新井豊美「その名はゆずりは」(「現代詩手帖」2008年12月号)
新井豊美「その名はゆずりは」の初出誌は「東京新聞」2008年03月19日。
この作品は新井豊美のことばとしては異質のものかもしれない。けれども、私は、この「異質」な新井豊美が好きである。
書き出しから魅力的だ。
うれしさのあまり、何度も何度も繰り返し、この4行を読んでしまった。「なんとなく」。この、詩から遠い、ぼんやりしたことば、散文のつなぎのようなあいまいなことばがとても美しい。「なんとなく」があるから、「隣家」という具体的な手触りが生きてくる。「うっとうしい」という粗雑な(?)ことばが生きてくる。「四角」と「丸み」も生きてくる。いきいきしてくる。
一方にはっきりしているものがあり、他方にはっきりしないものがある。そして、そのはっきりしないものというのは、「なんとなく」なのである。いいなあ。この肉体感覚。新井豊美のことばに、私はひさびさに肉体を感じた。生きているいのちを感じた。「頭」以外の、やわらかなことばの動きを感じた。
「なんとなく」。いいなあ。これは。
「なんとなく」では、何がなんだかわからないかもしれない。「なんとなく」ではなく、もっと「わかる」ものを指し示すのが文学のことばであるという見方があるかもしれないが、私は、この「なんとなく」と書くことでことばが動きはじめるときの、その肉体感覚が好きなのだ。「頭」の存在をきょぜつしているようなことば。「なんとなく」。最終的には「頭」からは削除されてしまうあいまいなことば、あってもなくても事実(?)はかわらないようなことば。
「ブロック塀の四角い角も/丸みを帯びてくる」と「なんとなく」を省略して書いた方がすっきりするかもしれないけれど、新井は、それを避けている。そこが魅力的なのだ。
あいまいなことば--しかし、そのあいまいなことばを通ることではじめてことばが動くのである。まだわからないものの方へ。ことばとして、定着していないものの方へ。
「あれ」としか言えないもの。「なに」としか言えないもの。「だれ」としか言えないもの。すべて、「頭」ではとらえきれないもの。「頭」のことばでは定着しないもの。あいまいなもの。そういうものが世界に存在する。その存在に向けて、ことばにならないものが動いていく。ことばを求めて動いていく。その動きは、どうにも定義できない。「なんとなく」動いていくのである。そして、この「なんとなく」は「頭」のことばでは説明ができないけれど、どんなひとも肉体で知っている動きなのである。ひとはいつでも「なんとくな」何かにひかれて行く。「なんとなく」何かを見つめ、それに誘われてしまう。そのときの、不思議な不思議な肉体感覚、肉体のなかでなにかが目覚めるような感覚--それを、「なんとなく」ははっきりと伝えている。
「なんとなく」としか、言えないものがあるのだ。
こんなとき、ことばはどう動くのか。4、5連目。
肉体で何もつかみきれないとき、ことばは「頭」に頼る。「流れ星の子」「子蛇のかくし玉」「ポエジーの卵」。現実には存在しないもの。けれども、すでに誰かがことばにした存在。(実際に、そういう表現があるかどうかではなく、そういう「文法」、ことばのつなぎ方の問題である。)そういうものを頼ってことばは動く。肉体がことばを探すときは、いつでもそんなふうにして「先人」に頼る。すでに存在することば、ことばの文法に頼る。そして、そうすることで「頭」の中のことばを捨てる。「流れ星の子」も「子蛇のかくし玉」も「ポエジーの卵」も、それは捨てるためのことばである。ほんとうに書きたいことばではない。ほんとうに書きたいのは、最後の最後に出てくる「ゆずりは」である。
そして、ほんとうに書きたいことばにたどりついたとき、実は、それは単なる結論になり、そしてそれが結論になるとき、捨てるために書いたことばが、詩として復活する。肉体の奥に沈んできらきら輝きだす。捨ててしまったとき、それは「先人」のことばではなく、新井の「肉体」のことばになる。
「なんとなく」は「流れ星の子」や「子蛇のかくし玉」や「ポエジーの卵」を肉体とすることで、「ゆずりは」になる。そのとき、「ゆずりは」のなかには「流れ星の子」も「子蛇のかくし玉」も「ポエジーの卵」も一体になっている。その「一体」であることを支えるのが、新井の「肉体」なのである。「なんとなく」を受け入れ、「なんとなく」と一緒に動いた「肉体」なのである。
新井豊美「その名はゆずりは」の初出誌は「東京新聞」2008年03月19日。
この作品は新井豊美のことばとしては異質のものかもしれない。けれども、私は、この「異質」な新井豊美が好きである。
書き出しから魅力的だ。
締めつけていた寒気が去ると
隣家との境の
うっとうしいブロック塀の四角い角も
なんとなく丸みを帯びてくる
