詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

薄井灌「欄/干(抄)」

2008-12-10 10:35:33 | 詩集
薄井灌「欄/干(抄)」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 薄井灌「欄/干(抄)」の初出誌は『干/潟へ』(2008年01月発行)。
 薄井灌の作品を読みながら、私は、ふいに高貝弘也の詩を思い出した。たぶん私の勘違いなのだろうけれど、書き方を変えると、薄井灌は高貝弘也になる。
 薄井は、次のように書く。(ルビがついているのだが、省略する。詩の形を再現するためである。ルビはとても重要なのだが、ネット上での表現方法がわからない。)

不規則に褶曲する川の表にちぢみ-ちぎれる文字の影/
      /(影を縫う指の)靱帯の縮痙/
          /離接と婉曲/引き返す運針の憔悴

水際に文字の刺繍が/
  /綻びてゆく/糸の解れ/
    /抜粋する/(方眼の閾に)/
      /欄外に編象する蔦先のような指が/(伸び)
   (谷内注・2行目の「糸」は原文は「糸」が横にふたつ並んだ漢字)

 ルビは「縫(ぬ)う」、「引(ひ)き返(かえ)す」、「水際(みびぎわ)」、「綻(ほころ)び」、「糸(いと)」、「解(ほつ)れ」、「蔦先(つたさき)」、「伸(の)び」につけられている。
 これはとても不思議なルビのつけ方である。とても簡単な漢字にルビがふられ、むずかしい漢字にはルビがない。漢語(漢字熟語)ではなく、訓読みの漢字にルビがふられているのである。
 ここには不思議なこだわり、日本語に対する強いこだわりがある。そういうこだわりのありようが、私には、薄井と高貝は共通するように感じられる。
 薄井も高貝も、「意味」ではなく、ことばの「歴史」(文学史)のなかに自分の感覚を遊ばせる。なれ親しんできた「文学」の破片を集めてきて、そういう破片を集めてくる感覚の存在(感覚の意識)を浮き彫りにする。日本人の(というとおおげさかもしれないが)言語感覚がどんなふうにできているのかを浮かび上がらせる。そういうことを試みているように私には思える。

 薄井と高貝の違いはどこにあるか。そして、どうとらえ直すと、薄井は高貝になるのか。
 /のつかい方がカギである。
 高貝は/をつかわない。斜線をつかわずに空白(余白)をつかう。薄井は改行、余白のほかに/をつかう。
 薄井の/を改行、あるいは余白にかえていくと、高貝のことばの動きに似てくると思う。ことばの距離がひろがり、「意味」を追うのではなく、ことばが「感覚」を、日本人にひそんでいることばの感覚を、文学史のなかの言語感覚を追い求めているという印象が強くなると思う。
 ところが、薄井はそういう方法をとらずに/をつかう。なぜ、そうするのか。/をつかうと何が違ってくるのか。
 /のつかい方が日本語のルールにあるわけではない。現代詩のルールにあるわけではない。一般的に言えば、改行のある作品をスペースの関係でコンパクトにするために、改行を/で代用し、行を追い込んで表記することがある。/は改行である。そこには一種の「切れ」「切断」がある。そういう暗黙の了解があると私は思っている。
 薄井は改行、そして文字を何字かさげるという空白もつかいながら、それになおかつ/を組み合わせる。そうすると不思議なことに/が改行ではなく、改行の意識はあるけれど、改行できない--切断ではなく、接続という印象をもたらす。どうしても接続してしまうものが/を挟んだことばのなかにある。その切断を含みながら接続するもの--そたにこそ、薄井は、日本語のことばの「感覚」の基本を見ていることになる。
 高貝がひたすら余白のなかに「感覚」の生成を見るのに対して、薄井は余白をつくれない何か、余白を拒絶して接続してくる力に、日本語の(日本人の)感覚の生成の場があるとみている。そんなふうに、私には感じられる。
 タイトルの「欄/干」に、その意識が特に濃くあらわれている。作品の中には

