詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

仲山清『文学ゴッコのやんま堂』

2009-02-16 09:31:52 | 詩集
仲山清『文学ゴッコのやんま堂』(ワニ・プロダクション、2008年12月22日発行)

 雲形定規を書いた詩がおもしろい。「鰐組」に発表されたときにも感想を書いたが、どの作品の感想だったかよく覚えていない。「くもがたの」だったかもしれない。その作品以前に雲形定規を書いている。1篇1篇でもおもしろいが、まとめて読むとさらにおもしろい。雲形定規だけの詩集にすればよかったのに、と思った。
 何がおもしろいかというと、「距離」がおもしろいのである。「居残りくもがた」の書き出し。

雲形定規には陽が昇らない
朝ぼらけものなければ夕まぐれもない
けれども雲形定規は陽あたりのいい部屋にあり
仕事ひとすじの男の寵愛をうけている
出番の頻度でいえば
縮尺定規や三角定規にはとてもかなわない
型抜き定規とくらべても
まだ少ない
だがいったん持ち出されると
製図台いちめん
豪雨のあとのようにしてしまう

 雲形定規というのは雲の形をしているからそう呼ばれるのだが、その「雲」から天候、気候、気象へと自然にことばが動いていく。それは空の雲とおなじように、まあ、ぼんやりした距離にある。つまり、雨ならどうする、晴れたらどうするというふうに人は計画を立てたり行動したりするが、きょうは雲がでているから云々とはあまり考えないというような距離に似ている。明確な指針にはならない。明確な判断基準にはならない。ただし、さすが「定規」だけあって、その動いていく「距離」が正確なのである。「雲」からはじまる天候、気象の外へと出て行かない。
 雲形定規と天候とは何の関係もない。だから、そういうものと関係づけるのは、いいかげんである。そんなことをしたからといって、何かが見えてくるわけではない。どうせ関係ないことを書くのだから、もっと飛躍もできる(逸脱もできる)はずなのに、きちんと天候、気象という「距離」(射程)を守っている。その律儀さがとてもおもしろいのである。フリーハンドではなく、あくまで定規をつかう--その律儀さがおもしろいのである。
 この、距離を一定に保つ、逸脱しそうで逸脱しない、どこかで律儀に「基準」にしたがう--というのが、たぶん、仲山の思想なのだ。それを距離を測る道具ではなく、曲線を描くための道具、雲形定規を中心に据えて、浮かび上がらせる。
 2連目の部分。

雲形定規は机のひきだしにしまわれる
男は雲のない机をはなれ
墓地のみえる窓をとじて焼酎を呑む
たたみの隅の小さなテレビは
目のさだまらない画面をうつし
はしゃいだ声があしたの天気予報をいっている
そうかい、この世のはじまりは冬晴れかい

 焼酎を飲んで、テレビの天気予報を見て、ふーん、と感想をもらして(だれに対して? もちろんだれに対してでもない)、というような日常が正確につづいていくというのはいいものである。そこには、たしかにまだことばにならない(だれも書いていない)、思想、肉体にぴったりあったことばがあるのだと思う。それはフリーハンドで書くと、ちょっとでたらめになるかもしれない。何かによりかかりながら(利用しながら)書くと、なんとなく(?)正確になる、つまり信頼できるものになる。
 仲山は「雲形定規」を持ち込むことで、ことばをそういう領域に導いたのである。
 ふんわり、くにゃり、でも、すっきりした線--曲線の美しさを楽しむ詩である。

 「くもがたかなた」という作品も、とても好きだ。

雲形定規から私語をとりのぞく
とりわけ独りごとを
腐りかけた野菜を
ひえきらない魂をひきぬく。

庭園のなかの水路をふちどる曲線は
新鮮でなおかつ
かわいていなければならない

 ここでは「雲形定規」は庭園の設計図のためにつかわれている。この詩の主人公(?)は設計士である。設計士は、「私語」(個人の欲望)で設計してはならない。注文に応じて設計する。そのときの「距離」。それを正確に守るために、定規がいるのだ。定規のようなものがいるのだ。
 フリーハンドにみえても、フリーハンドではないのだ。
 フリーハンドではないものの、その独特の美しさが、ことばを整えている。



