詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大西若人「なぜ波は山より高い」

2009-02-27 18:45:08 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「なぜ波は山より高い」(「朝日新聞」2009年02月25日夕刊)

 加山又造の「春秋波濤」の鑑賞文。私は仰天してしまった。えっ、そうなの?

 決して、写実的な絵ではない。波に浮かぶ釣り鐘のような山。その頂やすそ野は画面からはみ出し、紅葉に覆われたものも、桜が満開なものもある。そして左方の波高は、山をはるかに超えている。

 うそでしょう。
 私にはそんなふうに見えない。確かに海は山より上にまで広がっている。(私は、ここに描かれているのを「波」ではなく、波がはてしなくうねる「海」と感じた。)でも、これはありふれた風景ではないのか。画家が立っている位置しだいで、こういう風景はいつでも出現する。手前の紅葉の山より高い山に登り、そこから他の山と海をみれば、いつだって水平線は山の上にある。水平線が山の上にあるからと言って、波が山より高いとは言えない。
 山へ登る機会がないなら、海岸近くの(海岸より少し離れた)ビルに上り街を見下ろすといい。街の向こうに海が見えるとき、その海(水平線)はいつでも街より上にある。これは視覚の必然的な現象である。そういう風景を見ても、だれも海が街より高いとは言わない。そういう絵、写真を見ても、誰も海が街より高いとは言わない。
 大西は、この絵を誤解しているのではないか。なぜ、そんなふうに見てしまったのか。大西は、加山の、この絵に対する考えを引用している。引用しながら、次のように書いている。

では、波高が山を超えているのか。加山は「遠くを大きく、近くを小さくするという逆遠近法」によって「波の動静が不思議な空間」を作り、宇宙空間につながると思った、と話している。

この加山の「不思議な空間」を大西はどう理解したのだろうか。波が山より高くなる不思議、と理解したのなら確かに「なぜ波は山より高い」になるかもしれない。しかし、加山はそんなことを言っているのだろうか。加山は、近くと遠くの常識的な区別がなくなる、近く遠くという判断基準が揺らぎ、遠く近くが分からなくなるという「不思議」を語っているのではないか。
遠近法が消えるというのは、その空間が「無限」になるということである。遠近法はあくまで「有限」の世界。有限の世界を規則にのっとって表現する方法である。遠近法では無限は表現できない。遠近法を拒絶することで、無限という不思議な空間(人間は有限の空間しか体験できない)が出現し、それが「宇宙」につながると言っているのではないのか。
波が山より高いのではなく、この絵では波が屏風という枠を超越し(越境し)、どこまでも広がり続けているのである。波が高いから山が飲み込まれのではなく、波がうねる海が無限に広がるので、何もかもがその無限にのみこまれ、同時に、その無限から生まれてくる。山も、月(太陽?)も、その無限の海から生成してくる。そのとき海は海ではなく、あらゆる存在を生成、生み出す宇宙そのものになる。海なのに、海ではなく宇宙――という不思議がこの絵の命なのではないか。




加山又造 美 いのり
加山 又造
二玄社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(9)

2009-02-27 11:10:22 | 田村隆一
 (8)の補足として。

 「再会」の「驟雨!」という1行。それは唐突にあらわれた1行である。そして、それはことばの発見でもある。存在、ものではなく、ことばの発見。世界には存在していたけれど、まだ田村の「肉体」に結びついてなかったことばの発見。
 詩人は、あることがらを発見し、それをことばでつかみ取るのではない。詩人とは、ことばを発見し、それに存在を投げ込むのである。ことばが先に発見されて、そのあと、そんざいがやってくる。物理の世界で言えば、まず論理を発見し、そのあと実証するようなものである。何の世界でも、そういうことがある。論理(ことば)に存在が追いついて来るということが。

僕には性的な都会の窓が見えます

 最初に「性的な都会」(性的な都会の窓)があるわけではない。田村が「性的」ということばをつかったあとで、都会は「性的」になる。ことばは存在をかえるのだ。
 これは、一見すると、理不尽なことかもしれない。存在にあわせてことばが変わるのがふつうかもしれない。しかし、よく考えれば、存在にあわせてことばが変わるということはない。ことばがあって、存在のなかから、あたらしい可能性が引き出されるということしか起こり得ない。それは科学・物理の世界も同じである。素粒子が3つから、4つ、6つへと増えていくのは、そういう論理が先にあるから増えていくのである。論理が6つという可能性を引き出し、それにものが追いついて来るだ。論理が先行しないかぎり、6つの素粒子は存在し得ない。なぜなら、それは「肉眼」では見えないものだからである。見えないものを見えるようにするためには、存在に先だち、ことば、論理が必要なのだ。
 


