詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新井豊美「その名はゆずりは」

2008-12-19 11:34:38 | 詩(雑誌・同人誌)
新井豊美「その名はゆずりは」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 新井豊美「その名はゆずりは」の初出誌は「東京新聞」2008年03月19日。
 この作品は新井豊美のことばとしては異質のものかもしれない。けれども、私は、この「異質」な新井豊美が好きである。
 書き出しから魅力的だ。

締めつけていた寒気が去ると
隣家との境の
うっとうしいブロック塀の四角い角も
なんとなく丸みを帯びてくる

 うれしさのあまり、何度も何度も繰り返し、この4行を読んでしまった。「なんとなく」。この、詩から遠い、ぼんやりしたことば、散文のつなぎのようなあいまいなことばがとても美しい。「なんとなく」があるから、「隣家」という具体的な手触りが生きてくる。「うっとうしい」という粗雑な(?)ことばが生きてくる。「四角」と「丸み」も生きてくる。いきいきしてくる。
 一方にはっきりしているものがあり、他方にはっきりしないものがある。そして、そのはっきりしないものというのは、「なんとなく」なのである。いいなあ。この肉体感覚。新井豊美のことばに、私はひさびさに肉体を感じた。生きているいのちを感じた。「頭」以外の、やわらかなことばの動きを感じた。
 「なんとなく」。いいなあ。これは。
 「なんとなく」では、何がなんだかわからないかもしれない。「なんとなく」ではなく、もっと「わかる」ものを指し示すのが文学のことばであるという見方があるかもしれないが、私は、この「なんとなく」と書くことでことばが動きはじめるときの、その肉体感覚が好きなのだ。「頭」の存在をきょぜつしているようなことば。「なんとなく」。最終的には「頭」からは削除されてしまうあいまいなことば、あってもなくても事実(?)はかわらないようなことば。
 「ブロック塀の四角い角も/丸みを帯びてくる」と「なんとなく」を省略して書いた方がすっきりするかもしれないけれど、新井は、それを避けている。そこが魅力的なのだ。
 あいまいなことば--しかし、そのあいまいなことばを通ることではじめてことばが動くのである。まだわからないものの方へ。ことばとして、定着していないものの方へ。
 
つがいのめじろを追いやって 冬じゅう
わが狭庭(さにわ)を我がもの顔に占領していた
ひよどりたちが翔(と)び立ったあと
気がつくと冷たい土の下から覗(のぞ)くものがあり
土を持ち上げ
そっとあたりをうかがうものがあり

あれはなに?
あれはだれ?

 「あれ」としか言えないもの。「なに」としか言えないもの。「だれ」としか言えないもの。すべて、「頭」ではとらえきれないもの。「頭」のことばでは定着しないもの。あいまいなもの。そういうものが世界に存在する。その存在に向けて、ことばにならないものが動いていく。ことばを求めて動いていく。その動きは、どうにも定義できない。「なんとなく」動いていくのである。そして、この「なんとなく」は「頭」のことばでは説明ができないけれど、どんなひとも肉体で知っている動きなのである。ひとはいつでも「なんとくな」何かにひかれて行く。「なんとなく」何かを見つめ、それに誘われてしまう。そのときの、不思議な不思議な肉体感覚、肉体のなかでなにかが目覚めるような感覚--それを、「なんとなく」ははっきりと伝えている。
 「なんとなく」としか、言えないものがあるのだ。

 こんなとき、ことばはどう動くのか。4、5連目。

あれ あれは流れ星の子
あれは子蛇のかくし玉
あれは天から授かったポエジーの卵
などとおもいつくままに呼んでいた「あれ」が
青い猶予の時間を終えたその日から
明るさをました陽の下におどり出てもろ手を開き
ぐいぐいと向日性の背丈を伸ばして

あれはもう「あれ」ではなく
その名は「ゆずりは」

 肉体で何もつかみきれないとき、ことばは「頭」に頼る。「流れ星の子」「子蛇のかくし玉」「ポエジーの卵」。現実には存在しないもの。けれども、すでに誰かがことばにした存在。(実際に、そういう表現があるかどうかではなく、そういう「文法」、ことばのつなぎ方の問題である。)そういうものを頼ってことばは動く。肉体がことばを探すときは、いつでもそんなふうにして「先人」に頼る。すでに存在することば、ことばの文法に頼る。そして、そうすることで「頭」の中のことばを捨てる。「流れ星の子」も「子蛇のかくし玉」も「ポエジーの卵」も、それは捨てるためのことばである。ほんとうに書きたいことばではない。ほんとうに書きたいのは、最後の最後に出てくる「ゆずりは」である。
 そして、ほんとうに書きたいことばにたどりついたとき、実は、それは単なる結論になり、そしてそれが結論になるとき、捨てるために書いたことばが、詩として復活する。肉体の奥に沈んできらきら輝きだす。捨ててしまったとき、それは「先人」のことばではなく、新井の「肉体」のことばになる。
 「なんとなく」は「流れ星の子」や「子蛇のかくし玉」や「ポエジーの卵」を肉体とすることで、「ゆずりは」になる。そのとき、「ゆずりは」のなかには「流れ星の子」も「子蛇のかくし玉」も「ポエジーの卵」も一体になっている。その「一体」であることを支えるのが、新井の「肉体」なのである。「なんとなく」を受け入れ、「なんとなく」と一緒に動いた「肉体」なのである。





