詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中村文昭「an Evil」、平田俊子「庭」、八木幹夫「私の耳は」

2008-12-31 12:20:30 | 詩集
中村文昭「an Evil」、平田俊子「庭」、八木幹夫「私の耳は」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 中村文昭「an Evil」の初出紙誌は『オルフェの女』(2008年03月)。
 詩にはリズムが必要である。リズムがことばを非日常へと突き動かす。その書き出し。

ヒバリの声が鋭く空を切った夕
月はのぼり----ころころ
坂道を転がる目玉たち----

一つ踏んで
一つ青い花が咲きました

声を喪くした精霊の夢に憑く
酸えた香りの白い少女

ぶちっ
二つ三つと踏みつけて
二つ三つ青い蝶が咲きました

 「一つ踏んで」「二つ三つ踏みつけて」。この繰り返しが、ことばを異界へ、いま、ここを超越した世界へと遊ばせる。リズムに乗ることで、次のことばが厳密な文法、厳密な現実対応から離脱しても気にならないようにする。次にくることばに求められるのは「音楽」だけである。「音楽」として楽しければ、つまり音として明快であれば「意味」はどうでもいい。

二つ三つ青い蝶が咲きました

 「一つ青い花が咲きました」は普通の文法だが、「二つ三つ青い蝶が咲きました」は違う。「蝶が」「咲きました」という文法は日本語としておかしい。こういうおかしさを超越して、それでいいのだ、と肯定するのが詩である。詩のことばの特権である。「一つ踏んで」「二つ三つ踏みつけて」というリズムに乗れば、「一つ青い花が咲きました」の次は「二つ三つ青い蝶が咲きました」と「咲きました」に乗るしかない。乗ってそのまま、いま、ここを超越するしかない。超越することで見えるものに身を任せるしかない。
 詩の続き、不思議な世界に行きたい人は、どうぞ詩集をお読みください。

*

 平田俊子「庭」の初出紙誌は「読売新聞」2008年04月15日。
 平田の作品もリズムを活用して、いま、ここという現実を超越する。八木さん(八木幹夫さん?)がタケノコを送ってくれると言った。でも、届かない。そう書き始めて、そのあと。

タケノコではなく
カズノコを
送ると八木さんはいったのか
庭で採れるのはカズノコか でも
タケノコ同様
カズノコも
きょうもこないではないか

タケノコの絵を描いてみる
カズノコの絵を描いてみる
八木さんの絵もついでに描いて
ヤギノコと名前をつけてみる
タケノコではなく
ヤギノコを
送るとカズノコはいったのか
うちに届くのはヤギノコか
ヤギノコは私の好物だ
アノコやコノコと煮るとおいしい
アノコやコノコは私の庭で
白い手足で戯れている

 「タケノコ」「カズノコ」「ヤギノコ」「アノコ」「コノコ」。ことばの「音楽」に乗ってどこまでも自在に動く。いま、ここが、するりと非日常に動いてゆく。それは非日常だけれど、現実でもかまわない、という楽しさがある。もしかすると、このことばのリズム、音楽に乗って遊びに行ける世界こそほんとうの世界であって、「ヤギノコ」が見えない世界、存在しない世界の方が「文法」に縛られた偽物の世界かもしれない。
 
 この詩は、リズム、音楽と同時に、また、ことばの重要な「いのち」にも触れている。

ヤギノコと名前をつけてみる

 名前をつけること。これはことばの一番大切な仕事だ。名前によって「もの」は存在する。「もの」に名前があるのではなく、名前をつけることで「もの」が存在するのである。名前をつけない限り「もの」は存在しない。存在が認知されない。そういう世界を逆手にとって、名前をつけることで、「もの」を存在させてしまう。これは文学の特権である。光源氏もハムレットもドンキホーテも名前をつけられることで存在するなら、「ヤギノコ」だって同様に存在するのだ。そして、そういう存在を道案内にことばの世界へ入っていく。それが文学を旅することだ。ことばでしかできない旅は、そうやって始まる。

