水野るり子「会話(Tに)」(「現代詩図鑑」2008年秋号、2008年11月01日発行)
水野るり子「会話(Tに)」の2連目で、私は立ち止まる。
でもいま、わたしは思う。このことばを、水野は括弧でくくっている。なぜだろう。1連目は次のように構成されている。
1連目の「思い浮かべていた」は括弧の中には入っていない。2連目の括弧にくくられた「思う」とは違うのだ。そして、重要なのは、もちろん2連目の、括弧の中に入った「思う」なのだ。
1連目と2連目と、「思う」はどう違うのか。
1連目は、対象を正確に思う。思い浮かべている。ところが2連目は対象から逸脱して行っているのだ。クジラ売りの歌は存在する。その歌を朗誦する「あなた」も存在する。しかし、
というのは、存在しない。それは存在するとしても、それは具体的ではない。ことばにはなっていない。「あなた」の中にあるのか。「クジラ売りの歌」の中にあるのか。あるいは、水野の意識の中にあるのか。その所在の「場」も特定されていない。強いて言えば、「あなた」と「クジラ売りの歌」と「水野(私)」を共存させる「場(いま流行のことばで空気)」の中にあるということになるかもしれない。
なんとなく、そのあたりに「ある」とは感じるけれども、明確にしてきできないもの。--それが、水野にとっての詩である。
ことばになっていないもの。ことばの背後(というのも、そこにはすでに「クジラ売りの歌」が存在するからだが)にあるもの。かくれていることば。それを追っていくのが水野の詩である。そして、そのことばはいつでも「いま」「ここ」とは「別の」ものなのである。
水野は「別のものがたり」とさりげなく書いているが、この「別の」という意識が水野の思想である。水野は、いつでもすでに存在するものとは「別の」世界を思う。その「別の」世界にことばを動かしていく。それは現実のことばとそっくりだが、あくまで「別の」世界を描くためのことばである。
「場(空気)」について書いたついでに。
最後の連に、次の1行がある。
「思い浮かべていた」(1連目)、「思う」(2連目)。1連目の「思う」と2連目の「思う」が違うことはすでに書いた。同じ「思う」に派生することばが1連目と2連目で違ってきたために、水野は3連目では、同じ「思う」ということばをつかえなくなっている。
そう書いてあったとしても、たぶん、多くの読者は違和感を覚えないと思う。意味(論理)内容は同じになる。しかし、水野は、絶対に、そんなふうにしては書けない。「気がする」としか書けない。
これが詩のおもしろいところである。ことばのおもしろいところである。ことばは正確に作者のこころの動きを伝え、そこから逸脱できない。人間の想像力はどこまでも逸脱できるが、それを伝えることばは、つねに作者にぴったりと密着している。こういう作者に密着していることばを、私は「キーワード」と呼んでいる。作者の「肉体」になってしまっていることばを「キーワード」と呼んでいる。
「別の」のものを「気」を感じ、それをことばにするのが水野の詩である。
水野るり子「会話(Tに)」の2連目で、私は立ち止まる。
あれはいつのことだったか
あなたの朗誦するクジラ売りの歌が
東京の街から風に乗って
私たちの海を渡っていったのは。
あれは子土泣くクジラ売りの語る
一頭のクジラの伝説だったけど。
(でもいま、わたしは思う)
あれは、ほんとはもうひとつの
別のものがたりではなかったかと。
でもいま、わたしは思う。このことばを、水野は括弧でくくっている。なぜだろう。1連目は次のように構成されている。
電話をありがとう
さわやかな秋風の吹く午後だったけど
一年ぶりのあなたの声を聞きながら
異国の街ですごしたあなたの
つらくておかしくてすてきな日々のことを
私は思い浮かべていた
1連目の「思い浮かべていた」は括弧の中には入っていない。2連目の括弧にくくられた「思う」とは違うのだ。そして、重要なのは、もちろん2連目の、括弧の中に入った「思う」なのだ。
1連目と2連目と、「思う」はどう違うのか。
1連目は、対象を正確に思う。思い浮かべている。ところが2連目は対象から逸脱して行っているのだ。クジラ売りの歌は存在する。その歌を朗誦する「あなた」も存在する。しかし、
あれは、ほんとはもうひとつの
別の物語ではなかったかと。
というのは、存在しない。それは存在するとしても、それは具体的ではない。ことばにはなっていない。「あなた」の中にあるのか。「クジラ売りの歌」の中にあるのか。あるいは、水野の意識の中にあるのか。その所在の「場」も特定されていない。強いて言えば、「あなた」と「クジラ売りの歌」と「水野(私)」を共存させる「場(いま流行のことばで空気)」の中にあるということになるかもしれない。
なんとなく、そのあたりに「ある」とは感じるけれども、明確にしてきできないもの。--それが、水野にとっての詩である。
ことばになっていないもの。ことばの背後(というのも、そこにはすでに「クジラ売りの歌」が存在するからだが)にあるもの。かくれていることば。それを追っていくのが水野の詩である。そして、そのことばはいつでも「いま」「ここ」とは「別の」ものなのである。
水野は「別のものがたり」とさりげなく書いているが、この「別の」という意識が水野の思想である。水野は、いつでもすでに存在するものとは「別の」世界を思う。その「別の」世界にことばを動かしていく。それは現実のことばとそっくりだが、あくまで「別の」世界を描くためのことばである。
「場(空気)」について書いたついでに。
最後の連に、次の1行がある。
あなたとずっと話し合ってきた気がする
「思い浮かべていた」(1連目)、「思う」(2連目)。1連目の「思う」と2連目の「思う」が違うことはすでに書いた。同じ「思う」に派生することばが1連目と2連目で違ってきたために、水野は3連目では、同じ「思う」ということばをつかえなくなっている。
あなたとずっと話し合ってきたように思う
そう書いてあったとしても、たぶん、多くの読者は違和感を覚えないと思う。意味(論理)内容は同じになる。しかし、水野は、絶対に、そんなふうにしては書けない。「気がする」としか書けない。
これが詩のおもしろいところである。ことばのおもしろいところである。ことばは正確に作者のこころの動きを伝え、そこから逸脱できない。人間の想像力はどこまでも逸脱できるが、それを伝えることばは、つねに作者にぴったりと密着している。こういう作者に密着していることばを、私は「キーワード」と呼んでいる。作者の「肉体」になってしまっていることばを「キーワード」と呼んでいる。
「別の」のものを「気」を感じ、それをことばにするのが水野の詩である。
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