詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ミロス・フォアマン監督「宮廷画家ゴヤは見た」(★★)

2009-02-07 22:15:40 | 映画
監督 ミロス・フォアマン 出演 ハビエル・バルデム、ナタリー・ポートマン、ステラン・スカルスガルド

 ゴヤの生きた時代のスペイン。でも、肝心のゴヤの視点が定まらない。「着衣のマヤ」「裸のマヤ」やちょっと皮肉っぽい「宮廷」の人々の絵を経て、晩年、批評性の強い絵を描いた。その黒に特徴があるのだけれど、黒を発見する過程とスペインの動乱がうまくつながらない。異端審問の暴力を見て、王の無力を見て、フランス軍の横暴を見て……ということが、絵と無関係に描かれているからである。絵を描くときのゴヤの苦悩と無関係に描かれているからである。
 たぶんキャストに問題があるのだと思う。ステラン・スカルスガルド(ゴヤ)は顔がひとなつっこい。前半、かつらをかぶっているときは、そのかつらが似合わない。後半、かつらをとって顔がはっきり見えるようになると、ひとなつっこい目と笑顔が雰囲気にあわなくなる。とても時代から「黒」を発見し、絵のなかに再現していく画家には見えないのである。
 脚本にも問題があるだと思う。
 脚本のオリジナル(だと思う)性は、ゴヤが美しい証人の娘(ナタリー・ポートマン)に刺激され、幸福な絵を描いているということろを出発点にしている。その少女が異端審問で拷問され、犯され、気が狂う。美貌は無残に崩れる。その目撃と、スペインが異端審問を理由にフランスから侵略され、荒らされることを二重写しにしている。美の崩壊が、いわば「黒」の発見につながっていると暗示しているのだが、肝心のゴヤの少女への思いが切実ではない。なぜナタリー・ポートマンに魅せられたのか、その部分が伝わって来ない。ナタリー・ポートマンは美人ではあるけれど、その美とゴヤを結びつける直接的な「欲望」がまったく感じられない。
 そして、その「欲望」をハビエル・バルデムが代弁する。そこからほんとうの悲劇がはじまるのだが、ゴヤはそのことに気がついていない。すくなくともステラン・スカルスガルドの幼稚な(あどけない?)顔やふるまいは、ハビエル・バルデムの行動のなかに自分自身を見いだしていない。ハビエル・バルデムのなかに、ステラン・スカルスガルドを、つまりゴヤ自身を見いだし、苦悩するという形をとらないと、「黒」は真実にならない。ハビエル・バルデムのなかだけではない。王のなかに、ナタリー・ポートマンの父のなかに、司教のなかに、そしてフランス軍やイギリス軍のなかにも、ゴヤがゴヤ自身を発見し、おののくという形の脚本でないかぎり、ゴヤが見たスペイン史にはならない。
 脚本がまずいせいで、ハビエル・バルデムとナタリー・ポートマンの度を超えた熱演だけがグロテスクに輝く。ゴヤの黒の比ではない。
 ハビエル・バルデムの、あの大きな目がナタリー・ポートマンを目の力で犯していく。美はすべて食らいつくされ、美の残骸が残る。このむごたらしさを、カメラが克明にとらえる。これは異様である。その場その場で、権力に取り入り、渡り歩く。その自在な変化を、あの目が、あの目のまま、演じきる。ほんとうに異様である。ある意味で、この映画はハビエル・バルデムが演技をするためだけのための作品かもしれない。
 ナタリー・ポートマンは彼女自身の美貌を否定して熱演しているが、こういう演技は私は間違っていると思う。映画はしょせん映画である。どんなにすばらしい演技でも演技であるとわかる安心感が必要である。演技である安心感を拒絶した演技は演技ではない。役者は常に「地」を見せないといけない。「地」を見せることで、「役」そのものが彼女自身(彼自身)であると錯覚させないといけない。その領域を超えると、どんな熱演でもとたんにつまらなくなる。簡単な例でいうと、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』。オードリー・ヘップバーンはある国の王女を演じているのだが、その王女は王女というよりオードリー・ヘップバーンそのものである。王女がキュートなのではなく、オードリー・ヘップバーンがキュートなのだと錯覚したとき、映画は完璧になる。王女はキュートだと感じさせている間は、映画は不完全である。私たちは(少なくとも)私は「役」を見に行くのではなく、役者を見に行くのだ。役者のなかにある、自分にはないものを見に行くのだ。それが男優であろうと、女優であろうと。

