詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高野幸祐「バスと盲導犬」

2008-12-21 17:49:17 | その他(音楽、小説etc)
高野幸祐「バスと盲導犬」(毎日新聞「鹿児島」版、2008年12月20日発行)

 新聞には読者の作品がいろいろ掲載されている。毎日新聞「鹿児島」版、2008年12月20日の高野幸祐「バスと盲導犬」に感動した。

 落ち葉の舞う中をバス停にたどり着いた私は、盲導犬を連れた「アラフォー」の女性を見た。彼女はバス停の縁にすっくと立ち、じーっと前を向いたままである。ひたすらバスのエンジン音が近づくのを待っていた。
 私はバスの止まる位置がずれはしまいかと心配になった。しかしバスのドアはピッタリ彼女の前で開いた。私はやっと気が付いた。彼女は前もって犬を連れた自分の姿を運転手に見えるようにたっていたのだ。

 2段落目のリズムがとてもいい。ひとつひとつの文章がひとつのことしか言っていない。とても素早く読める。そして、その素早さが、そのままこころの動きになっている。それだけではなく、そのとき、こころはあくまでわき役に納まっている。「私はやっと気が付いた」の「やっと」が女性を引き立てている。女性のきちんとした生き方に対して、「私」は「やっと」なのである。そうやって少し身を引いて、一番言いたいことを、それまでの文章より長めに書いて、じっくり読ませる。あくまでも、女性を主役にして。
 「彼女は前もって犬を連れた自分の姿を運転手に見えるようにたっていたのだ。」はさりげない文章だが、私は何度も読み返してしまった。女性の姿がくっきり見える文章なのに、いや、くっきりみえるからこそなのかもしれないが、その姿を、その生き方をよりくっきりと自分のこころに刻むように。
 他人(高野にとっての他人という意味だが)を、こんなに鮮やかに表現し、しかも生き方までしっかり伝える文章は、なかなかないものである。

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飯飯島耕一「トルファンへの旅」島耕一「トルファンへの旅」

2008-12-21 14:38:59 | 詩(雑誌・同人誌)
飯島耕一「トルファンへの旅」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 飯島耕一「トルファンへの旅」の初出誌は秋山巳之流句集『花西行』(2008年03月)。句集の「序詩」として書かれたものらしい。
 書き出しのリズムが気持ちがいい。

歌びと を敬い
詩人と遊び
トルファン
花西行
トルファン
花西行
歌びと を敬い
詩人と遊び
この永遠のアンファンはいつの間にか
河沿いの俳の世界にひき込まれ

 「トルファン」が「アンファン」と韻を踏む。そこに、この詩のすべてというとおおげさかもしれないけれど、飯島が発見したものがある。飯島は、秋山巳之流句集を読みながち「永遠のアンファン」を感じたのだ。それは、飯島が「永遠のアンファン」になったということと等しい。そういう一体感のよろこびがある。よろこびのリズムがある。
 「トルファン」と「アンファン」は同じものではない。しかし、何かが結びついている。そういうものを感じるこころが詩なのである。わけのわからないもの、断定できないなにか--そういうものにひかれて、動いてしまう瞬間、その時の、ことばにならない詩を、飯島は、また「トルファン」へ向かった秋山に感じている。

なぜトルファンなのか
永遠の旅人の
永遠の謎

 この3行も、はらはらするほど美しい。無垢なアンファンのことばだ。
 このあと、飯島は、秋山の句をいくつか引用している。引用しながら、「トルファンと」「アンファン」が重なったように、飯島は、秋山と重なる。一体になる。
 そして、それは「意味」として一体になるのではなく、音楽、リズムとして一体になっている。私の感想のように、くだくだとつまらないことを書かない。ただ、いくつかの句をぱっぱっと放り出すように引用している。そのリズムがとてもいい。最初から最後まで音楽がさーっと駆け抜ける。
 駆け抜けたあとに、飯島の書いている「永遠」が輝く。


飯島耕一・詩と散文〈3〉ゴヤのファースト・ネームは バルザックを読む
飯島 耕一
みすず書房

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リッツォス「証言C(1966-67)」より(4)中井久夫訳

2008-12-21 00:09:30 | リッツォス(中井久夫訳)
ナルシスの没落    リッツォス(中井久夫訳)

しっくいが壁から剥がれ落ちている。そこも、ここも。
ソックスとシャツが椅子の上に。
ベッドの下にはいつも同じ影。気づかれないが。
彼は裸体になって鏡の前に立った。できるだけしゃきっとしようとした。
「やっぱりだめだ」と彼はひとりごちた、「だめだ」。
テーブルの上にあったレタスの大きな葉を一枚むしって
口元に持って行き、しゃぶり始めた。裸で鏡の前に立ったまま。
自然な態度を取り戻すか、せめて芝居をしようとして。



 最後の行に詩がある。「自然な態度」と「芝居」は矛盾する。その矛盾の中に詩がある。矛盾は、それを乗り越えるとき、そこに思想が生まれるからである。矛盾は、それを乗り越えるとき、「肉体」になるからである。それがどんな形の「肉体」かはだれもわからない。その「肉体」の手がどんなふうに動くことができるのか。なにをつかむことができるようになるのか、だれもわからない。
 その、わからないものが始まる一瞬が、最後の行の矛盾に凝縮している。
 さらにいえば、「せめて」に凝縮している。
 「せめて」ということばは、矛盾したものを並列するときにはつかわない。逆に、同列のものに対してつかう。1万円、せめて5000円あれば。目標(?)があって、それにおよばないまでも、それに近く……。こういうことばは、矛盾したものを並列するときには、そぐわない。間違っている。
 けれど、「あえて」、あるいは「わざと」、そう書くのである。そのとき、矛盾が、かけ離れた存在ではなく、とても近いものになる。ほとんど融合しそうなものになる。そして、そのとき、あらゆるものが「近い」存在として浮かび上がる。隣り合い、いつでも入れ替わるものとして浮かび上がる。
 そういうもののひとつが、ナルシスの美である。

 自分が自分にみとれてしまう美。それは、それ自体矛盾である。だから、そのなかで「自然な態度」と「芝居」が近接し、同居してしまうことにもなるのだ。

 この詩の中では、しかし、私は最後の行よりも、

「やっぱりだめだ」と彼はひとりごちた、「だめだ」。

 にとてもひかれる。その口語の響きに。そして、口語の孤独に。
 この詩の中に描かれているものは「しっくい」にしろ、「ソックス」「シャツ」にしろ、互いに響きあっている。「無残なもの」「形の崩れたもの」として「ナルシス」そのものときつく結びついている。「レタス」も「鏡」も響きあっている。
 ただ、「やっぱりだめだ」「だめだ」という口語--ことばだけが孤独である。

 かつてナルシスには美があった。そのとき、ことばは必要なかった。美そのものがことばだったからである。いまは、それがない。そして、美を失ったとき、ことばが、「肉体」のことばがふいにあふれてきたのだ。「肉体」を突き破って、孤独な状態で。
 「だめだ」はなにとも結びついていない。なにがだめなのか、書いてはいない。しかし、誰にでもなにがだめなのか、完全にわかってしまう。「肉体」のことばとは、そういうものである。説明はいらない。「肉体」が受け止めてしまうのである。それが、どんなに孤立していることば、孤独なことばであっても。--このとき、つまり、孤独なことばにふれるとき、「せつなさ」のようなもの、「かなしみ」のようなものが生まれる。


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