詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言B(1966)」より(39)中井久夫訳

2008-12-17 00:31:20 | リッツォス(中井久夫訳)
弔いの辞  リッツォス(中井久夫訳)

陽が沈んだ時、死者たちを浜に運んだ。
半円の湿った砂。金色と葵色と桃色の反射がそのずっと向うまで広がった。不思議だった。
この輝きもこの死者の顔も--。死んでなんかいない。
特にこの身体--若い。若木のような繁り。香油を塗られて新床にこそふさわしい。
天幕のあった場所にラジオが一台鳴ったまま。ずっと下のほうに敵の凱歌がはっきり聞こえた。
最後の夕映えが消えようとしてエフメロスの爪先と楯を赤紫に染めた。



 「エフメロス」とは誰か。私は知らない。ギリシア神話の英雄のひとりかもしれない。あるいは、現代の内戦の、死者のひとり。その「彼」を弔う詩。
 色の変化が美しい。金色と葵色と桃色、赤紫。夕暮れの色だ。そして、その最後の色が染めるのが「爪先」。この肉体のはしっこ。この細部へのこだわりが、「彼」をなまなましく浮かび上がらせる。

 この中井久夫の訳は、1行目が、最初は違った形をしている。「死者たちを浜に運んだ。」には主語がないが、これは中井が消したためである。最初は「彼等は」という主語があった。それを中井は消している。
 主語が「われわれ」である場合と、「彼等」である場合は、微妙にニュアンスが違う。日本語の場合、印象が違う。「われわれ」の場合、死者は身近である。親しい感じがする。「彼等」の場合は、あくまで客観的な、すこし冷たい感じがする。
 リッツォスは「彼」を主語に選ぶことが多い。主語は「私」ではなく、「彼」。しかし、その「彼」はほんとうに第三者なのか。そうではなく、「彼」にリッツォス自身を託しているのだと思う。ひとつの「理想」の人間として「彼」を描く。そこにありうべき「自己」を投影している。
 そういう文脈のなかで「彼等」ということばを選ぶと、少し事情が変わってくる。
 この詩の場合「エフメロス」が「彼」のはずなのに、ほかに「彼等」が登場してしまうと、詩が完全に自己から分離したストーリーになってしまう。「私」の居場所がなくなる。だから中井は「彼等」を省略する。「彼」と「彼等」をはっきり分離してしまう。「彼等」を「われわれ」と感じさせ、たどりつけない存在としての「エフメロス」を、これまでの作品の「彼」にしてしまうのである。

 この訳の操作は、非常におもしろい。中井の、リッツォスの詩の理解のしかたがとてもはっきりとでた訳だと思った。これはもちろん草稿だからわかることで、実際に出版されてしまえば、その痕跡がないのだから、原文と対比しない限り、中井の訳の工夫がわからないことになる。--草稿を読むことができる喜びが、こんなところにある。


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