詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

津村記久子「ポストライムの舟」

2009-02-23 09:01:47 | その他(音楽、小説etc)
津村記久子「ポストライムの舟」(「文芸春秋」2009年03月号)

 芥川賞受賞作。困惑してしまった。まったく面白くない。文体が面白くない。書き出し。

 三時の休憩時間の終わりを告げる予鈴が鳴ったが、長瀬由紀子はパイプ椅子の背もたれに手を掛け、背後の掲示板を見上げたままだった。

 とても退屈である。余分な情報があり、うまく機能していない。たとえば「背後の掲示板」の「背後」とはどういうことだろう。背中をねじっているのだろうか。そうであるなら、そこに「肉体」が書かれていないといけない。なぜ、そんな姿勢でいるのか。そのときのこころの動きは? そういうものが書かれていないと、「背後」がことばとして生きてこない。
 津村は、主人公を肉体として描いていない。それが面白くない原因である。

 この書き出しの後、「長瀬」は「ナガセ」にかわる。そして他の登場人物たちとかかわる。そして登場人物たちは漢字だったり、カタカナだったり、敬称「さん」がついていたりいなかったりする。その書きわけも、私にはよくわからない。たぶんカタカナ、漢字、敬称によって主人公「ナガセ」との人間関係の度合いを区別しているのだろうけれど、それが私にはわからない。名前の表記の書きわけではなく、人物の具体的な行動で人間をかき分けてもらいたい。表記で人間をかき分けるのは、安直な気がするのである。

 強いて面白い部分を上げると、2か所。348ページの自転車の場面と、377ページ上段の「今のナガセは、自室に寝かされてただ天井の木目を見ている。」からの風邪で寝ている場面である。特に、雨と肉体の感じがとてもいい。その最後の部分、

 顔を上下左右にむずむず動かして、せめて泣こうとしてみるが、こみ上げるものが何もない。ただ、屋根の下で寝られてありがたい、と頭のてっぺんを稲妻に照らされながら思った。雨が強くなるにつれて、眠気が増していった。次に目が覚めた時に、仕事をやめたくなっていませんように、と祈る。近くで雷の落ちる音がした。

 こういう文体で、ナガセだけでなく、他の登場人物も描き分けられていたら面白いと思った。





文藝春秋 2009年 03月号 [雑誌]

文藝春秋

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『田村隆一全詩集』を読む(4)

2009-02-23 00:00:00 | 田村隆一
 矛盾。対立。対句。そういうものに呼応する、もうひとつのことばの動き。それを「腐刻画」に感じた。

 ドイツの腐刻画でみた或る風景が いま彼の眼前にある それは黄昏から夜に入つてゆく古代都市の俯瞰図のようでもあり あるいは深夜から未明に導かれてゆく近代の懸崖を模した写実画のごとくにも想われた

 この男 つまり私が語りはじめた彼は 若年にして父を殺した その秋 母親は美しく発狂した

 2連目は、とてもおもしろい。ここには不要な(?)ことばがある。なくても、この作品が成立することばがある。「私が語りはじめた」である。その挿入があろうがなかろうが、「彼」が「若年にして父を殺した」という文意は変わらない。
 ……はずである。
 ところが、「わざと」そのことばを挿入したために、その瞬間から、文意が変わるのではないかという疑念がわいてくる。
 それは、それにつづく「その秋 母親は美しく発狂した」で、いっそう強くなる。
 「母親」というのは、誰? 彼の母親? 私の母親? 区別がつかない。
 「私が語りはじめた」という一言によって、「彼」と「私」が、「母親」ということばのなかで融合してしまう。
 そして、「彼」と「私」が「母親」のなかで融合してしまうと、その印象は、ことばを逆流して、すべてを作り替えてしまう。「母親」が誰の母親かわからないのだったら、「父」も誰の父かわからない。「彼」と「私」と言っているが、それは「わざと」そう言っているだけであり、ほんとうは「私」のことをそう呼んでいるだけかもしれない。
 風景が「彼の眼前にある」というけれど、それは「私」の眼前かもしれない。いや、「私」の眼前でなければ、リアルにそれを再現できないだろう。「想われた」というような主観的なことばで語ることはできないだろう。「……のようでもあり、あるいは……のごとくにも」というような、複数の「思い」を語ることができるのは、それを見ている本人(私)であり、他人(彼)にはそう「想われた」というのは論理的におかしい。「彼」にそう「想われた」かどうかは、「彼」にしかわからないことだからである。

 ぼくの耳は彼女の声を聴かない
 ぼくの眼は彼女の声を聴く     (「Nu」)

 耳(聴覚)と眼(視覚)が融合したように、「私」と「彼」は融合する。そしてそれは「語る」ということをとおしてのことである。
 「私」が「彼」を語るということは、一方で「彼」と距離を置くことだが、他方で「彼」と接近することでもある。語ることは対象を客観化することであるけれど、また、同時に対象と一体化しないとほんとうに語るということにはならない。対象と一体化したとき、ほんとうにその対象を語っているという印象が、そのことばのなかに生まれる。
 語るというのは、そういう矛盾した行為である。

 語る--語っていることをどれだけ意識するか。つまり、そこに書かれていることのなかに「わざと」がどれだけ含まれているか、「わざと」をどれだけ意識するかが詩にとって重要なのである。ことばに対して自覚的であるかどうか、それが「現代詩」の出発点の基本である。
 矛盾も対句も融合も、すべて「わざと」である。「わざと」という自覚こそが、詩なのである。




スコッチと銭湯 (ランティエ叢書)
田村 隆一
角川春樹事務所

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