中村文昭「an Evil」、平田俊子「庭」、八木幹夫「私の耳は」(「現代詩手帖」2008年12月号)
中村文昭「an Evil」の初出紙誌は『オルフェの女』(2008年03月)。
詩にはリズムが必要である。リズムがことばを非日常へと突き動かす。その書き出し。
「一つ踏んで」「二つ三つ踏みつけて」。この繰り返しが、ことばを異界へ、いま、ここを超越した世界へと遊ばせる。リズムに乗ることで、次のことばが厳密な文法、厳密な現実対応から離脱しても気にならないようにする。次にくることばに求められるのは「音楽」だけである。「音楽」として楽しければ、つまり音として明快であれば「意味」はどうでもいい。
「一つ青い花が咲きました」は普通の文法だが、「二つ三つ青い蝶が咲きました」は違う。「蝶が」「咲きました」という文法は日本語としておかしい。こういうおかしさを超越して、それでいいのだ、と肯定するのが詩である。詩のことばの特権である。「一つ踏んで」「二つ三つ踏みつけて」というリズムに乗れば、「一つ青い花が咲きました」の次は「二つ三つ青い蝶が咲きました」と「咲きました」に乗るしかない。乗ってそのまま、いま、ここを超越するしかない。超越することで見えるものに身を任せるしかない。
詩の続き、不思議な世界に行きたい人は、どうぞ詩集をお読みください。
*
平田俊子「庭」の初出紙誌は「読売新聞」2008年04月15日。
平田の作品もリズムを活用して、いま、ここという現実を超越する。八木さん(八木幹夫さん?)がタケノコを送ってくれると言った。でも、届かない。そう書き始めて、そのあと。
「タケノコ」「カズノコ」「ヤギノコ」「アノコ」「コノコ」。ことばの「音楽」に乗ってどこまでも自在に動く。いま、ここが、するりと非日常に動いてゆく。それは非日常だけれど、現実でもかまわない、という楽しさがある。もしかすると、このことばのリズム、音楽に乗って遊びに行ける世界こそほんとうの世界であって、「ヤギノコ」が見えない世界、存在しない世界の方が「文法」に縛られた偽物の世界かもしれない。
この詩は、リズム、音楽と同時に、また、ことばの重要な「いのち」にも触れている。
名前をつけること。これはことばの一番大切な仕事だ。名前によって「もの」は存在する。「もの」に名前があるのではなく、名前をつけることで「もの」が存在するのである。名前をつけない限り「もの」は存在しない。存在が認知されない。そういう世界を逆手にとって、名前をつけることで、「もの」を存在させてしまう。これは文学の特権である。光源氏もハムレットもドンキホーテも名前をつけられることで存在するなら、「ヤギノコ」だって同様に存在するのだ。そして、そういう存在を道案内にことばの世界へ入っていく。それが文学を旅することだ。ことばでしかできない旅は、そうやって始まる。
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平田の詩には付録(?)がついている。八木幹夫「私の耳は」である。「現代詩手帖」の編集では、平田の作品のすぐあとに八木の作品が掲載されている。八木幹夫「私の耳は」の初出紙誌は『夜が来るので』(2008年04月発行)
私が読むように読んではいけないのだろうけれど、ね、平田の「タケノコはどうしたの」という問い合わせに、「私の耳は利益につながる音を聞き分ける」と開きなおっている感じがしませんか? いいなあ、このやりとり。
2連目は「私の耳には毛が生えている」で始まるのだけれど、なんだか「毛が生えている」ので「よく聞こえません」と平田に言い返しているような、楽しい感じがする。
私のこの感想は、八木の詩を独立させて読むと完全な誤読なのだけれど・・・。
でも、いいよね、八木さん。こういう間違った読み方。文学はことばを遊ぶための方法だもんね。
中村文昭「an Evil」の初出紙誌は『オルフェの女』(2008年03月)。
詩にはリズムが必要である。リズムがことばを非日常へと突き動かす。その書き出し。
ヒバリの声が鋭く空を切った夕
月はのぼり----ころころ
坂道を転がる目玉たち----
一つ踏んで
一つ青い花が咲きました
声を喪くした精霊の夢に憑く
酸えた香りの白い少女
ぶちっ
二つ三つと踏みつけて
二つ三つ青い蝶が咲きました
「一つ踏んで」「二つ三つ踏みつけて」。この繰り返しが、ことばを異界へ、いま、ここを超越した世界へと遊ばせる。リズムに乗ることで、次のことばが厳密な文法、厳密な現実対応から離脱しても気にならないようにする。次にくることばに求められるのは「音楽」だけである。「音楽」として楽しければ、つまり音として明快であれば「意味」はどうでもいい。
二つ三つ青い蝶が咲きました
「一つ青い花が咲きました」は普通の文法だが、「二つ三つ青い蝶が咲きました」は違う。「蝶が」「咲きました」という文法は日本語としておかしい。こういうおかしさを超越して、それでいいのだ、と肯定するのが詩である。詩のことばの特権である。「一つ踏んで」「二つ三つ踏みつけて」というリズムに乗れば、「一つ青い花が咲きました」の次は「二つ三つ青い蝶が咲きました」と「咲きました」に乗るしかない。乗ってそのまま、いま、ここを超越するしかない。超越することで見えるものに身を任せるしかない。
詩の続き、不思議な世界に行きたい人は、どうぞ詩集をお読みください。
*
平田俊子「庭」の初出紙誌は「読売新聞」2008年04月15日。
平田の作品もリズムを活用して、いま、ここという現実を超越する。八木さん(八木幹夫さん?)がタケノコを送ってくれると言った。でも、届かない。そう書き始めて、そのあと。
タケノコではなく
カズノコを
送ると八木さんはいったのか
庭で採れるのはカズノコか でも
タケノコ同様
カズノコも
きょうもこないではないか
タケノコの絵を描いてみる
カズノコの絵を描いてみる
八木さんの絵もついでに描いて
ヤギノコと名前をつけてみる
タケノコではなく
ヤギノコを
送るとカズノコはいったのか
うちに届くのはヤギノコか
ヤギノコは私の好物だ
アノコやコノコと煮るとおいしい
アノコやコノコは私の庭で
白い手足で戯れている
「タケノコ」「カズノコ」「ヤギノコ」「アノコ」「コノコ」。ことばの「音楽」に乗ってどこまでも自在に動く。いま、ここが、するりと非日常に動いてゆく。それは非日常だけれど、現実でもかまわない、という楽しさがある。もしかすると、このことばのリズム、音楽に乗って遊びに行ける世界こそほんとうの世界であって、「ヤギノコ」が見えない世界、存在しない世界の方が「文法」に縛られた偽物の世界かもしれない。
この詩は、リズム、音楽と同時に、また、ことばの重要な「いのち」にも触れている。
ヤギノコと名前をつけてみる
名前をつけること。これはことばの一番大切な仕事だ。名前によって「もの」は存在する。「もの」に名前があるのではなく、名前をつけることで「もの」が存在するのである。名前をつけない限り「もの」は存在しない。存在が認知されない。そういう世界を逆手にとって、名前をつけることで、「もの」を存在させてしまう。これは文学の特権である。光源氏もハムレットもドンキホーテも名前をつけられることで存在するなら、「ヤギノコ」だって同様に存在するのだ。そして、そういう存在を道案内にことばの世界へ入っていく。それが文学を旅することだ。ことばでしかできない旅は、そうやって始まる。
*
平田の詩には付録(?)がついている。八木幹夫「私の耳は」である。「現代詩手帖」の編集では、平田の作品のすぐあとに八木の作品が掲載されている。八木幹夫「私の耳は」の初出紙誌は『夜が来るので』(2008年04月発行)
私の耳は音を聞きすぎる
闇を飛ぶ無数の蝙蝠の羽ばたき
地を走る無数の昆虫の足音
私の耳は利益につながる音を聞き分ける
私が読むように読んではいけないのだろうけれど、ね、平田の「タケノコはどうしたの」という問い合わせに、「私の耳は利益につながる音を聞き分ける」と開きなおっている感じがしませんか? いいなあ、このやりとり。
2連目は「私の耳には毛が生えている」で始まるのだけれど、なんだか「毛が生えている」ので「よく聞こえません」と平田に言い返しているような、楽しい感じがする。
私のこの感想は、八木の詩を独立させて読むと完全な誤読なのだけれど・・・。
でも、いいよね、八木さん。こういう間違った読み方。文学はことばを遊ぶための方法だもんね。
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