監督 ミロス・フォアマン 出演 ハビエル・バルデム、ナタリー・ポートマン、ステラン・スカルスガルド
ゴヤの生きた時代のスペイン。でも、肝心のゴヤの視点が定まらない。「着衣のマヤ」「裸のマヤ」やちょっと皮肉っぽい「宮廷」の人々の絵を経て、晩年、批評性の強い絵を描いた。その黒に特徴があるのだけれど、黒を発見する過程とスペインの動乱がうまくつながらない。異端審問の暴力を見て、王の無力を見て、フランス軍の横暴を見て……ということが、絵と無関係に描かれているからである。絵を描くときのゴヤの苦悩と無関係に描かれているからである。
たぶんキャストに問題があるのだと思う。ステラン・スカルスガルド(ゴヤ)は顔がひとなつっこい。前半、かつらをかぶっているときは、そのかつらが似合わない。後半、かつらをとって顔がはっきり見えるようになると、ひとなつっこい目と笑顔が雰囲気にあわなくなる。とても時代から「黒」を発見し、絵のなかに再現していく画家には見えないのである。
脚本にも問題があるだと思う。
脚本のオリジナル(だと思う)性は、ゴヤが美しい証人の娘(ナタリー・ポートマン)に刺激され、幸福な絵を描いているということろを出発点にしている。その少女が異端審問で拷問され、犯され、気が狂う。美貌は無残に崩れる。その目撃と、スペインが異端審問を理由にフランスから侵略され、荒らされることを二重写しにしている。美の崩壊が、いわば「黒」の発見につながっていると暗示しているのだが、肝心のゴヤの少女への思いが切実ではない。なぜナタリー・ポートマンに魅せられたのか、その部分が伝わって来ない。ナタリー・ポートマンは美人ではあるけれど、その美とゴヤを結びつける直接的な「欲望」がまったく感じられない。
そして、その「欲望」をハビエル・バルデムが代弁する。そこからほんとうの悲劇がはじまるのだが、ゴヤはそのことに気がついていない。すくなくともステラン・スカルスガルドの幼稚な(あどけない?)顔やふるまいは、ハビエル・バルデムの行動のなかに自分自身を見いだしていない。ハビエル・バルデムのなかに、ステラン・スカルスガルドを、つまりゴヤ自身を見いだし、苦悩するという形をとらないと、「黒」は真実にならない。ハビエル・バルデムのなかだけではない。王のなかに、ナタリー・ポートマンの父のなかに、司教のなかに、そしてフランス軍やイギリス軍のなかにも、ゴヤがゴヤ自身を発見し、おののくという形の脚本でないかぎり、ゴヤが見たスペイン史にはならない。
脚本がまずいせいで、ハビエル・バルデムとナタリー・ポートマンの度を超えた熱演だけがグロテスクに輝く。ゴヤの黒の比ではない。
ハビエル・バルデムの、あの大きな目がナタリー・ポートマンを目の力で犯していく。美はすべて食らいつくされ、美の残骸が残る。このむごたらしさを、カメラが克明にとらえる。これは異様である。その場その場で、権力に取り入り、渡り歩く。その自在な変化を、あの目が、あの目のまま、演じきる。ほんとうに異様である。ある意味で、この映画はハビエル・バルデムが演技をするためだけのための作品かもしれない。
ナタリー・ポートマンは彼女自身の美貌を否定して熱演しているが、こういう演技は私は間違っていると思う。映画はしょせん映画である。どんなにすばらしい演技でも演技であるとわかる安心感が必要である。演技である安心感を拒絶した演技は演技ではない。役者は常に「地」を見せないといけない。「地」を見せることで、「役」そのものが彼女自身(彼自身)であると錯覚させないといけない。その領域を超えると、どんな熱演でもとたんにつまらなくなる。簡単な例でいうと、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』。オードリー・ヘップバーンはある国の王女を演じているのだが、その王女は王女というよりオードリー・ヘップバーンそのものである。王女がキュートなのではなく、オードリー・ヘップバーンがキュートなのだと錯覚したとき、映画は完璧になる。王女はキュートだと感じさせている間は、映画は不完全である。私たちは(少なくとも)私は「役」を見に行くのではなく、役者を見に行くのだ。役者のなかにある、自分にはないものを見に行くのだ。それが男優であろうと、女優であろうと。
