北川浩二『静かな顔』(ポエトリー・ジャパン、2008年07月24日発行)
ことばがことばを批評しない--そういう詩である。多くの現代詩はことばを批評しながら書かれている。北川はそういうことをしない。ことばの「意味」をていねいに守っている。外からやって来る批判を、ことばの壁で守りきろうとしている。
そのために、とても「論理的」になっている。特徴的なことばが「なぜなら」である。詩集の中にいくつも出てくるが、たとえば「報告」。全行。
ただし、「論理的」とはいっても、そこにはほんとうは論理はない。論理を超越して、なにかをいいたいとき、「なぜなら」がつかわれるのである。強引に「なぜなら」ということばで「論理」を築き、そのなかに「なにか」を閉じ込め、ガードする。他人の論理が侵入してくるのを拒絶するための「なぜなら」なのである。
もし北川の書いていることを批判するなら、この「なぜなら」を超越する別の「なぜなら」という構造が必要になる。
「なぜなら」という疑似論理(?)をつかってまで、守りたいものとはなんだろうか。
それは、たとえば、「こころ」というものかもしれない。ことばではたどりつけない「こころ」。ことばは、その「こころ」のまわりをまわっている。まわりながら「こころ」を守っている。ほんとうに思っていること、感じていること、まだことばにならないピュアなもの。そういうものを守りたい、大事にしたいという思いが、北川の「なぜなら」を動かしている。
「なぜなら」がつかわれていない作品にも「なぜなら」は隠れている。「静かな顔」の全行。
1連目と2連目のあいだ、その行間に「なぜなら」が隠れている。そして、この「なぜなら」が結びつける2連目の世界というのは、論理的に見えるが実証できるような論理ではない。ただ「こころ」がそれを納得するかどうかだけが問題のことがらである。北川の「こころ」が描き出した世界である。それを守るように、そっと、ことばがはりめぐらされる。
「なぜなら」が違った形をとってあらわれることもある。「考える」。
2連目の「しかし」。これは、実は「どこかで考えることなどできない/なぜなら」という意味が凝縮された形である。そこには「なぜなら」が含まれている。隠れている。北川は、いつも「なぜなら」ということばをつかって、ことばを動かしているのである。そうやって、自分の考え(こころ)をていねいに守った上で、形にして見せる。
そこには、そういうていないな形で他人と出会いたいという北川の思いがある。それはそれでとても大切なことだ。
しかし、私は、そういうていねいさをちょっと超えた部分がほんとうは好きである。先に引用した「静かな顔」の3連目。
その3連目への飛躍には「なぜなら」がない。いや、ほんとうはあるのだろうけれど、それが見つけられないでいる。見つけられないまま、それでもほんとうのことを言ってしまった--そういう美しさがここにはある。無防備な美しさがある。
「なぜなら」を捨て去って、無防備になって、傷ついてもいい、という覚悟でことばが動きはじめると、北川の詩は「やさしさ」(ていねいさ)の先にあるものにふれるのではないだろうか、と思った。
ことばがことばを批評しない--そういう詩である。多くの現代詩はことばを批評しながら書かれている。北川はそういうことをしない。ことばの「意味」をていねいに守っている。外からやって来る批判を、ことばの壁で守りきろうとしている。
そのために、とても「論理的」になっている。特徴的なことばが「なぜなら」である。詩集の中にいくつも出てくるが、たとえば「報告」。全行。
家に帰る ただいまという
今日はとても楽しかった
とはっきり嘘をつく
いったい誰に?
大切な人に
今日はとても楽しかった
と明るい 一日の報告
正直に何はいえて
何をいえないのか
いまでもわからない
かけがえのない
特別な人を前にして
今日はとても楽しかった
それは本当のこと
なぜなら他の
言葉が出てこないから
ただし、「論理的」とはいっても、そこにはほんとうは論理はない。論理を超越して、なにかをいいたいとき、「なぜなら」がつかわれるのである。強引に「なぜなら」ということばで「論理」を築き、そのなかに「なにか」を閉じ込め、ガードする。他人の論理が侵入してくるのを拒絶するための「なぜなら」なのである。
もし北川の書いていることを批判するなら、この「なぜなら」を超越する別の「なぜなら」という構造が必要になる。
「なぜなら」という疑似論理(?)をつかってまで、守りたいものとはなんだろうか。
それは、たとえば、「こころ」というものかもしれない。ことばではたどりつけない「こころ」。ことばは、その「こころ」のまわりをまわっている。まわりながら「こころ」を守っている。ほんとうに思っていること、感じていること、まだことばにならないピュアなもの。そういうものを守りたい、大事にしたいという思いが、北川の「なぜなら」を動かしている。
「なぜなら」がつかわれていない作品にも「なぜなら」は隠れている。「静かな顔」の全行。
ひとりで暮らすとしたら
もしひとりで生きるとしたら
ただそういうことになったんだと思って
静かな顔をしたい
その静かな顔が
生涯続けば
それで静かな人生の完成
不思議だね
不思議だよ
一晩中ついている
明るい電灯のように生きていたい
誰も消さないので
一晩中ついたままの
明るい電灯のように生きていたい
1連目と2連目のあいだ、その行間に「なぜなら」が隠れている。そして、この「なぜなら」が結びつける2連目の世界というのは、論理的に見えるが実証できるような論理ではない。ただ「こころ」がそれを納得するかどうかだけが問題のことがらである。北川の「こころ」が描き出した世界である。それを守るように、そっと、ことばがはりめぐらされる。
「なぜなら」が違った形をとってあらわれることもある。「考える」。
深く考えたがために
いたるところで つまずいてしまうきみか?
ならば
さて考えることを
どこでやめようか
どこで考えるのをやめられるだろうか
しかし
考えるとは生理的なものだ
考えるとは
荒い呼吸のようなもの
幸運に恵まれたときだけ
それは乱れの少ない寝息のようなもの
2連目の「しかし」。これは、実は「どこかで考えることなどできない/なぜなら」という意味が凝縮された形である。そこには「なぜなら」が含まれている。隠れている。北川は、いつも「なぜなら」ということばをつかって、ことばを動かしているのである。そうやって、自分の考え(こころ)をていねいに守った上で、形にして見せる。
そこには、そういうていないな形で他人と出会いたいという北川の思いがある。それはそれでとても大切なことだ。
しかし、私は、そういうていねいさをちょっと超えた部分がほんとうは好きである。先に引用した「静かな顔」の3連目。
その3連目への飛躍には「なぜなら」がない。いや、ほんとうはあるのだろうけれど、それが見つけられないでいる。見つけられないまま、それでもほんとうのことを言ってしまった--そういう美しさがここにはある。無防備な美しさがある。
「なぜなら」を捨て去って、無防備になって、傷ついてもいい、という覚悟でことばが動きはじめると、北川の詩は「やさしさ」(ていねいさ)の先にあるものにふれるのではないだろうか、と思った。
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