詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

滝悦子『薔薇の耳のラバ』

2009-02-21 22:29:53 | 詩集
滝悦子『薔薇の耳のラバ』(まろうど社、2008年12月10日発行)

滝悦子『薔薇の耳のラバ』の「「共有」」という詩に忘れられない行がある。面会謝絶のAのことを書いている。

Aの指が確実に磨り減ってゆくのがわかる

 「やせ細る」ではなく「磨り減ってゆく」。その視覚ではなく、触覚の表現が、とても強く響いてくる。肉体感覚が鋭敏な詩人なのだろう。
 それは他の作品でもうかがうことができる。「「共有」」のように強烈ではないけれど、肉体を持っているという感じがしっかりと伝わってくる。「行方」という作品。全行。

----是より旧西国街道

木蓮の茂みは揺れもせず
塀と垣根と電柱と
陽炎だけの道

ひそかに石の道標が傾くとき
首が灼ける
肩が灼ける
棺ごと焼かれた人の記憶だろうか

脳髄が沸き立つ
汗がしたたる

影と方角が
くにゃりと
アスファルトに流れ出す



みんな、どこへ行ったのだ

 「首が灼ける/肩が灼ける」の繰り返しというか、静かな移動がおそろしい。首と肩はつながっている。その連続が、その肉体の部位のしっかりしたつながりが、「棺ごと焼かれた人」へとつながっていくとき、人のいのちと死のつながりが、そのまま肉体のなかでかっと熱く燃え出すような感じがする。滝は「記憶」と書いているが、その記憶は「頭」の記憶ではなく、「肉体」の記憶である。
 アスファルトへ流れ出したのは、影でも方角でもなく、そういう「肉体」の記憶のように思える。「肉体」が「くにゃりと」、つまり固定したか形を失って流れたしてしまえば、そこに「他人」などいるはずがない。

みんな、どこへ行ったのだ

 という疑問が生まれるのは当然だろう。熱い熱い太陽。空気。そのなかでつながってしまう私とだれかの「肉体」、溶け合ってしまういのち、そして死。そのまぶしい輝き。直視できないまぶしさ。そういうものが、ふっと見えてくる詩である。




鮨くう日々
滝 悦子
求龍堂

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クリント・イーストウッド監督「チェンジリング」(★★★★★)

2009-02-21 11:07:07 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 アンジェリーナ・ジョリー、ジョン・マルコヴィッチ

 どのシーンもすばらしいが、特に最後の方に突然あらわれる少年の訊問のシーンがいい。誘拐され、行方不明になっていた少年(アンジェリーナ・ジョリーの息子とは別人)が、「なぜ、いままで名乗り出なかったのか」と問われて答える。「こわかった。自分だけではなく、家族も同じ目にあうのではないかと不安だった」と。この瞬間、子供から親への愛が、この映画ではじめて描かれる。そして、親から子への愛が固く結び合い、その愛が希望に変わる。
 アンジェリーナ・ジョリーは息子を愛している。だから、必死になって探している。死んだという確証がないかぎり探しつづける。帰って来た子供は同じ場所で監禁されていた別の子供である。しかし、その子供が「こわかった。自分だけではなく、家族も同じ目にあうのではないかと不安だった」と語るのを聞いたとき、それは他人の子供の声ではなく、彼女にとっては自分の子供の声だった。ウォルターは、母のことを思って、名乗り出ることを恐れ、どこかに必ず生きている。遠く離れて、互いに相手のことを思い生きている、そう思うとき、絶望が希望にかわる。
 この映画は、単に誘拐された子供を探す母の愛というよりも、希望を取り戻す映画なのだ。あらゆるひとが希望を取り戻そうと生きている。
 腐敗した警察。人権を無視した精神科病院。だれもが希望を失っている。
 そうした時代を背景に、もっとも絶望的な母が強い信念で息子を探しつづける。警察の暴力、精神科医の暴力と闘う。素手で闘う。悲劇の構造が明らかになればなるほど、そして警察の暴力や精神科医の暴力が事実として告白され、批判されればされるほど、その一方で、愛する息子の死は確定的なものという印象が深まる。事実がわかれば、他人(警察の暴力を告発しているジョン・マルコヴィッチや、映画を見ている観客)は、事件はこれで終わりという印象を抱く。実際、誘拐犯が逮捕され、事件を隠蔽しようとした担当警部が処分されたとき、これでこの映画は終り、という印象を私は持った。ジョン・マルコヴィッチは警察の不正が明らかになったあとは映画には登場しなくなるのも、この映画はここで終わりという印象を強くする。ふつうなら、警察の処分で事件そのもののカタルシスがやってくるからである。アンジェリーナ・ジョリーが闘ってきた相手が消えるからである。ところが、犯人の絞首刑のシーンがあり……と映画はつづいていく。そして、そのあとに冒頭に書いた少年のシーンがある。 
 そのとき、私はようやく気づいたのである。
 子供を誘拐された母親の事件、誘拐された子供の事件は、事件の構造がわかり、その構造を隠していたものがわかり、処分されれば終わりではないのだ。犯人がつかまり、処分され、怠慢だった警部が処分されれば終わりではないのだ。事件というのはいつまでもいつまでもつづいていくのである。母親にとって事件は息子と再会しないかぎり終わらないのだ。解決したことにならないのだ。それは息子にとっても同じなのだ。