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梅田智江『梅田智江詩集』(4)

2009-02-07 11:54:24 | 詩集
梅田智江『梅田智江詩集』(4)(右文書院、2008年08月15日発行)

 ひとは「私」でありながら、「私」を超越して、何かに「なる」。いや、どんなときでも「私」は「私」をひきずったまま、「私」を超越したものに「なる」。何になっても、「私」は「私」をひきずっている。だからこそ「なる」という意識が生まれる。もし、完全に「私」というものが消えてしまったら、「私」が何かに「なる」(なった)ということがほんとうかどうかわからない。
 『変容記』の「樹の男」。

 ああ、その時、どんな男よりも、男臭く、精液に満ちて、樹が、樹が、わたしを誘ったのだ。なまえは知らない。だが、細い腕を幹に巻き付け、黒い樹を抱いたのはわたしだった。樹の内部で、じょじょに、高まっていく音を聴き、やがて、声を挙げつづけたのは、わたしだった。梢の先から、陽はさんさんと降り、森は燃えるように透き通っていた。

 この世であって、この世でない場所。恐怖と悦楽に、貫かれて、犯してしまった。わたしは果てしなく少女になり、果てしなく老女になった気がする。

 ここに書かれている矛盾。「この世であって、この世でない場所」「わたしは果てしなく少女になり、果てしなく老女になった」。この世なのか、この世ではないのか。少女なのか、老女なのか。矛盾しているから、それは真実なのだ。
 矛盾とは相対立するものが同時に存在することである。そして、この矛盾の科学で一番大切なのは、「相対立するもの」「対立」ではなく、「同時」なのだ。「同時」のなかに、すべての秘密がある。さらにいえば「時」(時間)のなかに、すべての秘密がある。
 矛盾が矛盾でなくなる--矛盾を矛盾でなくすためには簡単な方法がある。「弁証法」の「止揚」というようなものではない。「和解」のような手続きでもない。もっと簡単な方法がある。「時」(時間)を取っ払ってしまえば、矛盾は存在しないのである。できなくなるのである。
 「時」(時間)を取り払う、消し去ることは不可能か。そんなことはない。とても簡単である。私たちはいつでも「時」(時間)を消してしまっている。忘れる、という方法で。夢中になる。時間を忘れる。「時」(時間)がなければ、そこには矛盾は存在しない。
 この詩で梅田はセックスを描いているのだが、セックスの忘我--エクスタシーの瞬間、「わたし」は「わたし」でありながら「わたし」を逸脱している。そこには「時間」が存在しない。だから、それをあとから振り返ると、つまり「時間」のなかに引き戻してみると、「わたしは果てしなく少女になり、果てしなく老女になった」ということが起きるのである。思い出すとき、つまりあることがらを「時間」の枠のなかにいれて順序立てる、秩序立てるとき、その秩序・順序と意識はかならずしも一致しない。10年前のことも、1秒前のことも、意識のなかではすぐ隣にある。時計ではかったときのような「隔たり」がない。だから「少女」と「老女」がぴったり重なり合っていたとしても不思議ではないのである。
 
 「時間」が消える。そして、そこで矛盾したことがぴったり重なり合う。そういうことを別の表現でいえば、どうなるか。「短い髪の女」には、次の行が出てくる。電車で郊外を走り抜けたとき、ある部屋で男と女がセックスをしているのか見えた。

 誰も見なかった。覗き込む姿勢で私だけが見てしまった。闇に切り取られ浮かぶ男と女。
 だが、そんなことがありうのるであろうか。光芒のように垣間見た、あのぬれぬれとした窓のなかで、私は私の生を、一瞬のうちに生きてしまったのだ。

