詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「モンゴルのはじっこ」

2008-12-03 08:51:57 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「モンゴルのはじっこ」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 とても素朴な感じがする。そして、たぶん、谷川俊太郎の詩の魅力は、この素朴な感じを失わないことだと思う。
 詩とは異質なものの出合い、その衝撃だが、ここでは谷川は、その異質なもの、とても信じられないような素朴さで書き表している。

初めての土地へ行った
坊主頭のような土地だった
頭の中身の見当がつかなかった
昔のレニングラードみたいな建物があった
そこで賞状と勲章を貰った
髭の老詩人がうちには勲章が沢山ある
今日はそのうちの三つだけつけてきたと言った
らしいが通訳が頼りないから保証できない

 1連目。ここでの「異質」はたとえば「坊主頭の土地」や「レニングラードみたいな建物」ではない。もちろん、それも谷川にとっては「異質」であろうけれど、そこには異質と異質の出合いはない。単なる未知のものとの出合いである。未知であるから、その「頭の中身」に見当がつかないのはあたりまえである。
 この連での「異質」は最後の2行だ。

今日はそのうちの三つだけつけてきたと言った
らしいが通訳が頼りないから保証できない

 特に、最後の行。ここには疑いがある。疑問がある。谷川の中から、何かが生まれはじめている。現実をそのまま受け入れるのではなく、現実と谷川の思いが出合い、そこに融合ではなく、衝突が生まれている。異質なものが出合い、衝突しているのである。
 その「衝突」を保証しているのが、疑念である。「思い」である。
 詩は異質なものの出合い、という定義(?)のほかに、詩は「思い」を書く、思っていることを書くという定義もあるかもしれない。後者の定義は、実に素朴で、小学校の国語の授業の定義のようだが、そういう素朴な定義につながるものを谷川はここでは巧みに生かしている。「思い」「思ったこと」を書き、それをそのまま「衝突」にまで高めている。

 2連目には同じ構造が出てくる。

凸凹道を古いトヨタやニッサンが走っている
真新しいハマーもいたのに驚いた
ベルリンを指す戦車の記念碑があった
スコットランドに似ている丘のふもとの
白いフェルトで作られた家に行った
広い広い草原なのに塀が立っているので
ここでも土地バブルかと思ったら
狼の侵入を防ぐための柵だった

 「驚き」は詩であるかもしれないが、「真新しいハマー」はこころを深くからは裏切らない。そういうものは、軽い詩である。
 この2連でも、最後の2行がすごい。土地バブルの象徴と「思ったら」、柵だった。ここでは「思い」が裏切られている。それも他者の具体的な生活によって、どんなふうに暮らしをするかという「思い」によって裏切られている。
 これは1連目の疑念を超える衝突である。衝撃である。1連目は疑念であるが、ここでは「土地バブル」を想像する想像力そのものが否定されているからである。自分の想像力を否定するものが現実に存在する--その発見が、この作品の核である。自分の「思い」を否定するものとの出合い、それが詩なのである。
 3連目は、その結論のようなもの。

土産屋でポルノトランプを買った
浮世絵もどきの絵がなんとも下手糞で
私の内なる助平が腹を立てた
滑走路が一本しかないのに横風が吹いて
帰りの便が夜中になって北京に一泊
一日損したはずだがちっともそう感じなかった
初めての土地へ行けたのだもの
モンゴルのはじっこに触ったのだもの

 「ちっともそう感じなかった」。そう感じるここころが、別の感じ(思い)によって否定される。そして、生まれ変わる。新しい人間に。新しい思い(想像していなかった思い)に満たされることは、新しい人間に生まれ変わることに等しい。谷川は、そんなふうにして詩を書いている。

 この詩は、とても素朴に見えて、とても技巧的でもある。この3連目。その構造は1連目、2連目とは少し違う。1連目、2連目には、最後の2行で「思い」の衝突があった。異質の出合いがあった。3連目は、その異質の出合い、衝突、古い思いの否定が最後には出てこない。最後の2行には顔を出さず、その前に書かれている。いわば、隠されている。
 最後は、そういうものと無縁のような、素朴な素朴な感想になっている。「初めての土地に行けたのだもの」と、まるで初めて海外旅行をする子どものような感想。「モンゴルのはじっこ」。その「はじっこ」という口語の、子どもっぽい響き。素朴そのものの響き。
 こんな素朴な感想が書けるのは、その前の「そう感じなかった」という行で起きた「生まれ変わり」(再生)そのものの影響である。
 --という感想へ、すーっと谷川のことばはひっぱっていく。

 あ、すごいなあ、と思う。





生きる わたしたちの思い
谷川 俊太郎 with friends
角川SSコミュニケーションズ

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リッツォス「証言B(1966)」より(25)中井久夫訳

2008-12-03 00:02:13 | リッツォス(中井久夫訳)
軽業   リッツォス(中井久夫訳)

体格がいい。筋肉質だ。幾何学的図形の
どんなものにもなれる身体。反跳する。回転する。
頭を脚の間にいれる。顔が靴のかたわらで微笑っている。
跳躍。空中で踵をつかんだ。一、二秒そのまま。
また回転。それからのびる。一つの直線。
腕も脚も剥かれたよう。色が変わっていく。
肌色から濃い赤紫に。身体の底の、肉そのものの色。
彼の業は目に止まらない。完璧な裸体。ただ
立ち上がって、じっとそのまま。泣く。
それからわれわれの拍手。喝采。退場。
廊下を光が消えていく。係員がスイッチを切って回るのだ。



 軽業師の描写は、短く、断片的でありながら、連続している。短く、断片的であるがゆえに、それを連続させる「肉体」(この詩では「裸体」ということばがつかわれている)が最後に浮かび上がってくる。業を見ていたのか、「裸体」を見ていたのか。
 そして、唐突な涙。泣く。なぜ軽業師が泣いたのかは、この作品では書かれていない。多くのリッツォスの作品に共通するが「理由」は省略される。省略することで、ただ、底にある肉体を感じさせるのである。
 そうした軽業師の肉体と対照的な描写が最後の1行である。この1行は断片的ではない。連続している。現象があり、その「理由」が書かれている。廊下の明かりが消えるには理由がある。それは係員が消すからだ、と。このきわめて即物的な「理由」、現象の物理的な説明に、「係員」という人間が加わることで、そこに非情さがあらわれる。「係員」は軽業師とも観客とも違う時間を生きている。その異質な時間が、それまでの時間を洗い流していく。この瞬間、余韻が生まれる。透明で、孤独な余韻が。
 リッツォスの詩情の、この非情ととなりあわせの透明な孤独の中にある。



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