谷川俊太郎「モンゴルのはじっこ」(「現代詩手帖」2008年12月号)
とても素朴な感じがする。そして、たぶん、谷川俊太郎の詩の魅力は、この素朴な感じを失わないことだと思う。
詩とは異質なものの出合い、その衝撃だが、ここでは谷川は、その異質なもの、とても信じられないような素朴さで書き表している。
1連目。ここでの「異質」はたとえば「坊主頭の土地」や「レニングラードみたいな建物」ではない。もちろん、それも谷川にとっては「異質」であろうけれど、そこには異質と異質の出合いはない。単なる未知のものとの出合いである。未知であるから、その「頭の中身」に見当がつかないのはあたりまえである。
この連での「異質」は最後の2行だ。
特に、最後の行。ここには疑いがある。疑問がある。谷川の中から、何かが生まれはじめている。現実をそのまま受け入れるのではなく、現実と谷川の思いが出合い、そこに融合ではなく、衝突が生まれている。異質なものが出合い、衝突しているのである。
その「衝突」を保証しているのが、疑念である。「思い」である。
詩は異質なものの出合い、という定義(?)のほかに、詩は「思い」を書く、思っていることを書くという定義もあるかもしれない。後者の定義は、実に素朴で、小学校の国語の授業の定義のようだが、そういう素朴な定義につながるものを谷川はここでは巧みに生かしている。「思い」「思ったこと」を書き、それをそのまま「衝突」にまで高めている。
2連目には同じ構造が出てくる。
「驚き」は詩であるかもしれないが、「真新しいハマー」はこころを深くからは裏切らない。そういうものは、軽い詩である。
この2連でも、最後の2行がすごい。土地バブルの象徴と「思ったら」、柵だった。ここでは「思い」が裏切られている。それも他者の具体的な生活によって、どんなふうに暮らしをするかという「思い」によって裏切られている。
これは1連目の疑念を超える衝突である。衝撃である。1連目は疑念であるが、ここでは「土地バブル」を想像する想像力そのものが否定されているからである。自分の想像力を否定するものが現実に存在する--その発見が、この作品の核である。自分の「思い」を否定するものとの出合い、それが詩なのである。
3連目は、その結論のようなもの。
「ちっともそう感じなかった」。そう感じるここころが、別の感じ(思い)によって否定される。そして、生まれ変わる。新しい人間に。新しい思い(想像していなかった思い)に満たされることは、新しい人間に生まれ変わることに等しい。谷川は、そんなふうにして詩を書いている。
この詩は、とても素朴に見えて、とても技巧的でもある。この3連目。その構造は1連目、2連目とは少し違う。1連目、2連目には、最後の2行で「思い」の衝突があった。異質の出合いがあった。3連目は、その異質の出合い、衝突、古い思いの否定が最後には出てこない。最後の2行には顔を出さず、その前に書かれている。いわば、隠されている。
最後は、そういうものと無縁のような、素朴な素朴な感想になっている。「初めての土地に行けたのだもの」と、まるで初めて海外旅行をする子どものような感想。「モンゴルのはじっこ」。その「はじっこ」という口語の、子どもっぽい響き。素朴そのものの響き。
こんな素朴な感想が書けるのは、その前の「そう感じなかった」という行で起きた「生まれ変わり」(再生)そのものの影響である。
--という感想へ、すーっと谷川のことばはひっぱっていく。
あ、すごいなあ、と思う。
とても素朴な感じがする。そして、たぶん、谷川俊太郎の詩の魅力は、この素朴な感じを失わないことだと思う。
詩とは異質なものの出合い、その衝撃だが、ここでは谷川は、その異質なもの、とても信じられないような素朴さで書き表している。
初めての土地へ行った
坊主頭のような土地だった
頭の中身の見当がつかなかった
昔のレニングラードみたいな建物があった
そこで賞状と勲章を貰った
髭の老詩人がうちには勲章が沢山ある
今日はそのうちの三つだけつけてきたと言った
らしいが通訳が頼りないから保証できない
