詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川浩二『静かな顔』

2008-12-22 10:47:05 | 詩集
北川浩二『静かな顔』(ポエトリー・ジャパン、2008年07月24日発行)

 ことばがことばを批評しない--そういう詩である。多くの現代詩はことばを批評しながら書かれている。北川はそういうことをしない。ことばの「意味」をていねいに守っている。外からやって来る批判を、ことばの壁で守りきろうとしている。
 そのために、とても「論理的」になっている。特徴的なことばが「なぜなら」である。詩集の中にいくつも出てくるが、たとえば「報告」。全行。

家に帰る ただいまという
今日はとても楽しかった
とはっきり嘘をつく
いったい誰に?
大切な人に

今日はとても楽しかった
と明るい 一日の報告
正直に何はいえて
何をいえないのか
いまでもわからない
かけがえのない
特別な人を前にして

今日はとても楽しかった
それは本当のこと
なぜなら他の
言葉が出てこないから

 ただし、「論理的」とはいっても、そこにはほんとうは論理はない。論理を超越して、なにかをいいたいとき、「なぜなら」がつかわれるのである。強引に「なぜなら」ということばで「論理」を築き、そのなかに「なにか」を閉じ込め、ガードする。他人の論理が侵入してくるのを拒絶するための「なぜなら」なのである。
 もし北川の書いていることを批判するなら、この「なぜなら」を超越する別の「なぜなら」という構造が必要になる。
 「なぜなら」という疑似論理(?)をつかってまで、守りたいものとはなんだろうか。
 それは、たとえば、「こころ」というものかもしれない。ことばではたどりつけない「こころ」。ことばは、その「こころ」のまわりをまわっている。まわりながら「こころ」を守っている。ほんとうに思っていること、感じていること、まだことばにならないピュアなもの。そういうものを守りたい、大事にしたいという思いが、北川の「なぜなら」を動かしている。

 「なぜなら」がつかわれていない作品にも「なぜなら」は隠れている。「静かな顔」の全行。

ひとりで暮らすとしたら
もしひとりで生きるとしたら
ただそういうことになったんだと思って
静かな顔をしたい

その静かな顔が
生涯続けば
それで静かな人生の完成
不思議だね
不思議だよ

一晩中ついている
明るい電灯のように生きていたい
誰も消さないので
一晩中ついたままの
明るい電灯のように生きていたい

 1連目と2連目のあいだ、その行間に「なぜなら」が隠れている。そして、この「なぜなら」が結びつける2連目の世界というのは、論理的に見えるが実証できるような論理ではない。ただ「こころ」がそれを納得するかどうかだけが問題のことがらである。北川の「こころ」が描き出した世界である。それを守るように、そっと、ことばがはりめぐらされる。

 「なぜなら」が違った形をとってあらわれることもある。「考える」。

深く考えたがために
いたるところで つまずいてしまうきみか?
ならば
さて考えることを
どこでやめようか
どこで考えるのをやめられるだろうか

しかし
考えるとは生理的なものだ
考えるとは
荒い呼吸のようなもの
幸運に恵まれたときだけ
それは乱れの少ない寝息のようなもの

 2連目の「しかし」。これは、実は「どこかで考えることなどできない/なぜなら」という意味が凝縮された形である。そこには「なぜなら」が含まれている。隠れている。北川は、いつも「なぜなら」ということばをつかって、ことばを動かしているのである。そうやって、自分の考え(こころ)をていねいに守った上で、形にして見せる。
 そこには、そういうていないな形で他人と出会いたいという北川の思いがある。それはそれでとても大切なことだ。

 しかし、私は、そういうていねいさをちょっと超えた部分がほんとうは好きである。先に引用した「静かな顔」の3連目。
 その3連目への飛躍には「なぜなら」がない。いや、ほんとうはあるのだろうけれど、それが見つけられないでいる。見つけられないまま、それでもほんとうのことを言ってしまった--そういう美しさがここにはある。無防備な美しさがある。
 「なぜなら」を捨て去って、無防備になって、傷ついてもいい、という覚悟でことばが動きはじめると、北川の詩は「やさしさ」(ていねいさ)の先にあるものにふれるのではないだろうか、と思った。




静かな顔
北川浩二
ポエトリージャパン

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(1)中井久夫訳

2008-12-22 00:20:21 | リッツォス(中井久夫訳)
陶工    リッツォス(中井久夫訳)

壺も造った。植木鉢も。土鍋も。
粘土が少し残った。
女を造った。乳房を大きく丁寧に。
彼の心は揺れた。その日の帰宅は遅れた。
妻がぶつぶつ言った。彼は返事をしなかった。
翌日はもっと沢山の粘土を残した。翌々日はもっともっと。
彼は家に帰ろうとしなくなった。妻は彼を見限って去った。
彼の眼は燃えさかる。上半身裸。赤い腰帯を締めて、
夜をこめて陶土の女たちを練る。
明け方には工房の垣根の彼方に彼の歌声が聞こえる。
赤腰帯も捨ててしまった。裸。ほんとうに裸。
彼の周りには、一面、空の壺、空の土鍋、空の植木鉢、
そして耳も聞こえず目も見えずものも言えない美女たち、
乳房を噛み取られて--。



 寓話のような詩である。つくったものに魅せられて、そこからのがれられなくなる。ここに描かれているのは「陶工」だが、そういうことは詩でもあるかもしれない。ただ、同じものだけをつくるということが。

 この作品では、私は2行目が好きだ。2行目の「少し」ということばが。そして6行目の「もっともっと」ということばが。
 「少し」であるからこそ、逸脱してしまったのだ。最初はいつでも「少し」なのだろう。「少し」逸脱する。「少し」なので大丈夫(?)と思い逸脱する。そして、それを繰り返してしまう。「少し」から「もっともっと」への変化。その変化を、リッツォスは素早く書いている。中井は素早く訳している。
 たぶん、「もっともっと」が一番の工夫なのだと思う。
 「もっともっと」のあとには「沢山」が省略されている。省略することで、ことばにスピードが出る。そして、そのスピードにのって、ことばが加速する。加速して、逸脱していく。「陶工」が常軌を逸していく。
 この陶工の恋は狂おしい。加速するだけで、減速することを知らないからだ。1行目に出てきた「壺」「植木鉢」「土鍋」ということばをひっぱりだしてきても、もう、もとにはもどれない。逆に、「過去」によって、「いま」がさらに逸脱していることが浮き彫りになるだけである。
 この対比も、とてもおもしろい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする