鳥居万由実『遠さについて』(ふらんす堂、2008年11月23日発行)
「トロンボーン」という作品にとても魅力的な部分がある。
ことばが、ことばをこえて、ほかのものを呼び寄せる。書きつづけた花の名前、そのことばは、花だけではなく「こども」を呼び寄せる。その瞬間が、とても好きだ。それは、もしかすると「ぼく」のこども時代かもしれないけれど、この作品では「ぼくのしんだこども」を呼び寄せる。そして、直後に
どっち? どっちがほんとう?
ことばが引き寄せるものにまかせて、「こども」があらわれ、つづけて思わず「ぼくのしんだこどもはすみれがすきだった」と書いてしまった。そして、直後に「いや、そうではない」と否定しているのか。
たぶん、そう読む方が自然だろう。ことばの逸脱に身をまかせてしまって、あ、ことばに乗せられてしまった、と反省している、と読むのが自然だろう。
しかし、逆に、思わずほんとうのことを書いてしまって、ほんとうのことを書いてしまったことを隠すために「しかし ぼくにこどもがいたことはない」と書き加えたとも、可能性としてはありうる。真実を「わざと」隠すために書く、ということもありうる。
私は、鳥居のことを知らないから、彼(彼女?--それさえも、私は知らない)にこどもがいるかどうかは知らない。そのこどもが死んだかどうかも、もちろん知らない。だから、私の感想は「真実」とは関係がない。鳥居の人生というか、現実とは関係がない。事実とは無関な係部分での、「わざと」にとてもおもしろみを感じる。
考えてみれば、この2行そのものが「わざと」なのである。どっちがほんとうなのか、わからないように、「わざと」書いている。そして「わざと」書かれている部分にこそ、詩の鍵がある。「わざと」矛盾したこと、嘘を書くとき、その嘘の影に「ほんとう」がいきいきと動くのである。
この詩の「ほんとう」とは、花の名前を書きつづけると、花ではなく、そこに「淡い色彩のこどもらがあらわれては消える」ということだ。そうなのだ。花の名前を書けば、つまりことばを追いかければ、そこに「花」が出現するだけではなく、「花」とともにあるものが一緒にあらわれてしまう。ことばはそういうものを呼び寄せてしまう--そういうこと、そういう働きが詩なのである。現実をかえてしまうのが詩なのである。
ことばは逸脱する。自律運動をする。その運動に人間の肉体は誘われて、現実にはないものを見てしまう。この瞬間の楽しさ。そこに詩がある。この楽しさを楽しむためなら、詩はどんな嘘でも(死んだこどもがいる、いやこどもはいない)ということを「わざと」書いてもいいのである。
ことばは、ただ、ことばのままに自律運動をすればいい。ことばを現実から解放し、自由にしてやれば、ことばはどこまでも楽しくなる。ことばが夢見ている「ほんとう」が、その運動の先にあらわれてくる。
そういう楽しい詩。「だんでいらいおん」の、一番楽しい、なかほどの部分。
こういう詩は、若いときの特権である。「たんぽぽの茎でくすぐられると/他人の愛がのりうつってきそうで/緑はいっそう深い 怖い」。この3行は、この詩集の中で、もっとも輝いている行である。こういう詩を書けるのは、肉体も精神も若いときである--そう思って、「著者略歴」をみたら、ほんとうに若い詩人だった。1980年11月23日(詩集の発行日)生まれ、と書いてあった。誕生日と詩集の発行日をあわせる、というのも、「若さ」ゆえの「わざと」である。いいなあ。若さは、と思った。
「トロンボーン」という作品にとても魅力的な部分がある。
指先につつしみのように墨汁をひたして
手元の白紙に花の名前をかきつづける
さざんか すみれ ばら
セージ ゆり うこん
淡い色彩のこどもらがあらわれては消える
そういえば ぼくのしんだこどもはすみれがすきだった
しかし ぼくにこどもがいたことはない
ことばが、ことばをこえて、ほかのものを呼び寄せる。書きつづけた花の名前、そのことばは、花だけではなく「こども」を呼び寄せる。その瞬間が、とても好きだ。それは、もしかすると「ぼく」のこども時代かもしれないけれど、この作品では「ぼくのしんだこども」を呼び寄せる。そして、直後に
しかし ぼくにこどもがいたことはない
どっち? どっちがほんとう?
