詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋山基夫「蛇輪」

2009-02-02 11:24:13 | 詩(雑誌・同人誌)
秋山基夫「蛇輪」(「どぅるかまら」5、2009年01月10日発行)

 秋山基夫「蛇輪」のなかに3行ずつ、同じ字数の連と、行数も字数もばらばらの連が出てくる。3行ずつ同じ字数の連は2連連なっている。

首だけもち上げ姿を低くして
いっそう低い夕暮れの地平へ
わたしはバイクを爆走させる

わたしはわたしの尻尾を食い
わたしの時間を太らせている
わたしはやがて口だけになる

夏になって、妻を伴い、海に出かけた。
白い砂の上で、妻の体は、美しかった。
この夫婦はモダニストです。星のかけら、青色の
硝子瓶、赤白のパラソルの陰の午睡、波の音……、
そのようにして
ようやく
わたしたちも立ち上がり、ざわめく港の方へ歩いて行った。
夕暮れは、体に元気があり、わくわくと夜に向かう長い時間だった。

わたしはこっそりドアを出た
古い生活と古いデスクを捨て
雑踏に紛れてわたしを隠した

わたしは新しい物質だったが
靴紐はだらしなく延びている
死は何をとまどっているのか

 スペイン語圏への旅行の詩なのだが、妙にひっかかる。読んでいて、作品の「姿」が妙にひっかかる。
 なぜ、こんな形にしたのだろう。(偶然なったのだろうか?)
 どちらを読んでいいのかわからない。
 私には、行の文字数がふぞろいの部分の方が読みやすく、美しく感じられる。そこには解放された音楽がある。軽快な音楽がある。描写している対象と「わたし」の関係が開かれていると感じる。
 行の文字数がそろっている部分は、むりやり枠にはめこんだような窮屈さがある。また、音楽に乏しい。(私の耳にはそんなふうに感じられる。)軽快さが消え、重たいものが残る。

 それとも、これはタイトルの「蛇輪」そのままに、(あるいは2連目のないようそのままに)、蛇が尻尾を食べながらやがて「口だけになる」という感じの構造なのだろうか。文字数がそろっている方が「口」、そろっていないのが「尻尾」(あるは、その逆)。そして、最後には、なにやら「思念」のようなものだけが「口」の形をして残る。そういうことを狙っているのかな?

 好きな行についていえば、引用した部分にある「靴紐はだらしくなく延びている」や、最後の方に出てくる「秋になればまた好色本を読み」も、とてもいい。肉体を感じる。それが、文字数のふぞろいな行の音楽とぶつかるとき、とても新鮮である。新鮮なのだけれど、一方で、その「靴紐はだらしくなく延びている」「秋になればまた好色本を読み」と隣接している行に邪魔されて、同時にいやあな気持ちにもなる。
 文字数の同じ行の部分と、そうではない連が、それぞれ別の作品ならいいのになあ、と思う。
 というより、3行ずつ同じ字数の文字の部分がなければ、この詩はとても楽しいのになあ、と思う。
 
 秋山は、その部分だけでは詩として軽いとと感じたのかもしれない。旅行中にほんとうに感じたこと(?)をが読者に伝わらないと思ったのかもしれない。たしかにその部分がないと、「死」の要素が消えてしまう。「思念」が遠くなってしまう。でも、そういうものが遠くなってもいいのではないだろうか。
 詩はたしかに「思想」をつたえてこそ詩になるのだけれど、「思想」は「深刻な思念」でなければならないわけではないだろう。
 軽さのなかにある「絶望」というものもある。軽さのなかにある「悲しみ」というものもある。
 最終連。

道端の白い家のカウンターで、
若い夫婦が、パンとオリーブ油だけの昼食をとっていた。
母親はパンをちぎり、オリーブ油に浸して、幼児に与えた。
絶望の中に、わたしの席があるというのは、嘘だ。

 この4行は、秋山がこの詩でつかったスタイルとは違ったスタイルのときの方が、もっと魅力的になると思う。


岡山の詩100年
秋山 基夫,坂本 明子,岡 隆夫,三沢 浩二
和光出版

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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(2)中井久夫訳

2009-02-02 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
詩人の仕事    リッツォス(中井久夫訳)

廊下に傘、オーヴァーシューズ、鏡。
窓は鏡に映って、すこし静けさが高まる。
窓の中には向かいの病院の門が。
病院にはいら立つ長い行列。常連の供血者だ。
前のほうのはもう腕まくりをしてる。
奥の部屋では救急患者が五人死んだ。



 「詩人の仕事」とは何だろうか。「ことば」を発見することである。そしてことばを発見するということは「もの」を発見することとほとんど同じである。
 廊下に傘がある。オーヴァーシューズがある。鏡がある。その「事実」は誰が見てもかわらないだろう。しかし、それを「ことば」にするかどうかはひとによって違う。傘、オーヴァーシューズ、鏡を見ても、それをことばにしないひとがいる。また、ことばにするにしろ、その順序でことばにするかどうかはわからない。リッツォスは、その順序でことばを並べた。そのときに詩がはじまる。
 そうした「もの」の発見があって、はじめて、次の行、

窓は鏡に映って、すこし静けさが高まる。

という意識の内部へ侵入していくようなことばの動きが可能なのだ。「もの」を発見し、それを「ことば」にする。すると「ことば」を動かした意識は、「ことば」のもっている力を借りて、おのずと動きはじめる。その動きを忠実に、もういちど「ことば」そのものに還元できるのが「詩人」である。

 いったん動きだしたことばは、もう作者の手を離れる。(読者の手にゆだねられる、という意味ではない。それはもう少しあとのことだ。)
 ことば動く。どこまでも動く。「廊下」からはじまるリッツォスのことばは、最終行で思わぬ現実と向き合っている。こういう動きは、リッツォス自身が狙って動いたものではない。ことばが、ことば自身の力で動いていって、そこにたどりついたのである。こういう動きを、詩人は制御できない。そして、制御せずにことばに運動をまかせてしまうのが詩人である。

 そんなことを考えた。

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