古代の矢を。外では
太鼓が轟き、その音は近所の村全部に届いた。



 実際に目撃した「儀式」というより写真か何かで見た「儀式」に触発されて、ことばが動いたのだろう。血と化粧。他人の(動物の)力を自分のなかに取り込むための方法だろう。
 3行目「壁の方を向いて」という具体的な動きが、この詩をリアルなものにしている。
 この詩で私が不思議に感じたのは、最終行である。「太鼓が轟き、その音は近所の村全部に届いた。」この行の「その」にとても不思議なものを感じた。「意味」がわからないわけではない。「その」は「太鼓」を指している。「太鼓の轟きの音」が近所の村に届いた。何も不思議はないかもしれない。
 原詩がどうなっているかわからないのだが、この「その」の一瞬、間を置いた感じが、リッツォスの短い文体(中井の訳の、短い文体)と、どうもそぐわない。この行だけが、なぜか、とても長く感じられる。あるいは、不思議な「間」を持っている、といえばいいだろうか。多くのリッツォスの詩(中井の訳)はことばとことばがショートするくらいに接近している。「間」というものがない。ことろが、ここには「間」がある。そして、この「間」が、そのまま、夜の暗い闇のひろがりを感じさせる。村から村までの「距離」の空間を感じさせる。「呪術(?)」が超えていかなければならない「闇」を感じさせる。あるいは「呪術」を育てている「闇」を感じさせる。
 こういう「間」というか、広い空間を感じさせることばは、リッツォスの詩には非常に少ないのではないだろうか、と思う。(私は、思い出すことができない。)


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