原利代子「水の老人」(「現代詩手帖」2008年12月号)
原利代子「水の老人」の初出誌は『ラクダが泣かないので』(2007年12月発行)。
メキシコ南東部にエル・トゥーレという村があるらしい。そして、そこにトゥーレの木がある。巨大な木である。その木をこのを書いている。その木は水をたくさん吸い上げる。村の人々に「水の老人」と呼ばれている。原は、その木に触れる。
「木(私)」と「わたし」の一体化。そして、そこで、「わたし」は「わたし」の探していた「声」を聞く。それは「木」が語っていることばなのだけれど、そのことばは「わたし」が偶然聞いたものではなく、探し当てたもの、自分の体のなかから聞いたものなので、ほんとうは「わたし」の声なのである。--そういう一体感が、ちょっとなつかしいようなことばで語られている。なつかしい感じがするのは、たぶん、そこにはことばに対する批判がないからだ。現代詩のことばが、ことば自身への批評を含んでいるのに対して、原のことばは、ことば自身への批評を含まず、とても素直にことばそのものであるからだ。
その素直さがいちばん美しく表現されているのは、
という行である。この行が、私には、いちばん美しき見える。それに先だつ2行で、原は「わたしの手は(身体は)……なっていった」を繰り返している。過去形である。その過去形という時制が、ふいに崩れて「伝わってくる」と現在形になる。ここが、いちばん美しい。
「わたし」と「木」が一体になるだけではなく、「過去」と「現在」が一体になるのである。「時(時間)」が消える。時間が消えるということは「永遠」が出現するということでもある。
「永遠」はそのなかに「未来」を含むだけではなく、「過去」を含んでいる。そこに「過去」が含まれているから、「永遠」はなつかしいのだ。
そんなことを考えた。
原利代子「水の老人」の初出誌は『ラクダが泣かないので』(2007年12月発行)。
メキシコ南東部にエル・トゥーレという村があるらしい。そして、そこにトゥーレの木がある。巨大な木である。その木をこのを書いている。その木は水をたくさん吸い上げる。村の人々に「水の老人」と呼ばれている。原は、その木に触れる。
ずいぶん長いことそうしていたので
わたしの手は木の皮のようになっていった
わたしの身体は細い一本の木のようになっていった
老人の息づかいが樹皮の奥から伝わってくる
地球の裏側からやってきた人よ 私たちはひとつなのだ
何時かは 必ず来たところへ戻っていく
身体からも心からも解放されて--
私はお前であり
お前はお前の想う人であり
お前の想う人は私なのだ
その声はわたしの体の中から聞こえてくるようだった
「木(私)」と「わたし」の一体化。そして、そこで、「わたし」は「わたし」の探していた「声」を聞く。それは「木」が語っていることばなのだけれど、そのことばは「わたし」が偶然聞いたものではなく、探し当てたもの、自分の体のなかから聞いたものなので、ほんとうは「わたし」の声なのである。--そういう一体感が、ちょっとなつかしいようなことばで語られている。なつかしい感じがするのは、たぶん、そこにはことばに対する批判がないからだ。現代詩のことばが、ことば自身への批評を含んでいるのに対して、原のことばは、ことば自身への批評を含まず、とても素直にことばそのものであるからだ。
その素直さがいちばん美しく表現されているのは、
老人の息づかいが樹皮の奥から伝わってくる
という行である。この行が、私には、いちばん美しき見える。それに先だつ2行で、原は「わたしの手は(身体は)……なっていった」を繰り返している。過去形である。その過去形という時制が、ふいに崩れて「伝わってくる」と現在形になる。ここが、いちばん美しい。
「わたし」と「木」が一体になるだけではなく、「過去」と「現在」が一体になるのである。「時(時間)」が消える。時間が消えるということは「永遠」が出現するということでもある。
「永遠」はそのなかに「未来」を含むだけではなく、「過去」を含んでいる。そこに「過去」が含まれているから、「永遠」はなつかしいのだ。
そんなことを考えた。
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