 「時間」が消えてしまう--それは「永遠」である。そして、「
同時」に「一瞬」である。「永遠」と「一瞬」は矛盾しているが、それも「時間」を計測の基準とするからである。「時間」を計測の基準からとりはらえば「永遠」と「一瞬」は人間の「肉体」のなかで一つになる。

 私から見ると、梅田智江は完全に「いのち」をつかみとっているように感じられる。しかし、梅田は、まだまだ不満だったようだ。
 「白い馬」。その全行。

 その白い馬は、夜毎、冷たい沼から脱け出してくる。
 私以外は誰も知らない。暗くて深い森の中の沼だ。
 水面から躍り出るとき、彼は一瞬苦しげに目を剥いていななく。青白い月光を、総身に浴びて。
 岸辺の樹々が、身慄してそれを瞶つめる。つりがね草も羊歯の葉も、細かく慄える。
   やがて森を駆けぬけ、
   緑野を疾走する白い馬。
あれは私の生。いのちそのもの。なのについに私のものにすることができない、私の生きなかったすべてだ。
   疾走する。汗が、筋肉が、
   真っ白い純潔なものが。
   疾走する。歓喜が、喪失が、
   真っ白い純潔なものが。
 荒々しいひずめの音をたてて、下草を踏みしだき。
 私の森のなか。私自身も踏み入ったことのない広大な原野を。その小道を。

 「誕生」の舞台は「山の奥」の「湖」だった。そこで「私」は太陽にさえなった。何にでも「なる」ことができた。しかし、常に何かに「なり」つづけても「なり」つづけてもなれないのだ。自分がほんとうになりたいものには。つまり、真実をつかみきれないという思いが残る。
 それが「白い馬」として描かれている。
 「山の奥」の「湖」から出発して、舞台は、いまは「暗い森」のなかの「沼」に「なって」いる。梅田が変わるとき、舞台もまた変容するのである。
 そして、いま、梅田は「私自身も踏み入ったことのない」ところへ「馬」が入っていくのを見ている。いつでも、「なれない」ものが残される。梅田は「私のものにすることができない」と書いているが、これは「なる」の対極にあるものだ。それがあるからこそ、そしてそれこそが「いのち」だからこそ、梅田は詩を書きつづけたのだ。
 詩は、梅田にとって「いのち」そのものになる唯一の方法だった。だから文字通りいのちがけだった。真剣に書いた。正直に書きつづけた。





外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集
梅田 智江/谷内 修三
書肆侃侃房

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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(7)中井久夫訳

2009-02-07 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
意識して    リッツォス(中井久夫訳)

断る。断るともう一度彼は言う。断る。断る。
着物を裏返しに着る。
自分のコップを逆さまにする。
その水を裏返す。死を裏返す。
靴を手に履く。
手袋を足にはめる。
「嘘を吐くな」と連中は彼に言う。奴等は怒る。
女が三人、バルコニーで笑う。
彼は返事をせぬ。身じろぎもせぬ。
蠅が彼の頬に止まっている。
三人の女が露台で笑う。
女たちは若い。衣ずれの音。彼のほんとうに聞きたいものだ。



 この作品にも何の説明もない。登場人物は「彼」、「連中」(奴等)、「女が三人」。何があったのか何も説明はない。ただ、「彼」がいまの状況に満足していないことがわかる。
 「彼」は若い女とセックスがしたいのかもしれない。そして、「連中」はそうしろと唆しているかもしれない。からかわれているのである。女たちも、いっしょになってからかっている。彼を見つめ、わらっている。どんな反応をするか、見ている。
 彼は何もできない。頬に止まった蠅を払いのけることさえできない。ただ、衣擦れの音を、幻のように聞いている。その音に意識を集中させている。ほかのことはすべて拒絶して。

 1行目の、「断る。」の繰り返しがいい。「もう一度」がいい。何度繰り返しても、それは何度目かではなく、彼にとっては「もう一度」なのである。それしか、彼には思いつくことばがない。その純粋さ、純情さが、美しい。
 何もかも反対にして、自分を、その場から拒絶している。


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