 この映画は、一見、とても淡々としている。映像に抑制がきいているし、警察や精神科医の追及も、意外とさらりと描いている。感情が高ぶる、その感情によって出演者と観客が一体になるのを回避するかのように、感情の高ぶりが頂点に達する前に、ぱっと画面が切り替わる。
 それには目的があったのだ。
 クリント・イーストウッドは警察や精神科医の暴力、市民を虐待する暴力も追及しているが、彼が描きたかったのはそれだけではないのだ。警察や精神科医の暴力、腐敗、その構造を描いた映画なら、これまでにもある。それを追及することで、カタルシスに達する映画はこれまでもある。
 イーストウッドは、それだけでは事件は解決したことにならない--そうことを主張したくてこの映画を撮ったのだと思う。事件は被害者にとっては永遠につづくのである。その永遠に続く感じを忘れてはならない。被害者の気持ちを、表面的なカタルシス(警部の処分、精神科医の追及、一種の勝訴)で分断してはならない。そういうカタルシスを描いてしまえば、事件が解決してしまったかのような錯覚を与えてしまう。だから、そういう印象を抑えるようにして、ふつうの映画ならクライマックスである法廷のシーンもたんたんと処理しているのだ。
 この姿勢には、胸を打たれる。イーストウッドの深い愛、被害者への深い思いやりにこころを打たれる。
 出演者にも、こういう姿勢はきちんと伝わっているのだろう。どのシーンもとても落ち着いている。深みがある。感情の暴走で映像を輝かせるというようなことをしない。ひとつのシーンは別のいくつものシーンと関連しており、それは永遠に途切れない、という印象を与えるように工夫されている。

 私たちの国には、北朝鮮に拉致された人がいる。その家族がいる。その人たちのことを思い出す。被害者と家族が再会するまで、事件は終わらない。


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『田村隆一全詩集』を読む(2)

2009-02-21 11:05:27 | 田村隆一
 「幻を見る人」は4篇から構成されている。この詩にも矛盾がある。4連目。

 (これまでに
  われわれの眼で見てきたものは
  いつも終りからはじまつた)
 (われわれが生れた時は
  とつくにわれわれは死んでいた
  われわれが叫び声を聴く時は
  もう沈黙があるばかり)

 「終りからはじまつた」「生れた時は/とつくにわれわれは死んでいた」。そして、矛盾であるにもかかわらず、なぜか、そのことばの運動が「間違っている」という印象呼び起こさない。たぶん、私たちは現実が矛盾で構成されていることをどこかで感じているのからかもしれない。田村は、そういう私たちがぼんやりと感じているものの「内部」といえばいいのか、その「構造」をことばでとらえ直そうとしている。そして、そういう「内部」あるいは「構造」というものをくっきりと見るために、わざと矛盾を導入している。矛盾した存在は、そのふたつの存在の「あいだ」に「広がり」をつくりだすからである。
 もちろん矛盾するものがぴったり密着していてもいい。矛盾するものが密着しているということは、もちろん現実にはあるだろう。
 けれど、その密着を、田村は、強引に(?)切り離し、「あいだ」をつくり、その「あいだ」(広がり)のなかでことばを動かす。
 「あいだ」の存在によって、現実を突き動かすと言い換えることもできると思う。
 この「あいだ」、「ひろがり」の意識は、この詩に特徴的にあらわれている。引用しなかった部分に、おもしろい行があるのだ。
 1連目「四時半」、3連目「二時」、5連目「一時半」、7連目「十二時」。
 詩は、ことばの運動に逆らって、「過去」へと進む。田村は「時間」を「過去」へと動かしている。自然の(日常の)時間は、もちろん、そういうふうには動かない。この意識的な時間の操作は、日常感覚と矛盾している。
 そういう矛盾した時間の流れ(逆方向の流れ)をことばの運動に持ち込むことで、田村は「あいだ」「広がり」を強調している。
 時間が自然に進むとき、私たちは時間というものをあまり意識しない。知らない内に別の時間にたどりついている。(目的があって、ある時間をめざして何かをしている場合は別である。)ところが、時間を過去へさかのぼらせるときは、その流れを明確に意識しないといけない。「わざと」、時間を逆にとらえ直さないといけない。
 意識的に「あいだ」「広がり」をつくりだし、その「広がり」のなかで、田村は矛盾を見つめようとしている。いのちを「広がり」のなかで、意識的に追跡しようとしている。


腐敗性物質 (講談社文芸文庫)
田村 隆一
講談社

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