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「紙細工(1971年)」より(3)中井久夫訳

2009-02-16 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)

風が鳴る。
夜。
港のあかりがちらちら揺れる。
税関の廊下で
掃除婦が
ひっそりと箒で掃く。
閉めてあるスーツケース。
ラベルは「禁制品」。
風は仲間だ。
帆よ、大きい帆よ。

 リッツォスの詩が劇(ドラマ)を感じさせるのは、「もの」の取り合わせが少しずれているからである。たとえば「税関の廊下」と「掃除婦」。それは日常的に存在する取り合わせだが、ふつうは「税関」といえば「官吏」である。そこに実際の業務とは無縁の、しかし日常的には全体に必要な仕事をするひと「掃除婦」を組み合わせるとき、あたらしい何かが顔を覗かせる。本来の業務とともにある「意識」が攪拌される。一瞬、ほんらいの業務を忘れ、意識が宙吊りになる。ニュートラルになる。
 その瞬間を狙ったようにして、もうひとつ別のものがあらわれる。「スーツケース」。「禁制品」。
 それは税関の廊下に「掃除婦」がはさまれないまま登場したときは、そんなに違和感はないはずである。一度、意識が宙吊りになっているから、「禁制品」が強く前面に出てくるのである。
 リッツッスは、ことばを宙吊りにして、そのあと新しく動かしはじめる。
 この断章自体をとってみても、「風」で書き起こし、税関を経て、もう一度風に戻る。そういう径路を通ると、風は、異質なものに洗われて、新鮮に見えてくる。
 ものをいままで見えなかった形、新鮮な状態にしてみせるのが詩である。リッツォスの詩は、ことばの構造として、そういう新鮮な「もの」を生み出す装置のようになっている。
 新しい何かが生まれる--そういう印象があるから、ドラマを感じるのだ。


この明かり。
ただ一つ、
山の高みに。
死者が運んだ。
覚えているか?

 リッツォスの詩には説明がない。この説明がない--という構造も、意識をニュートラル、宙吊りにする。説明があると、私たちは、そこに書かれていることを、その説明に従属させて読んでしまう。説明がないので、私たちはそれを、ただ、そこにほうりだされてあるものとして読まなければならない。
 説明がないので、なんのことかわからない。そう思ってしまえば、その読者には、詩は見えて来ない。「意味」を探していては、詩は見えて来ない。
 なんのために書かれているか、何か言いたいのかわからなくても、このことばを読んで、その瞬間、山の高みに明かりが一つ、孤独に燃えているのが見えれば、それでいい。その具体的なイメージが詩なのであって、それ以外は「説明」になってしまう。


大理石も、
かくも裸わに、
かくも白くて、
彫像になることなど待ってはいない。

 白い大理石が見えるか。見えれば、これは詩である。そして、その大理石が「彫像になることなど待っていない」ということばを読んだ瞬間、意識が動くか。動けば詩である。読者にとって、その瞬間が詩である。
 大理石は、自然に(おのずと、つまり芸術家が彫るからではなく、自分で望んで)彫像になる--そうかもしれない。その美しい白さだ芸術家をだまくらかして、自分の望む形に彫らせているのかもしれない。そこには芸術家の思いではなく、大理石の思いこそが反映しているのかもしれない。
 --これはもちろん錯覚である。そんなことなどありえない。そういうありえないことを考えさせる。日常の考えから私たちを解放し、逸脱させるのが詩である。詩を読むのは、日常から逸脱し、いま、ここにはない新しいことばの運動--精神の運動の可能性を知るためである。

 そういう可能性としてのことばの運動を教えてくれるもの、暗示してくれるもの、そういう危険に導いてくれるものが詩である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする