仲山清『文学ゴッコのやんま堂』(ワニ・プロダクション、2008年12月22日発行)
雲形定規を書いた詩がおもしろい。「鰐組」に発表されたときにも感想を書いたが、どの作品の感想だったかよく覚えていない。「くもがたの」だったかもしれない。その作品以前に雲形定規を書いている。1篇1篇でもおもしろいが、まとめて読むとさらにおもしろい。雲形定規だけの詩集にすればよかったのに、と思った。
何がおもしろいかというと、「距離」がおもしろいのである。「居残りくもがた」の書き出し。
雲形定規というのは雲の形をしているからそう呼ばれるのだが、その「雲」から天候、気候、気象へと自然にことばが動いていく。それは空の雲とおなじように、まあ、ぼんやりした距離にある。つまり、雨ならどうする、晴れたらどうするというふうに人は計画を立てたり行動したりするが、きょうは雲がでているから云々とはあまり考えないというような距離に似ている。明確な指針にはならない。明確な判断基準にはならない。ただし、さすが「定規」だけあって、その動いていく「距離」が正確なのである。「雲」からはじまる天候、気象の外へと出て行かない。
雲形定規と天候とは何の関係もない。だから、そういうものと関係づけるのは、いいかげんである。そんなことをしたからといって、何かが見えてくるわけではない。どうせ関係ないことを書くのだから、もっと飛躍もできる(逸脱もできる)はずなのに、きちんと天候、気象という「距離」(射程)を守っている。その律儀さがとてもおもしろいのである。フリーハンドではなく、あくまで定規をつかう--その律儀さがおもしろいのである。
この、距離を一定に保つ、逸脱しそうで逸脱しない、どこかで律儀に「基準」にしたがう--というのが、たぶん、仲山の思想なのだ。それを距離を測る道具ではなく、曲線を描くための道具、雲形定規を中心に据えて、浮かび上がらせる。
2連目の部分。
焼酎を飲んで、テレビの天気予報を見て、ふーん、と感想をもらして(だれに対して? もちろんだれに対してでもない)、というような日常が正確につづいていくというのはいいものである。そこには、たしかにまだことばにならない(だれも書いていない)、思想、肉体にぴったりあったことばがあるのだと思う。それはフリーハンドで書くと、ちょっとでたらめになるかもしれない。何かによりかかりながら(利用しながら)書くと、なんとなく(?)正確になる、つまり信頼できるものになる。
仲山は「雲形定規」を持ち込むことで、ことばをそういう領域に導いたのである。
ふんわり、くにゃり、でも、すっきりした線--曲線の美しさを楽しむ詩である。
「くもがたかなた」という作品も、とても好きだ。
ここでは「雲形定規」は庭園の設計図のためにつかわれている。この詩の主人公(?)は設計士である。設計士は、「私語」(個人の欲望)で設計してはならない。注文に応じて設計する。そのときの「距離」。それを正確に守るために、定規がいるのだ。定規のようなものがいるのだ。
フリーハンドにみえても、フリーハンドではないのだ。
フリーハンドではないものの、その独特の美しさが、ことばを整えている。
雲形定規を書いた詩がおもしろい。「鰐組」に発表されたときにも感想を書いたが、どの作品の感想だったかよく覚えていない。「くもがたの」だったかもしれない。その作品以前に雲形定規を書いている。1篇1篇でもおもしろいが、まとめて読むとさらにおもしろい。雲形定規だけの詩集にすればよかったのに、と思った。
何がおもしろいかというと、「距離」がおもしろいのである。「居残りくもがた」の書き出し。
雲形定規には陽が昇らない
朝ぼらけものなければ夕まぐれもない
けれども雲形定規は陽あたりのいい部屋にあり
仕事ひとすじの男の寵愛をうけている
出番の頻度でいえば
縮尺定規や三角定規にはとてもかなわない
型抜き定規とくらべても
まだ少ない
だがいったん持ち出されると
製図台いちめん
豪雨のあとのようにしてしまう
雲形定規というのは雲の形をしているからそう呼ばれるのだが、その「雲」から天候、気候、気象へと自然にことばが動いていく。それは空の雲とおなじように、まあ、ぼんやりした距離にある。つまり、雨ならどうする、晴れたらどうするというふうに人は計画を立てたり行動したりするが、きょうは雲がでているから云々とはあまり考えないというような距離に似ている。明確な指針にはならない。明確な判断基準にはならない。ただし、さすが「定規」だけあって、その動いていく「距離」が正確なのである。「雲」からはじまる天候、気象の外へと出て行かない。
雲形定規と天候とは何の関係もない。だから、そういうものと関係づけるのは、いいかげんである。そんなことをしたからといって、何かが見えてくるわけではない。どうせ関係ないことを書くのだから、もっと飛躍もできる(逸脱もできる)はずなのに、きちんと天候、気象という「距離」(射程)を守っている。その律儀さがとてもおもしろいのである。フリーハンドではなく、あくまで定規をつかう--その律儀さがおもしろいのである。
この、距離を一定に保つ、逸脱しそうで逸脱しない、どこかで律儀に「基準」にしたがう--というのが、たぶん、仲山の思想なのだ。それを距離を測る道具ではなく、曲線を描くための道具、雲形定規を中心に据えて、浮かび上がらせる。
2連目の部分。
雲形定規は机のひきだしにしまわれる
男は雲のない机をはなれ
墓地のみえる窓をとじて焼酎を呑む
たたみの隅の小さなテレビは
目のさだまらない画面をうつし
はしゃいだ声があしたの天気予報をいっている
そうかい、この世のはじまりは冬晴れかい
焼酎を飲んで、テレビの天気予報を見て、ふーん、と感想をもらして(だれに対して? もちろんだれに対してでもない)、というような日常が正確につづいていくというのはいいものである。そこには、たしかにまだことばにならない(だれも書いていない)、思想、肉体にぴったりあったことばがあるのだと思う。それはフリーハンドで書くと、ちょっとでたらめになるかもしれない。何かによりかかりながら(利用しながら)書くと、なんとなく(?)正確になる、つまり信頼できるものになる。
仲山は「雲形定規」を持ち込むことで、ことばをそういう領域に導いたのである。
ふんわり、くにゃり、でも、すっきりした線--曲線の美しさを楽しむ詩である。
「くもがたかなた」という作品も、とても好きだ。
雲形定規から私語をとりのぞく
とりわけ独りごとを
腐りかけた野菜を
ひえきらない魂をひきぬく。
庭園のなかの水路をふちどる曲線は
新鮮でなおかつ
かわいていなければならない
ここでは「雲形定規」は庭園の設計図のためにつかわれている。この詩の主人公(?)は設計士である。設計士は、「私語」(個人の欲望)で設計してはならない。注文に応じて設計する。そのときの「距離」。それを正確に守るために、定規がいるのだ。定規のようなものがいるのだ。
フリーハンドにみえても、フリーハンドではないのだ。
フリーハンドではないものの、その独特の美しさが、ことばを整えている。