詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

水野るり子「会話(Tに)」

2008-12-01 11:07:33 | 詩(雑誌・同人誌)
水野るり子「会話(Tに)」(「現代詩図鑑」2008年秋号、2008年11月01日発行)

 水野るり子「会話(Tに)」の2連目で、私は立ち止まる。

あれはいつのことだったか
あなたの朗誦するクジラ売りの歌が
東京の街から風に乗って
私たちの海を渡っていったのは。
あれは子土泣くクジラ売りの語る
一頭のクジラの伝説だったけど。
(でもいま、わたしは思う)
あれは、ほんとはもうひとつの
別のものがたりではなかったかと。

 でもいま、わたしは思う。このことばを、水野は括弧でくくっている。なぜだろう。1連目は次のように構成されている。

電話をありがとう
さわやかな秋風の吹く午後だったけど
一年ぶりのあなたの声を聞きながら
異国の街ですごしたあなたの
つらくておかしくてすてきな日々のことを
私は思い浮かべていた

 1連目の「思い浮かべていた」は括弧の中には入っていない。2連目の括弧にくくられた「思う」とは違うのだ。そして、重要なのは、もちろん2連目の、括弧の中に入った「思う」なのだ。
 1連目と2連目と、「思う」はどう違うのか。
 1連目は、対象を正確に思う。思い浮かべている。ところが2連目は対象から逸脱して行っているのだ。クジラ売りの歌は存在する。その歌を朗誦する「あなた」も存在する。しかし、

あれは、ほんとはもうひとつの
別の物語ではなかったかと。

 というのは、存在しない。それは存在するとしても、それは具体的ではない。ことばにはなっていない。「あなた」の中にあるのか。「クジラ売りの歌」の中にあるのか。あるいは、水野の意識の中にあるのか。その所在の「場」も特定されていない。強いて言えば、「あなた」と「クジラ売りの歌」と「水野(私)」を共存させる「場(いま流行のことばで空気)」の中にあるということになるかもしれない。
 なんとなく、そのあたりに「ある」とは感じるけれども、明確にしてきできないもの。--それが、水野にとっての詩である。
 ことばになっていないもの。ことばの背後(というのも、そこにはすでに「クジラ売りの歌」が存在するからだが)にあるもの。かくれていることば。それを追っていくのが水野の詩である。そして、そのことばはいつでも「いま」「ここ」とは「別の」ものなのである。
 水野は「別のものがたり」とさりげなく書いているが、この「別の」という意識が水野の思想である。水野は、いつでもすでに存在するものとは「別の」世界を思う。その「別の」世界にことばを動かしていく。それは現実のことばとそっくりだが、あくまで「別の」世界を描くためのことばである。

 「場(空気)」について書いたついでに。
 最後の連に、次の1行がある。

あなたとずっと話し合ってきた気がする

 「思い浮かべていた」(1連目)、「思う」(2連目)。1連目の「思う」と2連目の「思う」が違うことはすでに書いた。同じ「思う」に派生することばが1連目と2連目で違ってきたために、水野は3連目では、同じ「思う」ということばをつかえなくなっている。

あなたとずっと話し合ってきたように思う

 そう書いてあったとしても、たぶん、多くの読者は違和感を覚えないと思う。意味(論理)内容は同じになる。しかし、水野は、絶対に、そんなふうにしては書けない。「気がする」としか書けない。
 これが詩のおもしろいところである。ことばのおもしろいところである。ことばは正確に作者のこころの動きを伝え、そこから逸脱できない。人間の想像力はどこまでも逸脱できるが、それを伝えることばは、つねに作者にぴったりと密着している。こういう作者に密着していることばを、私は「キーワード」と呼んでいる。作者の「肉体」になってしまっていることばを「キーワード」と呼んでいる。

 「別の」のものを「気」を感じ、それをことばにするのが水野の詩である。





ヘンゼルとグレーテルの島―詩集 (1983年)
水野 るり子
現代企画室

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リッツォス「証言B(1966)」より(23)中井久夫訳

2008-12-01 00:15:20 | リッツォス(中井久夫訳)
二度追放   リッツォス(中井久夫訳)

彼女は花瓶に花を活ける。花を揃える。ためすすがめつする。
男の傍によりそう。男は黙って。
四方の窓すべて静かな朝。彼女は羽ぼうきを取る。
家具をはたく。こころがそこにない様子で。
男はそれを見ている。色の奇麗な鳥が
足を挙げて勿体ぶって陶器の小さな像の周りを歩く。
彼女は身体を硬くする。ややあって男に身体をあずける。「いやよ、いやよ」
「鳥じゃないわ」と彼女は言う。「鳥じゃないのよ」。そして泣く。



 複雑な詩である。情景ははっきりしている。朝、女が男によりそう。受け入れられない。しばらくして、緊張した感じで男に体をあずける。そして、「いやよ。いやよ」と言う。さらに、「鳥じゃないわ」「鳥じゃないのよ」と二度言って、泣きはじめる。
 繰り返される「鳥じゃない」とは、どういう意味だろう。女が鳥ではないのはもちろんわかりきったことである。「鳥じゃない」ということばで、女は何を言おうとしているのだろう。
 「鳥じゃない」。だから、そんなに乱暴にしないでほしい、と言っているのか。男が鳥をあつかうように、力任せに支配しないでほしいと言っているのか。あるいは、「鳥じゃない」。陶器の小さな像のまわりを歩き回る鳥のように、私を見つめないでほしい。そんなふうに、ほっておかないで、と泣いているのか。
 たぶん、後者である。
 女は、朝より前に、やはり男から拒絶されている。拒絶という言い方がおおげさなら、受け入れられなかったことがある。そのさびしさが女のこころのなかにある。女はなんとか男に受け入れられたい。体ごと、しっかりこころを受け止めてもらいたいと願っている。けれども、どんなに寄り添っても、身体をあずけてみても、女は男には受け入れてもらえない。
 二度、受け入れてもらえなかった。それは女にとっては「二度、追放」されたに等しい。その、孤独。泣くしかない。その、孤独。

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