ゴヤの生きた時代のスペイン。でも、肝心のゴヤの視点が定まらない。「着衣のマヤ」「裸のマヤ」やちょっと皮肉っぽい「宮廷」の人々の絵を経て、晩年、批評性の強い絵を描いた。その黒に特徴があるのだけれど、黒を発見する過程とスペインの動乱がうまくつながらない。異端審問の暴力を見て、王の無力を見て、フランス軍の横暴を見て……ということが、絵と無関係に描かれているからである。絵を描くときのゴヤの苦悩と無関係に描かれているからである。
たぶんキャストに問題があるのだと思う。ステラン・スカルスガルド(ゴヤ)は顔がひとなつっこい。前半、かつらをかぶっているときは、そのかつらが似合わない。後半、かつらをとって顔がはっきり見えるようになると、ひとなつっこい目と笑顔が雰囲気にあわなくなる。とても時代から「黒」を発見し、絵のなかに再現していく画家には見えないのである。
脚本にも問題があるだと思う。
脚本のオリジナル(だと思う)性は、ゴヤが美しい証人の娘(ナタリー・ポートマン)に刺激され、幸福な絵を描いているということろを出発点にしている。その少女が異端審問で拷問され、犯され、気が狂う。美貌は無残に崩れる。その目撃と、スペインが異端審問を理由にフランスから侵略され、荒らされることを二重写しにしている。美の崩壊が、いわば「黒」の発見につながっていると暗示しているのだが、肝心のゴヤの少女への思いが切実ではない。なぜナタリー・ポートマンに魅せられたのか、その部分が伝わって来ない。ナタリー・ポートマンは美人ではあるけれど、その美とゴヤを結びつける直接的な「欲望」がまったく感じられない。
そして、その「欲望」をハビエル・バルデムが代弁する。そこからほんとうの悲劇がはじまるのだが、ゴヤはそのことに気がついていない。すくなくともステラン・スカルスガルドの幼稚な(あどけない?)顔やふるまいは、ハビエル・バルデムの行動のなかに自分自身を見いだしていない。ハビエル・バルデムのなかに、ステラン・スカルスガルドを、つまりゴヤ自身を見いだし、苦悩するという形をとらないと、「黒」は真実にならない。ハビエル・バルデムのなかだけではない。王のなかに、ナタリー・ポートマンの父のなかに、司教のなかに、そしてフランス軍やイギリス軍のなかにも、ゴヤがゴヤ自身を発見し、おののくという形の脚本でないかぎり、ゴヤが見たスペイン史にはならない。
脚本がまずいせいで、ハビエル・バルデムとナタリー・ポートマンの度を超えた熱演だけがグロテスクに輝く。ゴヤの黒の比ではない。
ハビエル・バルデムの、あの大きな目がナタリー・ポートマンを目の力で犯していく。美はすべて食らいつくされ、美の残骸が残る。このむごたらしさを、カメラが克明にとらえる。これは異様である。その場その場で、権力に取り入り、渡り歩く。その自在な変化を、あの目が、あの目のまま、演じきる。ほんとうに異様である。ある意味で、この映画はハビエル・バルデムが演技をするためだけのための作品かもしれない。
ナタリー・ポートマンは彼女自身の美貌を否定して熱演しているが、こういう演技は私は間違っていると思う。映画はしょせん映画である。どんなにすばらしい演技でも演技であるとわかる安心感が必要である。演技である安心感を拒絶した演技は演技ではない。役者は常に「地」を見せないといけない。「地」を見せることで、「役」そのものが彼女自身(彼自身)であると錯覚させないといけない。その領域を超えると、どんな熱演でもとたんにつまらなくなる。簡単な例でいうと、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』。オードリー・ヘップバーンはある国の王女を演じているのだが、その王女は王女というよりオードリー・ヘップバーンそのものである。王女がキュートなのではなく、オードリー・ヘップバーンがキュートなのだと錯覚したとき、映画は完璧になる。王女はキュートだと感じさせている間は、映画は不完全である。私たちは(少なくとも)私は「役」を見に行くのではなく、役者を見に行くのだ。役者のなかにある、自分にはないものを見に行くのだ。それが男優であろうと、女優であろうと。
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