詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白鳥信也「カリアヌアの悦び」

2009-02-01 14:16:55 | 詩(雑誌・同人誌)
白鳥信也「カリアヌアの悦び」(「フットスタンプ」16、2008年12月31日発行)

 白鳥信也「カリアヌアの悦び」は架空の土地の物語である。そこは現実と似ているが現実とは少し違う風景が見られる。現実には存在しないような生き物がいる。その1連目。

カチャマビリの川は小さな滝が折り重なってできている。川そのものの流れが速く泡立つ波しぶきでなにも見えない。水が段差を落下しつづけている。魚は、だからゆるりと身を休めようと滝壺に入っても、滝壺そのものが次の滝だから、また落下する。水の落ちたところは、またも次の滝の落ち口だから、次の滝壺をめざす。次の滝も、おだやかに水をたたえることなく、また滝になっている。下へ下へ、流れ急ぐ水がそこでは走りつづけている。魚は、滝のはげしく落下する水とともに過ごすことになる。だから、この川の魚は身がしまって余分なものがないとこの地方では言われる。

 この架空の土地の「基本思想」はなにか。「だから」である。「魚は、だからゆるりと身を休めようと滝壺に入っても、滝壺そのものが次の滝だから、また落下する。」という文には2回も「だから」が出てくる。「だから」なしには、この作品は成り立たない。いや、「だから」抜きにしてもほんとうは作品は成り立つ。たとえばボルヘスなら「だから」をつかわずに書くだろう。けれど白鳥は「だから」をつかう。「だから」が白鳥のことばを動かしているのである。「だから」は白鳥の「思想」である。
 ある現象には「理由」あるいは「原因」がある。それが世界を動かしている。そして、その世界を動かしている「理由」「原因」を発見し、それが見えるようにするのが、詩である。文学である。科学である。人間の精神活動のすべてである。
 いかに誰も気がつかなかった「理由」「原因」を発見し、人間が共有できる「ことば」にするか、「数式」にするか。「川そのものの流れが速く泡立つ波しぶきでなにも見えない。」の「なにも見えない」という表現が象徴的である。「なにも見えない」ことを利用して、白鳥は、そこに「魚」を住まわせる。そしてその「魚」の動きを、「だから」を利用して描写する。その描写が「真実」であるとすれば、それは「だから」ということばとともに真実なのである。「だから」ということば以外のものによってその真実が証明されているわけではない。「見えないもの」を「だから」をつかって「見える」かのように描き出す--それが、白鳥のこの作品である。
 こうした「だから」が、では、最終的に描き出すものは何なのか。
 最終連に白鳥は「答え」を書いている。「答え」は書かなくてもいいものだけれど、書いてしまうのが白鳥の特徴である。

たくさんの人々が、カチャマビリの川で水下りや滝這いをしている。たくさんの人々が、ヘイコルの湖でフルヅウォッチングやフルヅの影探しのウォーターウォーキングをしている。私も訪れるたびに足首までぬらして鏡の湖面を歩き回る。カリアヌアでは、たくさんの悦びをみじかい時間に得ることができる。だから、わたしたちはこの土地から離れる時間が長くなるのかもしれない。

 世界がどのような「理由」「原因」で動いているか、その真相を明るみに出す「ことば」。そのことばの世界を訪問すると、「たくさんの悦びをみじかい時間に得ることができる。」ことばを読む。ことばを旅する。そこには、ことばをつかって発見された「真相」がたくさんつまっている。人間が自分の肉体をつかってつかむことのできる「量」をはるかにこえるものがことばの世界にある。ことばの世界では「時間」は短いのだ。一生かかってやっとわかることが、本を一冊読めばわかる、ということもある。本の世界では時間はすばやく流れている。
 「たくさんの悦びをみじかい時間に得ることができる。」という文の前には「カリアヌアでは」ということばがあった。「カリアヌア」とは「ことばによって作られた世界」なのである。
 そういう世界の悦びを知ってしまったら、ひとは、「現実」から離れ、読書に費やす時間が増えてしまう。

