詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鳥居万由実『遠さについて』

2008-12-20 08:44:41 | 詩集
鳥居万由実『遠さについて』(ふらんす堂、2008年11月23日発行)

 「トロンボーン」という作品にとても魅力的な部分がある。

指先につつしみのように墨汁をひたして
手元の白紙に花の名前をかきつづける
さざんか すみれ ばら
セージ ゆり うこん
淡い色彩のこどもらがあらわれては消える
そういえば ぼくのしんだこどもはすみれがすきだった
しかし ぼくにこどもがいたことはない

 ことばが、ことばをこえて、ほかのものを呼び寄せる。書きつづけた花の名前、そのことばは、花だけではなく「こども」を呼び寄せる。その瞬間が、とても好きだ。それは、もしかすると「ぼく」のこども時代かもしれないけれど、この作品では「ぼくのしんだこども」を呼び寄せる。そして、直後に

しかし ぼくにこどもがいたことはない

 どっち? どっちがほんとう? 
 ことばが引き寄せるものにまかせて、「こども」があらわれ、つづけて思わず「ぼくのしんだこどもはすみれがすきだった」と書いてしまった。そして、直後に「いや、そうではない」と否定しているのか。
 たぶん、そう読む方が自然だろう。ことばの逸脱に身をまかせてしまって、あ、ことばに乗せられてしまった、と反省している、と読むのが自然だろう。
 しかし、逆に、思わずほんとうのことを書いてしまって、ほんとうのことを書いてしまったことを隠すために「しかし ぼくにこどもがいたことはない」と書き加えたとも、可能性としてはありうる。真実を「わざと」隠すために書く、ということもありうる。
 私は、鳥居のことを知らないから、彼(彼女?--それさえも、私は知らない)にこどもがいるかどうかは知らない。そのこどもが死んだかどうかも、もちろん知らない。だから、私の感想は「真実」とは関係がない。鳥居の人生というか、現実とは関係がない。事実とは無関な係部分での、「わざと」にとてもおもしろみを感じる。

そういえば ぼくのしんだこどもはすみれがすきだった
しかし ぼくにこどもがいたことはない

 考えてみれば、この2行そのものが「わざと」なのである。どっちがほんとうなのか、わからないように、「わざと」書いている。そして「わざと」書かれている部分にこそ、詩の鍵がある。「わざと」矛盾したこと、嘘を書くとき、その嘘の影に「ほんとう」がいきいきと動くのである。
 この詩の「ほんとう」とは、花の名前を書きつづけると、花ではなく、そこに「淡い色彩のこどもらがあらわれては消える」ということだ。そうなのだ。花の名前を書けば、つまりことばを追いかければ、そこに「花」が出現するだけではなく、「花」とともにあるものが一緒にあらわれてしまう。ことばはそういうものを呼び寄せてしまう--そういうこと、そういう働きが詩なのである。現実をかえてしまうのが詩なのである。
 ことばは逸脱する。自律運動をする。その運動に人間の肉体は誘われて、現実にはないものを見てしまう。この瞬間の楽しさ。そこに詩がある。この楽しさを楽しむためなら、詩はどんな嘘でも(死んだこどもがいる、いやこどもはいない)ということを「わざと」書いてもいいのである。

 ことばは、ただ、ことばのままに自律運動をすればいい。ことばを現実から解放し、自由にしてやれば、ことばはどこまでも楽しくなる。ことばが夢見ている「ほんとう」が、その運動の先にあらわれてくる。
 そういう楽しい詩。「だんでいらいおん」の、一番楽しい、なかほどの部分。

うさぎを喉につかえさせたまま
厳めしい
ライオン市議会議員は
星ちりばめた黒ビロードのすそをひきずりながら
たんぽぽを踏みしめ
春の野の底をゆきます
たんぽぽの茎でくすぐられると
他人の愛がのりうつってきそうで
緑はいっそう深い 怖い
もうすぐ、黄色くひきしまった手足や尻尾をほぐして
綿毛になってとんでいけるだろうか

 こういう詩は、若いときの特権である。「たんぽぽの茎でくすぐられると/他人の愛がのりうつってきそうで/緑はいっそう深い 怖い」。この3行は、この詩集の中で、もっとも輝いている行である。こういう詩を書けるのは、肉体も精神も若いときである--そう思って、「著者略歴」をみたら、ほんとうに若い詩人だった。1980年11月23日(詩集の発行日)生まれ、と書いてあった。誕生日と詩集の発行日をあわせる、というのも、「若さ」ゆえの「わざと」である。いいなあ。若さは、と思った。




遠さについて―鳥居万由実詩集
鳥居 万由実
ふらんす堂

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リッツォス「証言C(1966-67)」より(3)中井久夫訳

2008-12-20 00:17:53 | リッツォス(中井久夫訳)
活動不能  リッツォス(中井久夫訳)

この家でのおれたちの暮らしはこうだ。
家具付きの部屋。暗い廊下。
晒さぬ布。木食い虫。氷のように冷たいシーツ。
おれたちの寝台に仰向けに寝ている誰とも分からぬ他人。
ゴキブリが台所から寝室に走って行った。
ある夜、誰かが玄関でわれわれに開けろと言った。
村の女が暗闇の中で何か言った(確かにおれたちのことだった)。
しばらくあって、玄関の扉が軋るのを聞いた。足音も人声もしなくて。



 内戦。逃れてきて、隠れている家だろうか。どこへも行けず、ただ隠れている。そのときの「おれたち」の暮らし。「おれたち」が何人かはわからない。何人いても、そのひとりひとりが独立している。「他人」である。

おれたちの寝台に仰向けに寝ている誰とも分からぬ他人。

 それはたとえ知っていても「知らない」人間である。知っているからこそ「知らない」人間なのかもしれない。何かあったとき、「おれたち」は全員、他人である。他人であることによって、生き延びる。そういう緊迫感と孤独がこの詩の中にある。

 この詩の訳は、この形になる前に別の形をしている。何か所か推敲されてこの形になっているのだが、一番大きな変化は1行目である。中井は、最初、

この家でのおれたちの暮らしはこうだと彼は言った。

 と訳している。そして、「と彼は言った」を消している。この訳はとてもおもしろい。「この家でのおれたちの暮らしはこうだ。」という行では、誰が言ったのかわからない。「おれたち」が言ったのか。「おれたち」が声を揃えて言うことはないから、「おれたち」のなかの誰かが言ったことになるのだが、「彼は言った」という主語と述語が消されると、「彼が言ったこと」が「おれたち」全員に共有されている印象を引き起こす。
 「彼は言った」という主語、述語があるときは、それはあくまで「彼」の主張であって、ほかの「おれたち」はそうは思っていないということも考えられる。
 この作品の中で、省略される形で書かれている「彼」は、そんなことは望んでいない。誰ものか(この家にいる全員が)、同じように思っていると感じたがっている。それが、対立者からのがれ、隠れている「仲間」の思いである。
 しかし、その「団結」は、同時に、いつでも「知らない」と言わなければならない「団結」でもある。仲間であればあるほど、「知らない」と言わなければならない。敵にであったとき、「知らない」ということが他の仲間を守る唯一の方法である。自分を犠牲にしても、仲間を守る。そういう決意が隠されている孤独。

 「彼は言った」を消すことで、その孤独が、より強く共有されるのだ。そして、その孤独の共有が、最後の2行の不安を生々しくする。「活動不能」--ただ隠れていることしかできない不安を生々しくする。

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