秋山基夫「蛇輪」(「どぅるかまら」5、2009年01月10日発行)
秋山基夫「蛇輪」のなかに3行ずつ、同じ字数の連と、行数も字数もばらばらの連が出てくる。3行ずつ同じ字数の連は2連連なっている。
スペイン語圏への旅行の詩なのだが、妙にひっかかる。読んでいて、作品の「姿」が妙にひっかかる。
なぜ、こんな形にしたのだろう。(偶然なったのだろうか?)
どちらを読んでいいのかわからない。
私には、行の文字数がふぞろいの部分の方が読みやすく、美しく感じられる。そこには解放された音楽がある。軽快な音楽がある。描写している対象と「わたし」の関係が開かれていると感じる。
行の文字数がそろっている部分は、むりやり枠にはめこんだような窮屈さがある。また、音楽に乏しい。(私の耳にはそんなふうに感じられる。)軽快さが消え、重たいものが残る。
それとも、これはタイトルの「蛇輪」そのままに、(あるいは2連目のないようそのままに)、蛇が尻尾を食べながらやがて「口だけになる」という感じの構造なのだろうか。文字数がそろっている方が「口」、そろっていないのが「尻尾」(あるは、その逆)。そして、最後には、なにやら「思念」のようなものだけが「口」の形をして残る。そういうことを狙っているのかな?
好きな行についていえば、引用した部分にある「靴紐はだらしくなく延びている」や、最後の方に出てくる「秋になればまた好色本を読み」も、とてもいい。肉体を感じる。それが、文字数のふぞろいな行の音楽とぶつかるとき、とても新鮮である。新鮮なのだけれど、一方で、その「靴紐はだらしくなく延びている」「秋になればまた好色本を読み」と隣接している行に邪魔されて、同時にいやあな気持ちにもなる。
文字数の同じ行の部分と、そうではない連が、それぞれ別の作品ならいいのになあ、と思う。
というより、3行ずつ同じ字数の文字の部分がなければ、この詩はとても楽しいのになあ、と思う。
秋山は、その部分だけでは詩として軽いとと感じたのかもしれない。旅行中にほんとうに感じたこと(?)をが読者に伝わらないと思ったのかもしれない。たしかにその部分がないと、「死」の要素が消えてしまう。「思念」が遠くなってしまう。でも、そういうものが遠くなってもいいのではないだろうか。
詩はたしかに「思想」をつたえてこそ詩になるのだけれど、「思想」は「深刻な思念」でなければならないわけではないだろう。
軽さのなかにある「絶望」というものもある。軽さのなかにある「悲しみ」というものもある。
最終連。
この4行は、秋山がこの詩でつかったスタイルとは違ったスタイルのときの方が、もっと魅力的になると思う。
秋山基夫「蛇輪」のなかに3行ずつ、同じ字数の連と、行数も字数もばらばらの連が出てくる。3行ずつ同じ字数の連は2連連なっている。
首だけもち上げ姿を低くして
いっそう低い夕暮れの地平へ
わたしはバイクを爆走させる
わたしはわたしの尻尾を食い
わたしの時間を太らせている
わたしはやがて口だけになる
夏になって、妻を伴い、海に出かけた。
白い砂の上で、妻の体は、美しかった。
この夫婦はモダニストです。星のかけら、青色の
硝子瓶、赤白のパラソルの陰の午睡、波の音……、
そのようにして
ようやく
わたしたちも立ち上がり、ざわめく港の方へ歩いて行った。
夕暮れは、体に元気があり、わくわくと夜に向かう長い時間だった。
わたしはこっそりドアを出た
古い生活と古いデスクを捨て
雑踏に紛れてわたしを隠した
わたしは新しい物質だったが
靴紐はだらしなく延びている
死は何をとまどっているのか
スペイン語圏への旅行の詩なのだが、妙にひっかかる。読んでいて、作品の「姿」が妙にひっかかる。
なぜ、こんな形にしたのだろう。(偶然なったのだろうか?)
どちらを読んでいいのかわからない。
私には、行の文字数がふぞろいの部分の方が読みやすく、美しく感じられる。そこには解放された音楽がある。軽快な音楽がある。描写している対象と「わたし」の関係が開かれていると感じる。
行の文字数がそろっている部分は、むりやり枠にはめこんだような窮屈さがある。また、音楽に乏しい。(私の耳にはそんなふうに感じられる。)軽快さが消え、重たいものが残る。
それとも、これはタイトルの「蛇輪」そのままに、(あるいは2連目のないようそのままに)、蛇が尻尾を食べながらやがて「口だけになる」という感じの構造なのだろうか。文字数がそろっている方が「口」、そろっていないのが「尻尾」(あるは、その逆)。そして、最後には、なにやら「思念」のようなものだけが「口」の形をして残る。そういうことを狙っているのかな?
好きな行についていえば、引用した部分にある「靴紐はだらしくなく延びている」や、最後の方に出てくる「秋になればまた好色本を読み」も、とてもいい。肉体を感じる。それが、文字数のふぞろいな行の音楽とぶつかるとき、とても新鮮である。新鮮なのだけれど、一方で、その「靴紐はだらしくなく延びている」「秋になればまた好色本を読み」と隣接している行に邪魔されて、同時にいやあな気持ちにもなる。
文字数の同じ行の部分と、そうではない連が、それぞれ別の作品ならいいのになあ、と思う。
というより、3行ずつ同じ字数の文字の部分がなければ、この詩はとても楽しいのになあ、と思う。
秋山は、その部分だけでは詩として軽いとと感じたのかもしれない。旅行中にほんとうに感じたこと(?)をが読者に伝わらないと思ったのかもしれない。たしかにその部分がないと、「死」の要素が消えてしまう。「思念」が遠くなってしまう。でも、そういうものが遠くなってもいいのではないだろうか。
詩はたしかに「思想」をつたえてこそ詩になるのだけれど、「思想」は「深刻な思念」でなければならないわけではないだろう。
軽さのなかにある「絶望」というものもある。軽さのなかにある「悲しみ」というものもある。
最終連。
道端の白い家のカウンターで、
若い夫婦が、パンとオリーブ油だけの昼食をとっていた。
母親はパンをちぎり、オリーブ油に浸して、幼児に与えた。
絶望の中に、わたしの席があるというのは、嘘だ。
この4行は、秋山がこの詩でつかったスタイルとは違ったスタイルのときの方が、もっと魅力的になると思う。
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