詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アンドリュー・スタントン監督「ウォーリー」(★★★★)

2008-12-05 23:22:55 | 映画
監督 アンドリュー・スタントン 出演 ごみ処理ロボット、植物探査ロボット

 前半がたいへんすばらしい。ウォーリーがひとりでせっせとごみ処理をし、イヴに出会い、ひとめぼれ(?)をし、それが恋にかわるまでが非常にすばらしい。私は昔から人間よりも機械に感情移入してしまう。「2001年宇宙の旅」では、メモリーをぬかれるハルに同情し、あ、かわいそうと思ってしまう。「デイジー……」と歌うせつない声に思わず涙を流してしまう。だから、今回も、もう、ウォーリーの気持ちにどっぷりのめりこんでしまう。
 前半は、せりふがない。無声映画のように、動きだけで笑わせる。
 こおろぎ(?)がウォーリーの体を這い回るとき、ウォーリーがくすぐったがる。その感じが素敵だ。機械がくすぐったがるはずがない、と思うひとは、もうこの映画を見る資格がない。ロボットなのに、それを人間と思えるひと、その金属の体を、人間の肉体と思えるひとでないと、この映画はおもしろくない。
 くすぐられて笑うというのはきわめて肉体そのものの反応だけれど、そういう肉体的な反応をひきがねにして、人間とロボットを重ね合わせるこの導入部は、この映画のいちばん重要なシーンだ。まず肉体の反応(重なり)があって、それから、感情へと動いていく。さりげないけれど、「劇」の基本をこの映画はきちんと守っている。
 そういう導入部があって、たった1本のビデオを繰り返し繰り返し見て、誰かと手をつなぎたいとおもうせつなさが切実になる。自分で自分を修理してしまうのも素敵だ。スプーンとフォークを分類し、先割れスプーン(これって、アメリカにもあるの?)をどっちに分類していいか悩み、その間に置くところなど、楽しくて笑ってしまう。
 イヴに出会って、その強力なパワーにびくびくふるえるのも素敵だし、イヴにぷちぷちを潰させるのもいいなあ。ぷちぷちをつぶしたい、というのは、あらゆる人間に共通のことなのかもしれない。ロボットにそういう基本的な人間の行為をさせ、引きずり込む手法は、とてもすごい。雨の日に、何度も雷に打たれながら、それでもイヴに傘を差すシーンも素敵だ。イヴがビデオテープをぐしゃぐしゃにしてしまったのを、くるくると手動でもとにもどすなんて、その細部が素敵だ。
 イヴが宇宙へかえっていく(さらわれる?)までが、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうにすばらしい。宇宙へ出てからも、消火器をつかって、ウォーリーがイヴとダンスをするシーンも傑作である。いつまでもいつまでも見ていたい。宇宙船の中での、掃除ロボットの反応もおもしろい。
 後半、人間が登場してからは、ちょっとおもしろさに欠ける。宇宙船の艦長とコンピューターが戦うというのは、「2001年宇宙の旅」のまねごと。興ざめ。
 けれども、前半は、せりふもなく、無声映画のような、肉体的な(?)楽しさがともかくいっぱい。前半だけ、もう一回見に行ってもいいかなあ、と私は思っている。

 (私は福岡の「福岡東宝」の小さな劇場で見た。私以外は誰も声を上げて笑わない。みんなで大笑いする劇場で見直したいと思っている。福岡の観客は、あまり笑わない。こういう映画は、みんなで笑ってみてこそおもしろい。笑わないと損。)
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谷川俊太郎「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」

2008-12-05 09:28:39 | 詩集
谷川俊太郎「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 谷川俊太郎「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」は「現代詩手帖」の2008年のアンソロジーの中の1篇である。詩集『私』のなかの1篇。
 とても不思議な作品である。
 前半の3連。

初雪の朝のようなメモ帳の白い画面を
MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない
そんなのは小説のやること
詩しか書けなくてほんとによかった


小説は真剣に悩んでいるらしい
女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか
それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか
それから際限のない物語が始まるんだ
こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの
やれやれ

詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないわけではないのだけれど

 これはほんとうに詩の擁護なのかな? 小説が名ぜつならないかについて書いているのかな? 私には、まったくわからない。
 私はもともと詩も小説も、たのことばで書かれた作品も区別して読んだことがない。すべて、そこに詩があるかどうかだけを楽しみに読んでいる。
 最初の2行。これは「小説」への批判である--ということになるのかもしれないが、そこに書かれていることばは詩である。「MS明朝」という即物的なことばさえ、そこに即物的な手触りで存在するとき、それは詩である。小説を批判することば、つまらないという小説を批判することばのなかに詩がある。これって、矛盾じゃない? もし、谷川が小説を批判できないとしたら、詩はどこに存在することになる? 小説を批判するとき、詩のことばが存在しはじめるのだとしたら、詩は小説に依存していることになる。小説に依存しないと存在し得ないのに、それでも詩は小説よりもおもしろいと言えるのか。
 バーナード・ショーのジョークを思い出してしまう。「女と男はどっちがばか?」「男です。女と結婚するのだから」。これは、ばかな女と結婚するほど、男はばかだという意味だが、では、ほんとうにばかはどっち? わからない。
 どっちでもいいのだ。
 小説が「女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか/それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか」真剣に悩むように、詩だって、こその2行を書くべきかどうか真剣に悩んでいるはずである。「やれやれ」である。

 詩も小説も、そしてあらゆるジャンルのことばも、あらゆることを書くことができる。つまらないとも、おもしろいとも、書ける。それがほんとうにつまらないのか、おもいしろいのかは、書かれている内容ではない。意味ではない。
 意味を追いかけると、矛盾にしかたどりつけない。これは小説も詩も同じである。

 谷川が書いているのは「詩の擁護」という意味でもなければ、「何故小説はつまらないか」という意味でもない。
 「初雪」と「メモ帳」と「白」という出合いである。「MS明朝」と「足跡」という出合いである。ことばは、谷川がそう書くまで、そんなふにうにして出合ったことはなかった。「無印のバッグ」と「グッチのバッグ」も、「悩み」ということばのなかで出合うということはなかった。
 そして、そんなふうに新しく出合うことで、ことばはことばから「もの」へかえっていく。「もの」の手触りをつかんで、もういちど「もの」から私たち読者の方へやってくる。そのとき、ことばが、はじめてこの世界にあらわれたみたいに新しく感じられる。その瞬間に、詩が生まれる。






私―谷川俊太郎詩集
谷川 俊太郎
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リッツォス「証言B(1966)」より(27)中井久夫訳

2008-12-05 00:11:33 | リッツォス(中井久夫訳)
軽やかさ   リッツォス(中井久夫訳)

夕陽が沈む。一隻の軽舟が入港する。
金と薔薇。濛気。無音。
一本のオールが光る。紫の縄梯子も。
すべては軽やか。石もない。森もない。
月は銀の眉毛。その屈折光。
きみのシャツのボタンが三つ、
かろうじて見える。
死も、この軽さの中では座をもたない。



 「金と薔薇」。「月は銀色の眉毛」。そうした華麗な美。それが「無音」のなかにある。「濛気」のなかにある。これは、不思議な対比である。その対比が「死」ということばと結びつく。
 「死も、この軽さの中では座をもたない。」の「もたない。」は反語である。そこには「死」は存在しないかもしれない。しかし、「死」の意識がある。意識がなければ「死」ということば自体、ここに登場しないだろう。
 否定されて、逆にくっきりと見えてくるものがある。「きみ」はたぶん、若い。若いから「死」は遠い存在であるはずだが、若いゆえに「死」を引き寄せる。悲劇を引き寄せる。「シャツのボタンが三つ」とは留められているのが「三つ」ということだろう。あとは留められていない。シャツがはだけ、そこから若い肉体ものぞいているだろう。労働のあとの若い肉体。「金とばら」にも「月」の「銀色の眉」にも負けない若い肉体。
 それは「死をもたない」。けれども、死が似合う。軽やかに悲劇を呼び寄せる。

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