詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

原利代子「水の老人」

2008-12-09 11:42:28 | 詩集
原利代子「水の老人」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 原利代子「水の老人」の初出誌は『ラクダが泣かないので』(2007年12月発行)。
 メキシコ南東部にエル・トゥーレという村があるらしい。そして、そこにトゥーレの木がある。巨大な木である。その木をこのを書いている。その木は水をたくさん吸い上げる。村の人々に「水の老人」と呼ばれている。原は、その木に触れる。

ずいぶん長いことそうしていたので
わたしの手は木の皮のようになっていった
わたしの身体は細い一本の木のようになっていった
老人の息づかいが樹皮の奥から伝わってくる

地球の裏側からやってきた人よ 私たちはひとつなのだ
何時かは 必ず来たところへ戻っていく
身体からも心からも解放されて--
私はお前であり
お前はお前の想う人であり
お前の想う人は私なのだ

その声はわたしの体の中から聞こえてくるようだった

 「木(私)」と「わたし」の一体化。そして、そこで、「わたし」は「わたし」の探していた「声」を聞く。それは「木」が語っていることばなのだけれど、そのことばは「わたし」が偶然聞いたものではなく、探し当てたもの、自分の体のなかから聞いたものなので、ほんとうは「わたし」の声なのである。--そういう一体感が、ちょっとなつかしいようなことばで語られている。なつかしい感じがするのは、たぶん、そこにはことばに対する批判がないからだ。現代詩のことばが、ことば自身への批評を含んでいるのに対して、原のことばは、ことば自身への批評を含まず、とても素直にことばそのものであるからだ。
 その素直さがいちばん美しく表現されているのは、

老人の息づかいが樹皮の奥から伝わってくる

 という行である。この行が、私には、いちばん美しき見える。それに先だつ2行で、原は「わたしの手は(身体は)……なっていった」を繰り返している。過去形である。その過去形という時制が、ふいに崩れて「伝わってくる」と現在形になる。ここが、いちばん美しい。
 「わたし」と「木」が一体になるだけではなく、「過去」と「現在」が一体になるのである。「時(時間)」が消える。時間が消えるということは「永遠」が出現するということでもある。
 「永遠」はそのなかに「未来」を含むだけではなく、「過去」を含んでいる。そこに「過去」が含まれているから、「永遠」はなつかしいのだ。

 そんなことを考えた。





ラクダが泣かないので
原 利代子
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(31)中井久夫訳

2008-12-09 00:14:40 | リッツォス(中井久夫訳)
荷降ろし  リッツォス(中井久夫訳)

今は色に乏しい。でもいい。そう彼は言う。
野のほんの僅かの緑。おれにはこれで充分だ。
歳とともに何もかもが小さくなる。
ものが寄せ集まって溶け合うんじゃないか。
木の葉が一枚。その微かなそよぎ。それがおれのひとつの入り口だ。
おれは廊下に入る。向うの端に向かって歩く。
窓と彫像が並ぶ間を。
窓は白。彫像は赤い。
これはフクロウ。これはヘビ。これはシカ。ちゃんと見分けが付く。



 この詩も、私には前半と後半がまったく違ったものに感じられる。まったく違っているけれど、それは「ひとつ」である。その「ひとつ」の違い--それは外と内の違いというものかもしれない。外と内が「彼」(リッツォスの分身)のなかでしっかり結びついている。完結している。
 --この完結から、孤独とういものも生まれる。すべての存在から離れ、「ひとつ」として完結している人間。その孤独。

 外と内の結合。その融合。それを遠心・求心ということばに置き換えてみるなら、それは「俳句」の世界である。
 リッツォスの詩の簡潔さは俳句に似ているかもしれない。簡潔でありながら、そこに「ひとつ」ではなく「ふたつ」の世界があるというのも俳句に似ているかもしれない。「ふたつ」のものが一期一会の出会いのなかで「ひとつ」になる。そういう瞬間。俳句に通じる世界観がリッツォスのことばの奥には存在するのかもしれない。
 この詩のなかでは、特に、

木の葉が一枚。その微かなそよぎ。それがおれのひとつの入り口だ。

 この感じが、私のなかでは、俳句の世界そのものだ。「私」が「木の葉」になる。そして、その「木の葉」のなかにすべての世界が融合する。
 俳句は、ふつう、そう書いてしまえばそれでおしまいなのだけれど、リッツォスは俳人ではないので、そのあとすこし説明をくわえている。それが「おれは廊下に入る。」以下の行の展開である。
 「ひとつ」のなかにすべてが融合する(ものが寄せ集まって溶け合う)と、それは混沌ではないのか。なんの区別もつかない世界は理性の世界に反する--という西洋哲学。それに対して、リッツォスは、「いや、溶け合っていても、そのすべてが、ちゃんと見分けが付く」というのである。
 いちど「ひとつ」に融合する。そして、そこからすべてが生成しなおす。再生する。新しい命として生まれ変わる。
 こういう人生観・世界観にとって必要なものは、「ほんの僅か」の何かでいい。巨大なものでなくていい。「木の葉が一枚」というだけで充分である。

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