                             /欄/
                               /干/

というような表記もある。そこには改行も、余白もある。そのうえに/もある。けれども、そこにはどんなに切断をいれてみても、接続がある。接続させて読んでしまう日本語の感覚がある。日本人の感覚がある。私たちは、日本語に、そのことばの歴史にしばられながら、ことばを書いている。読んでいる。そういう、どうしようもない「事実」がある。その「事実」を逆手にとって、日本語の「感覚」の生成の場を薄井は探ろうとしている。
 このことは、ちょっと視点を変えると、とてもおもしろいことが浮かび上がる。ルビのことを最初に書いた。最初に書いたルビ以外に、たとえば「引き攣り」に薄井は「粒立ち」というルビ(?)をふっている。「推敲-遂行-推敲」に「左手-右手-左手」というルビをふっている。そういう行がある。
 「欄/干」あるいは「/欄/(改行と空白)/干/」に、読者はどんなルビをふることができるか。さらには「/」にどんなルビを、空白そのものにどんなルビをふることができるか。つまり、どう読むことができるかを考えるといい。
 「欄/干」は無意識に「らんかん」と読んでしまうのではないだろうか。/や空白は読みようがなくて、いっしゅん意識を中断させるのではないだろうか。中断させながら、無意識の内に「らん/かん」を「らんかん」と接続させてはいないだろうか。
 日本語は接続をもとめてしまうことば。粘着力の強いことばである。日本語にかぎらないかもしれない。ことばは、どうしてもことばを呼び寄せ、接続してしまうものなのである。接続を要求する無意識というものがことばのなかにあり、その無意識は日本語の歴史、文学の歴史と関係している。
  --と書いて、また、私は高貝の作品を思い出してしまう。





干/潟へ
薄井 潅
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(32)中井久夫訳

2008-12-10 00:02:00 | リッツォス(中井久夫訳)
理髪店  リッツォス(中井久夫訳)

廃墟に部屋を一つ、煉瓦でこさえた。
窓にボール紙を嵌めた。看板も出した。「理髪店」と書いた。
宵闇の忍び寄る日曜の遅い時刻、
弱い光が半ば開いた海側の扉から差して
鏡は淡い青。--若い漁夫らと
船員たちが髭を剃りに来た。
とっぷりと暮れてから彼等は帰った、反対側の扉から、
影のように静かに、うやうやしい長い長老髯を垂らして。



 この作品も前半と後半に分かれる。そして、その「ふたつ」の部分は矛盾する。あるいは、対立すると言った方がいいだろうか。
 「船員たちが髭を剃りに来た。」しかし、彼等は「うやうやしい長い長老髯を垂らして」帰った。髭は口ひげ、口の上のひげ。髯はほほのひげ。口の上のひげは剃ったが、ほほのひげは剃らなかった、と考えれば「矛盾」ではないが、それでも一種、奇妙な感じは残る。こは、「矛盾」、あるいは事実の対立があると考えた方がいいだろう。
 詩のなかの時間は、「宵闇」と「とっぷりと暮れ」た時間。その間の現実の時間は短い。しかし、この詩のなかでは1日を超える時間が存在するのだ。「理髪店」を開いたのは遠い過去。昔は、若い漁夫、若い船員がひげを剃りに来た。しかし、今は老いた男たちがやってくる。彼等はひげを剃りにくるのではなく、昔の思い出のために、理髪店へ来るのである。そして、思い出を語って帰っていくのである。「とっぷりと暮れてから」。

 「ふたつの時間」は対立しながら、響きあう。「昔」があるから「今」がある。その間には、「廃墟」のような時間がある。「廃墟」の時間によって、若い昔の時間が洗われ、いまの老いた時間が透明になる。「影のように静かに」なる。若い時間は「光」なのである。その光はたしかに「宵闇」の光であり、淡いかもしれないが、それが淡く感じられるのは若い漁夫らの肉体の力の方が太陽よりもみなぎっているからだろう。いまは、そういう力もなく、ただ「影のように静かに」(影のように静かな)肉体と向き合っている。
 ここにも、やはり孤独が描かれている。孤独をみつめる人間(理髪師)が描かれていると言えるだろう。

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