*

 平田の詩には付録(?)がついている。八木幹夫「私の耳は」である。「現代詩手帖」の編集では、平田の作品のすぐあとに八木の作品が掲載されている。八木幹夫「私の耳は」の初出紙誌は『夜が来るので』(2008年04月発行)

私の耳は音を聞きすぎる
闇を飛ぶ無数の蝙蝠の羽ばたき
地を走る無数の昆虫の足音
私の耳は利益につながる音を聞き分ける

 私が読むように読んではいけないのだろうけれど、ね、平田の「タケノコはどうしたの」という問い合わせに、「私の耳は利益につながる音を聞き分ける」と開きなおっている感じがしませんか? いいなあ、このやりとり。
 2連目は「私の耳には毛が生えている」で始まるのだけれど、なんだか「毛が生えている」ので「よく聞こえません」と平田に言い返しているような、楽しい感じがする。
 私のこの感想は、八木の詩を独立させて読むと完全な誤読なのだけれど・・・。
 でも、いいよね、八木さん。こういう間違った読み方。文学はことばを遊ぶための方法だもんね。


夜が来るので
八木 幹夫
砂子屋書房

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リッツォス「反復(1968)」より(2)中井久夫訳

2008-12-31 11:21:44 | リッツォス(中井久夫訳)
敗北の後    リッツォス(中井久夫訳)
アテネ人はアイゴスポタモイで撃破され、
決定的敗北が続いた。自由な議論が、
ペリクレス期の栄光が、
芸術の開花が、ギュムナジウムが、哲学者の饗宴が、
みんな失われた。今は陰鬱な時代だ。
市場には重苦しい沈黙。三十人僣主の驕り高ぶり。
すべてふとしたあやまちで起こったことだ(さらに切実にわれらのものなるものでさえ)
訴える機会はなかった。弁護も擁護も、
形だけの抗議されも。パピルスも本も焼かれた。
わが国の誉れは朽ちた。旧友でさえ、
よしんば証人に立つことを認められても、
恐怖して、似たかかわりあいになりたくないと断るはずだ。
むろん、それが正解だろう。だからここにいるのがまだましだ。
鉄条網の後ろで
海と石と野の草から成る世界の切れ端を眺め、
夕雲が紫に染まって低く動いていくのを眺めていれば、
新しいものに触れられそうだ。
いつの日か、新たなキモーンがやってきて、
ひそかに、同じ鷲に導かれ、ここを掘って、われらの鉄の槍の先を掘り出すだろう。
錆びてぼろぼろで使いものにならないだろうが、
アテネに行って、勝利の行列か、葬列かのなかでこの槍を捧げ持って歩んでくれるかもしれない、音楽の演奏の中で、花綵(はなづな)に飾られて--。



 リッツォスの詩にしてはかなりことばが多い。ことばの情報が多い。こういう作品は、私は、あまり好きではない。ことばがあふれかえって、ことば自身が持っている「孤独」が見えにくくなる。リッツォスのことばは皆孤独であり、それが美しいと感じる私には、この詩は長すぎる。
 唯一、気持ちよく読むことができるのは、
鉄条網の後ろで
海と石と野の草から成る世界の切れ端を眺め、
夕雲が紫に染まって低く動いていくのを眺めていれば、
新しいものに触れられそうだ。
 この4行である。特に「海と石と野の草から成る世界の切れ端」が好きである。「国破れて山河あり」ではないが、人間と無関係にそこに存在している「自然」が「無関係」ゆえに清潔である。「切れ端」が少しめくれあがって、そこから世界が変わっていく--そういう夢想を、孤独な夢想を誘ってくれそうである。あるいは、切れ端がちぎれていって、ここではないどこか遠くへ連れていってくれるかもしれない--そういう夢想に誘ってくれる。そこにはやはり、海と石と野の草があるのだ。
 そんなこことを思った。


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