 あ、あ、あ……。でもね、と私は思わず声に出してしまう。
 白鳥の描き出している「世界の構図」はとてもよくわかる。でもね、そこまで書いてしまうと、手品の種明かしを見せられている感じがして、ほんとうのことろおもしろくない。
 「だから」にしばられてことばを動かす白鳥は、その「だから」に動かされる「理由」「原因」と「結果」まで「だから」で説明している。もうすっかり「だから」は白鳥の「肉体」になってしまっている。完全に「思想」になってしまっている。




アングラー、ラングラー
白鳥 信也
思潮社

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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(1)中井久夫訳

2009-02-01 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
秘密の犯行    リッツォス(中井久夫訳)

あの夜の犯行は神聖だ。そうぼくらは言ってた。
あれは口を割らぬと誓ってた。だが、分からぬ、
きみにも分からぬ、あれがいつまで黙っておれるか。
きみもだ。いつまで口を割らぬか。ひょっとすると
あれに先を越されぬようにバカみたいにゲロを吐くぞ。
窓をしたたり落ちる雨をみつめ、レストランのネオンをみつめている時に
群衆の中に椅子がどさっと落とされ、ガラスが割れ、
それから「奴」が、ほっぺたに傷跡のあるあいつが、眼を血走らせ、
筋肉の盛りあがった腕をのばして、きみを指さす時には--。



 「犯行」はもしかすると「犯罪」ではなく、戦いかもしれない。たとえば自由を守るための。「聖戦」という名の行動かもしれない。そういう戦いにおいて、誰が何をしたかは絶対的な「秘密」である。知っているけれど知らないということにしなければならない。けれども、たとえば拷問にあったとき、どうなるだろうか。いつまで黙っていられるか。それはいつでも厳しい問題である。
 こういう詩の中にあって、

窓をしたたり落ちる雨をみつめ、レストランのネオンをみつめている時に

 という行は美しい。
 それを美しいと感じるのにはわけがある。「雨」には感情がないからだ。「雨」は人間の感情に配慮しない。人間が悲しんでいようが苦しんでいようが関係なく、ただ降るだけである。その、人間と「無関係」という関係が美しい。なぜなら、それは「無関係」ゆえに人間を裏切らないからだ。
 「レストランのネオン」も同じである。それは「自然」(気象)ではなく、人間がつくったものであるけれど、やはり人間の感情、人間の精神を配慮しない。人間の作り上げたものには、人間が作り上げたにもかかわらず、そういう要素がある。人間とは「無関係」という要素が。
 そういう人間と「無関係」、さらに言えば、私とは「無関係」な存在が私を孤独にし、私を同時に洗い清める。あらゆる人間関係を、ぱっと切って捨ててしまう。
 人間も、そんなふうに他者を切って捨ててしまうことができれば、とても美しくなれる。それは「裏切る」ということではなく、逆の行為を指して言っているのだが。つまり、ほんとうに仲間を完全に自分とは「無関係」と言ってしまえる精神力があれば、という意味で言っているのだが。同じ「犯行」を犯した仲間、その誰彼を、「雨」や「ネオン」のような存在になってしまって、「知りません」と言ってしまえるだけの、人間を超越した精神力があれば、あらゆることは美しくなるのに……。

 リッツォスがそんなふうに考えたかどうか、わからない。けれど、私は、そんなふうに考えてしまう。「窓をしたたり落ちる雨をみつめ、レストランのネオンをみつめている時に」という1行があまりにも美しいので。何か悪いこと(?)をしたあと、雨の降る日、レストランのネオンをひとりでみつめてみたい気持ちにさせられる。孤独を感じ、絶望を感じ、そしてその孤独や絶望を感じる力を、雨やネオンと通い合わせてみたいのだ。そのとき、きっと何かが美しくなる。そんな気持ちにさせられる。

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