1連目。ここでの「異質」はたとえば「坊主頭の土地」や「レニングラードみたいな建物」ではない。もちろん、それも谷川にとっては「異質」であろうけれど、そこには異質と異質の出合いはない。単なる未知のものとの出合いである。未知であるから、その「頭の中身」に見当がつかないのはあたりまえである。
この連での「異質」は最後の2行だ。
今日はそのうちの三つだけつけてきたと言った
らしいが通訳が頼りないから保証できない
特に、最後の行。ここには疑いがある。疑問がある。谷川の中から、何かが生まれはじめている。現実をそのまま受け入れるのではなく、現実と谷川の思いが出合い、そこに融合ではなく、衝突が生まれている。異質なものが出合い、衝突しているのである。
その「衝突」を保証しているのが、疑念である。「思い」である。
詩は異質なものの出合い、という定義(?)のほかに、詩は「思い」を書く、思っていることを書くという定義もあるかもしれない。後者の定義は、実に素朴で、小学校の国語の授業の定義のようだが、そういう素朴な定義につながるものを谷川はここでは巧みに生かしている。「思い」「思ったこと」を書き、それをそのまま「衝突」にまで高めている。
2連目には同じ構造が出てくる。
凸凹道を古いトヨタやニッサンが走っている
真新しいハマーもいたのに驚いた
ベルリンを指す戦車の記念碑があった
スコットランドに似ている丘のふもとの
白いフェルトで作られた家に行った
広い広い草原なのに塀が立っているので
ここでも土地バブルかと思ったら
狼の侵入を防ぐための柵だった
「驚き」は詩であるかもしれないが、「真新しいハマー」はこころを深くからは裏切らない。そういうものは、軽い詩である。
この2連でも、最後の2行がすごい。土地バブルの象徴と「思ったら」、柵だった。ここでは「思い」が裏切られている。それも他者の具体的な生活によって、どんなふうに暮らしをするかという「思い」によって裏切られている。
これは1連目の疑念を超える衝突である。衝撃である。1連目は疑念であるが、ここでは「土地バブル」を想像する想像力そのものが否定されているからである。自分の想像力を否定するものが現実に存在する--その発見が、この作品の核である。自分の「思い」を否定するものとの出合い、それが詩なのである。
3連目は、その結論のようなもの。
土産屋でポルノトランプを買った
浮世絵もどきの絵がなんとも下手糞で
私の内なる助平が腹を立てた
滑走路が一本しかないのに横風が吹いて
帰りの便が夜中になって北京に一泊
一日損したはずだがちっともそう感じなかった
初めての土地へ行けたのだもの
モンゴルのはじっこに触ったのだもの
「ちっともそう感じなかった」。そう感じるここころが、別の感じ(思い)によって否定される。そして、生まれ変わる。新しい人間に。新しい思い(想像していなかった思い)に満たされることは、新しい人間に生まれ変わることに等しい。谷川は、そんなふうにして詩を書いている。
この詩は、とても素朴に見えて、とても技巧的でもある。この3連目。その構造は1連目、2連目とは少し違う。1連目、2連目には、最後の2行で「思い」の衝突があった。異質の出合いがあった。3連目は、その異質の出合い、衝突、古い思いの否定が最後には出てこない。最後の2行には顔を出さず、その前に書かれている。いわば、隠されている。
最後は、そういうものと無縁のような、素朴な素朴な感想になっている。「初めての土地に行けたのだもの」と、まるで初めて海外旅行をする子どものような感想。「モンゴルのはじっこ」。その「はじっこ」という口語の、子どもっぽい響き。素朴そのものの響き。
こんな素朴な感想が書けるのは、その前の「そう感じなかった」という行で起きた「生まれ変わり」(再生)そのものの影響である。
--という感想へ、すーっと谷川のことばはひっぱっていく。
あ、すごいなあ、と思う。
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