詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大岡信「前もつて知ることはできぬ」

2008-12-28 23:41:25 | 詩集
大岡信「前もつて知ることはできぬ」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 大岡信「前もつて知ることはできぬ」の初出誌紙は『鯨の会話体』(2008年04月)。
 大岡の詩を読むと、ことばの運動が詩なのだということがよくわかる。ことばが動くことでしか明らかにできないものをとらえるのが詩であるということが、とてもよくわかる。作品の書き出しの2連。

われわれは前もつて
持つことはできぬ、
愛するものの
完璧なイメージを。

こなごなに壊されてしまつてから
それはやうやく
真にわれわれのものになる
いとほしい思ひ出となって--

 取りかえしがつかない、あるいは不可能を知ったときに、その不可能性のなかでのみ、何事かが生成する。その動きが詩なのである。思い出は過ぎ去るものではなく、つねに生成してくる。過去から今へと生成してくる。そのとき、詩が生まれる。
 この詩で、私はひとつだけ気がかりなことがある。

こなごなに壊されてしまつてから

 この行の「壊されて」が、なぜか気になる。
 この詩には、「戦争はすべてを手遅れにする」という副題がついている。「戦争」が「愛するものの/完璧なイメージ」を壊してしまう。戦争によって、壊されてしまう。そういうことを描くことで、反戦を訴えている。それはたしかによくわかるのだが、「壊されて」が気になる。
 もしこれが「壊してしまってから」なら、私は、そんなに気にならなかったと思う。

 「壊されて」には、何か「被害者」のイメージが残る。戦争の前ではだれもが被害者、犠牲者だから、「壊されて」でかまわないのかもしれない。しかし、世界には、被害者、犠牲者だけが生きているのではなく、どこかに加害者もいる。私たちは加害者かもしれないという視点が、論理を明確に(ことばの運動を明確に)しようとするこころによって、すーっと、こぼれてしまっているような気がするのである。





鯨の会話体―詩集
大岡 信
花神社

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リッツォス「タナグラの女性像(1967)」より(7)中井久夫訳

2008-12-28 00:24:05 | リッツォス(中井久夫訳)
一覧表    リッツォス(中井久夫訳)

夜には、別の壁が壁のまた後ろにあるのを本能が教えるだろうか。鹿も
泉の水を飲みにやってこようとせず、森に残る。
月が出ると、第一の壁が砕ける。次いで、第二、第三の壁も。
野兎が降りてくる。谷で草をはむ。
あらゆるものが、そのままのかたちとなり、やわらかで、輪郭がぼんやりして、銀色だ。
月光のもとの雄牛の角も、屋根の上のフクロウも、
河をあてどなく流れ下る、封印をしたままの梱包も--。



 リッツォスの作品としては、かなり珍しい部類の作品だと思う。人間が登場しない。主役は「夜」である。とても美しい。自分のいのちをまもって静かに生きる動物たちの姿が、とても静かだ。
 そして、最初に「人間が登場しない」と書いたけれど、その静かな姿のそばを、人間の形をしない人間が通っていく。河を流れる「梱包」。そこには「人間」の匂いがする。その匂いが夜のなかで異質に輝く。
 詩は異質なものの出会い--そういう定義に従えば、ここに詩がある。そして、この詩の特徴は孤独である。「梱包」さえも、他者から離れ、孤立している。封印をほどかれないまま流れてきた--これは、別の見方をすれば、封印をしたまま流されてきた(知られたくないものを封をしたまま誰かが流した)とも受け取れる。しかし、それをリッツォスは「封印をしたままの」と修飾する。定義する。そうすることで、そこに「梱包」の孤独が生まれる。
 この、微妙なことばのつかい方--その訳し方。孤独を愛する人間の精神が、月の光を浴びて、いま、静かな森で佇んでいる。

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