うれしさのあまり、何度も何度も繰り返し、この4行を読んでしまった。「なんとなく」。この、詩から遠い、ぼんやりしたことば、散文のつなぎのようなあいまいなことばがとても美しい。「なんとなく」があるから、「隣家」という具体的な手触りが生きてくる。「うっとうしい」という粗雑な(?)ことばが生きてくる。「四角」と「丸み」も生きてくる。いきいきしてくる。
一方にはっきりしているものがあり、他方にはっきりしないものがある。そして、そのはっきりしないものというのは、「なんとなく」なのである。いいなあ。この肉体感覚。新井豊美のことばに、私はひさびさに肉体を感じた。生きているいのちを感じた。「頭」以外の、やわらかなことばの動きを感じた。
「なんとなく」。いいなあ。これは。
「なんとなく」では、何がなんだかわからないかもしれない。「なんとなく」ではなく、もっと「わかる」ものを指し示すのが文学のことばであるという見方があるかもしれないが、私は、この「なんとなく」と書くことでことばが動きはじめるときの、その肉体感覚が好きなのだ。「頭」の存在をきょぜつしているようなことば。「なんとなく」。最終的には「頭」からは削除されてしまうあいまいなことば、あってもなくても事実(?)はかわらないようなことば。
「ブロック塀の四角い角も/丸みを帯びてくる」と「なんとなく」を省略して書いた方がすっきりするかもしれないけれど、新井は、それを避けている。そこが魅力的なのだ。
あいまいなことば--しかし、そのあいまいなことばを通ることではじめてことばが動くのである。まだわからないものの方へ。ことばとして、定着していないものの方へ。
つがいのめじろを追いやって 冬じゅう
わが狭庭(さにわ)を我がもの顔に占領していた
ひよどりたちが翔(と)び立ったあと
気がつくと冷たい土の下から覗(のぞ)くものがあり
土を持ち上げ
そっとあたりをうかがうものがあり
あれはなに?
あれはだれ?
「あれ」としか言えないもの。「なに」としか言えないもの。「だれ」としか言えないもの。すべて、「頭」ではとらえきれないもの。「頭」のことばでは定着しないもの。あいまいなもの。そういうものが世界に存在する。その存在に向けて、ことばにならないものが動いていく。ことばを求めて動いていく。その動きは、どうにも定義できない。「なんとなく」動いていくのである。そして、この「なんとなく」は「頭」のことばでは説明ができないけれど、どんなひとも肉体で知っている動きなのである。ひとはいつでも「なんとくな」何かにひかれて行く。「なんとなく」何かを見つめ、それに誘われてしまう。そのときの、不思議な不思議な肉体感覚、肉体のなかでなにかが目覚めるような感覚--それを、「なんとなく」ははっきりと伝えている。
「なんとなく」としか、言えないものがあるのだ。
こんなとき、ことばはどう動くのか。4、5連目。
あれ あれは流れ星の子
あれは子蛇のかくし玉
あれは天から授かったポエジーの卵
などとおもいつくままに呼んでいた「あれ」が
青い猶予の時間を終えたその日から
明るさをました陽の下におどり出てもろ手を開き
ぐいぐいと向日性の背丈を伸ばして
あれはもう「あれ」ではなく
その名は「ゆずりは」
肉体で何もつかみきれないとき、ことばは「頭」に頼る。「流れ星の子」「子蛇のかくし玉」「ポエジーの卵」。現実には存在しないもの。けれども、すでに誰かがことばにした存在。(実際に、そういう表現があるかどうかではなく、そういう「文法」、ことばのつなぎ方の問題である。)そういうものを頼ってことばは動く。肉体がことばを探すときは、いつでもそんなふうにして「先人」に頼る。すでに存在することば、ことばの文法に頼る。そして、そうすることで「頭」の中のことばを捨てる。「流れ星の子」も「子蛇のかくし玉」も「ポエジーの卵」も、それは捨てるためのことばである。ほんとうに書きたいことばではない。ほんとうに書きたいのは、最後の最後に出てくる「ゆずりは」である。
そして、ほんとうに書きたいことばにたどりついたとき、実は、それは単なる結論になり、そしてそれが結論になるとき、捨てるために書いたことばが、詩として復活する。肉体の奥に沈んできらきら輝きだす。捨ててしまったとき、それは「先人」のことばではなく、新井の「肉体」のことばになる。
「なんとなく」は「流れ星の子」や「子蛇のかくし玉」や「ポエジーの卵」を肉体とすることで、「ゆずりは」になる。そのとき、「ゆずりは」のなかには「流れ星の子」も「子蛇のかくし玉」も「ポエジーの卵」も一体になっている。その「一体」であることを支えるのが、新井の「肉体」なのである。「なんとなく」を受け入れ、「なんとなく」と一緒に動いた「肉体」なのである。
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