ことばが引き寄せるものにまかせて、「こども」があらわれ、つづけて思わず「ぼくのしんだこどもはすみれがすきだった」と書いてしまった。そして、直後に「いや、そうではない」と否定しているのか。
たぶん、そう読む方が自然だろう。ことばの逸脱に身をまかせてしまって、あ、ことばに乗せられてしまった、と反省している、と読むのが自然だろう。
しかし、逆に、思わずほんとうのことを書いてしまって、ほんとうのことを書いてしまったことを隠すために「しかし ぼくにこどもがいたことはない」と書き加えたとも、可能性としてはありうる。真実を「わざと」隠すために書く、ということもありうる。
私は、鳥居のことを知らないから、彼(彼女?--それさえも、私は知らない)にこどもがいるかどうかは知らない。そのこどもが死んだかどうかも、もちろん知らない。だから、私の感想は「真実」とは関係がない。鳥居の人生というか、現実とは関係がない。事実とは無関な係部分での、「わざと」にとてもおもしろみを感じる。
そういえば ぼくのしんだこどもはすみれがすきだった
しかし ぼくにこどもがいたことはない
考えてみれば、この2行そのものが「わざと」なのである。どっちがほんとうなのか、わからないように、「わざと」書いている。そして「わざと」書かれている部分にこそ、詩の鍵がある。「わざと」矛盾したこと、嘘を書くとき、その嘘の影に「ほんとう」がいきいきと動くのである。
この詩の「ほんとう」とは、花の名前を書きつづけると、花ではなく、そこに「淡い色彩のこどもらがあらわれては消える」ということだ。そうなのだ。花の名前を書けば、つまりことばを追いかければ、そこに「花」が出現するだけではなく、「花」とともにあるものが一緒にあらわれてしまう。ことばはそういうものを呼び寄せてしまう--そういうこと、そういう働きが詩なのである。現実をかえてしまうのが詩なのである。
ことばは逸脱する。自律運動をする。その運動に人間の肉体は誘われて、現実にはないものを見てしまう。この瞬間の楽しさ。そこに詩がある。この楽しさを楽しむためなら、詩はどんな嘘でも(死んだこどもがいる、いやこどもはいない)ということを「わざと」書いてもいいのである。
ことばは、ただ、ことばのままに自律運動をすればいい。ことばを現実から解放し、自由にしてやれば、ことばはどこまでも楽しくなる。ことばが夢見ている「ほんとう」が、その運動の先にあらわれてくる。
そういう楽しい詩。「だんでいらいおん」の、一番楽しい、なかほどの部分。
うさぎを喉につかえさせたまま
厳めしい
ライオン市議会議員は
星ちりばめた黒ビロードのすそをひきずりながら
たんぽぽを踏みしめ
春の野の底をゆきます
たんぽぽの茎でくすぐられると
他人の愛がのりうつってきそうで
緑はいっそう深い 怖い
もうすぐ、黄色くひきしまった手足や尻尾をほぐして
綿毛になってとんでいけるだろうか
こういう詩は、若いときの特権である。「たんぽぽの茎でくすぐられると/他人の愛がのりうつってきそうで/緑はいっそう深い 怖い」。この3行は、この詩集の中で、もっとも輝いている行である。こういう詩を書けるのは、肉体も精神も若いときである--そう思って、「著者略歴」をみたら、ほんとうに若い詩人だった。1980年11月23日(詩集の発行日)生まれ、と書いてあった。誕生日と詩集の発行日をあわせる、というのも、「若さ」ゆえの「わざと」である。いいなあ。若さは、と思った。
遠さについて―鳥居万由実詩集鳥居 万由実ふらんす堂このアイテムの詳細を見る |