草花丘陵
新井 豊美
思潮社

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ロジャー・ドナルドソン監督「バンク・ジョブ」(★★★★★)

2008-12-19 09:29:39 | 映画
監督ロジャー・ドナルドソン 出演 ジェイソン・ステイサム、サフロン・バロウズ

 銀行強盗のつもりが、王室のスキャンダルを映した写真を盗み出すために利用された愚かな男たち--のはずが、知ってしまった秘密、それを封じようとする組織、逆に同時に見つかった別のスキャンダルをあばこうとする組織を利用し、組織と組織を対立させ、銀行強盗の手配をくぐりぬけ、大金を手に入れ、自由も手に入れてしまう。いわば、ピカレクス映画。
 この映画をおもしろいものにしているのは、二転三転のストーリー展開よりも、実はイギリス独特のスピード。
 ハリウッド映画なら、もっとスピードが速い。特にアクションが速い。画面の切り替えが速い。組織の対立ももっと組織全体として描く。何が起きたのか、一瞬わからないくらいの速さで展開すると思う。しかし、イギリス映画は、実にゆっくりと見せる。ひとつひとつのシーンがゆっくりと進む。
 なぜか。
 イギリスは、ことばの国だからである。映画だから、映像で見せるのはもちろんだが、きちんとことばで見せる。ことばを見せる。ひとつひとつのシーンをことばで補足する。たとえば、サフロン・バロウズがMI-5の男と話している。それをジェイソン・ステイサムが見る。そのあとジェイソン・ステイサムきちんと「何をしていたんだ」と尋ねる。そして、サフロン・バロウズ「口説かれていた」としっかり嘘をつく。このきちんとした会話が、そのスピードが、実にゆったりしている。はっきりと、嘘と、嘘に気づいているということを観客に理解させる。
 さらには、銀行強盗のためのトンネルを掘っているときの、見張りとトンネル掘りの無線のやりとり。救急車が来て、パトカーが来て、一方で無線を傍受したひとが警察に通報してというようなことが、そのやりとりが、じれったいくらい正確に会話でやりとりされる。ことばにならないことは、存在しない、とでもいう感じだ。
 そして、この映画のミソは、実は、それである。つまり、ことばにならないことは存在しない--というのがこの映画の本質なのだ。
 ジェイソン・ステイサムは王室のスキャンダルを知る。同時に、国会議員のスキャンダルが絡み、さらに警官の汚職が絡み、というようなことも知る。そして、それらが絡み合ったために、まぬけなはずの男たちが、いくつ組織、何人もから狙われる超高級(?)悪党になっていく。そしてその超悪党がみごとに、すべての権力を手玉にとって成功をおさめる、大金を手に入れるというストーリーが展開するのだが、最終的に、ジェイソン・ステイサムがつかまらないのは、それが「ことば」にならなかったということなのだ。犯人は存在するが、犯人を指し示す固有名詞(名前)がニュースとして存在しないということ。それが、この映画を成立させている。いろいろなスキャンダルは絡み合っており、絡み合っているがゆえに、犯人たちはそれを利用して自分たちの存在を隠すことができたのだが(不在にする--つまり自由になることができなたのだが)、その絡み合いをことばに定着させることができるのは、実は犯人たちだけなのである。犯人たちが不在であるとき、それらのスキャンダルは(特に王室のスキャンダルは)、ことばとして存在しなかったことになる。(これはMI-5の狙い通りである。だからこそ、それと引き換えに、犯人たちは自由を手にしたのである。)多くの被害者は被害を届けない。つまり、ことばにしない。そうすることで、被害は存在しなかったことになる。こういうことばと現実の楮をを犯人たちは利用する。
 ことばとして存在しないものは、イギリスでは存在しないと見なされるのだ。

 そして、ここからとてもおもしろい国民性も浮かび上がってくる。ことばとして存在しない、というとき、そのことばは「本人のことば」なのである。銀行強盗で言えば、被害者が何を盗まれたと「ことば」で訴えない限り、そこには被害は存在しないことになる。逆に言えば、ある人が何をしようが、それについて本人が何も語らないとき、その行為は存在しなかったことになる。これは別の言い方をすれば、あらゆる個人の「秘密」をイギリス国民は尊重するということである。たとえば王室のスキャンダル。それはだれもが知っている。けれども、そのことを王室自身が語らなければ、それは存在しない、存在しなかったこととして受け入れる。つまり、追及の対象にはならない。追及の対象にしない。
 最初のジェイソン・ステイサムとサフロン・バロウズの会話にしても、それがたとえ嘘であったとしてもサフロン・バロウズが「男に口説かれていた」と言えば、そのときはそれを受け入れる。それ以上は追及はしない。サフロン・バロウズがきちんと彼女自身のことばで説明するまでは、すべては存在しないものとして受け入れる。逆に言えば、必ず、ことばとして彼女が語るまで待つ、ということである。このことばと現実との関係の追及が、そのスピードが独特なために、この映画はおもしろくなっているのである。
 これがアメリカならまったく違う。本人が語らなくても、他人が語れば充分なのである。むしろ、他人が語る、物証があるということの方が、本人が語るということより重要である。「もの」をつきつけて、誰かを追いつめていく。スキャンダルの追及は、そんなふうに展開する。(クリントンとモニカのスキャンダルはクリントンが語らなくても、公に存在してしまう。)
 誰にでも秘密はある。そして、個人個人が秘密を持っているということを受け入れるのがイギリスである。この映画で、犯人たちは大金を手に入れる。それを受け入れるのも、実は、イギリス人の性質である。単に悪漢が好きというのではない。悪漢だって秘密を持っているというだけのことなのである。凡人は持てない秘密を持っている。悪漢がそれを語らないなら、その秘密は、公のものではないから、存在しないのだ。犯人たちは、犯罪を犯したことにはならない。つまり、自由なのだ。
 プライベートとパブリックという概念がいつでも明確に存在するのがイギリスであり、それはことばとともに存在する。ことばがプライベートとパブリックを区別する。この映画で描かれている王室のスキャンダルも、それは王室が語ったことばではなく、他者(映画制作者)が語っていることなのだから、それは「パブリック」なものではない。パブリックではないから、王室は、苦虫をかみつぶしているかもしれないけれど、知らんぷりをする。知らんぷりができるのだ。

 あ、大人の世界だなあ、大人の映画だなあ、と思ってしまう。


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リッツォス「証言C(1966-67)」より(2)中井久夫訳

2008-12-19 00:29:21 | リッツォス(中井久夫訳)
井戸のまわりで  リッツォス(中井久夫訳)

女が三人、壺を持って、湧井戸のまわりに腰を下ろしている。
大きな赤い葉っぱが、髪にも肩にも降りかかっている。
鈴懸の樹の後ろに誰か隠れて石を投げた。壺が一つ壊れた。
水はこぼれない。水はそのままだった。
水面が輝いて我々の隠れているほうを見つめた。



 この詩に書かれている情景は矛盾している。なぜ矛盾していることを書いたのかといえば、それは現実そのものの描写ではないからだ。現実に触発されて見た、一瞬の情景だからである。こころが見た情景である。だから矛盾していてもいいのだ。
 女たちの気を引こうとして小石を投げる。それは手元がそれて壺にあたる。その音を聞いた瞬間、小石を投げた「我々」は、もう壺を見ていない。はっとして、身を隠す。隠れてしまうので肉眼は壺の様子がわからない。「壊れた」と思っても、壊れてはいない。「水はこぼれない。水はそのままだった。」--これは、一つの、見方である。
 また、次のようにも読むことができる。こころは、次のような情景を見たとも考えることができる。
 壺は壊れた。しかし、その瞬間、水はすぐにこぼれるのではなく、壺の形のまま直立している。壺の形のまま、丸みを帯びて垂直に立っている。いわば、壺という衣裳を脱いで、裸で立っている。その裸の水面、きらきらとした水面が、その不思議な力(垂直に立っていることができる力)で、「我々」を見ている。隠れているけれども、隠れることのできない「我々」をしっかり見ている。--水に、見られてしまった。隠れながら、「我々」はそう感じる。
 
 このふたつの読み方。そして、私は、実は、後者の読み方をしたいのだ。

水はこぼれない。水はそのままだった。
水面が輝いて我々の隠れているほうを見つめた。

 この水の、水自身で立っている美しい姿。それは「輝いて」としか表現できない。艶やかで、透明で、美しい輝き。その輝きが、私はとても好きだ。
 その水は、一瞬、こころのなかで輝いた後、壺のように壊れるだろう。壊れて、女たちの足をぬらすかもしれない。けれども、その水が壊れる前の、一瞬の、水が水自身が剥き出しになったことに驚き、恥じらい、固まったようにして輝く--その一瞬が、その輝きが私はとても好きだ。

 そんなものは現実にはありえない、とひとはいうかもしれない。けれど、そういう現実にはありえないものを、ことばは見ることができる。詩は、そうやって現実を超越する。矛盾を超越する。そして、矛盾を超越するところにこそ、思想は存在する。美はあらゆるものを超越して存在することができるという思想が、そこには存在する。

 この詩は、とても好きな詩である。私の読み方が誤読だとしてもかまわない。私は、むしろ、ずーっと誤読しつづけていたい。

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