田村隆一エッセンス
田村 隆一
河出書房新社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柏木麻里「蝶々」

2009-02-27 09:43:31 | 詩(雑誌・同人誌)
柏木麻里「蝶々」(「びーぐる」2、2009年01月20日発行)

 柏木麻里「蝶々」は、柏木スタイルとも言うべき空白意識した作品である。こうした作品は1篇だけ読むのは難しい。ぼんやりした印象はあるのだが、それをどう語っていいかわからない。
 1連目。「1. 」という番号が振ってあり、その番号の振り方を含めて「空白」をつくりだしている。

 1.


きこえることと


きこえないことの


あいだを
こわしてゆく


 「あいだを」というのは、何の間か。「きこえること」と「きこえないこと」の「あいだ」であるのは自明のことなのかもしれない。でも、それは、どこにある? そこには「あいだ」などないのではないか。「きこえる」「きこえない」は接続している。ぴったり、くっついている。鏡の裏と表のように、分離してしまっては、その分類は成り立たない。「聞こえる」とき「聞こえない」ということはない。「聞こえない」とき「聞こえる」ということはない。
 そういう密着したものを、「あいだ」ということばで「こわしてゆく」。それは、「あいだ」をつくりだすというのに等しい。ほんらいありえない「あいだ」を壊すとは、その「あいだ」を、まず意識のうえで認識するということだから。
 ありえないものを、あるものとして、形に、ことばに定着させる。それは意識の運動、認識の問題だから、ほんらい「肉眼」には見えない。
 その見えないものを、あえて、柏木は視覚化している。空白によって。

 空白は、柏木にとって、意識の領域である。意識の広がりをあらわす。空白であるから、それはほんらい見えない。その見えないものの広がりを、柏木は、ちりばめたことばで明らかにする。空白は見えないけれど、ことばは見える。空白は、ことばとことばのあいだにある。ことばにはさまれた部分が空白である。それは、ことばが両脇(?)におかれないかぎり、存在し得ない。
 「きこえること」と「きこえないこと」の「あいだ」と同じように、それは密着している。「聞こえる」のあと、「聞こえない」ことがあって、その後、もう一度「聞こえる」ことがあったとき、はじめて「聞こえない」ことがある。(逆も同じ。)
 そういう分離不能のもののあり方を、柏木は、壊して見せる。分離不能のもののあいだにも、何かがある、と提示して見せる。
 その、ほんらい見えないもの(柏木がことばにしないかぎり見えないもの)を、柏木は、「みなもと」と呼んでいる。
 詩は、つづいていく。

  2.
 







先に
ゆくね



  3.



みなもとだけでできている

 あらゆる存在は、密着している。存在には表裏がある。その表裏をつくりだすちらかが「みなもと」である。今回の詩の「空白」は「蝶」とともに生まれた。だから、「蝶」を「みなもと」と呼ぶのである。
 柏木の詩は、視覚を多用している(空白をはっきり見せている)点で絵画的であるということもできるが、あくまでもそれは「的」であって、絵画ではない。色と面を使ってではなく、ことばで構成されているのだから。
 とはいいながら、ここには濃密な言語と絵画の融合がある。柏木は視力の強い人なのかもしれない。



蜜の根のひびくかぎりに
柏木 麻里
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(8)

2009-02-27 00:48:04 | 田村隆一
 「再会」という作品は、1か所、不思議なところがある。「主語」がかわる。

どこでお逢いしましたか
どこで どこでお逢いしましたか
死と仲のいいお友だち わたしの古いお友だち!

 書き出しの主語は「わたし」である。ところが2連目。

僕には死火山が見えます
僕には性的な都会の窓が見えます
僕には太陽のない秩序が見えます

 と、突然、「僕」が登場する。ふつう、どんな作品でも「わたし」を主語にしたものは「わたし」のままかわらない。「僕」という表現がでてきても、それは「会話」のなかでのやりとりなどであって、地の文では「わたし」のままである。
 この「僕」はしかし、すぐにまた「わたし」にかわる。それだけではなく、ふたたび「僕」にもなる。
 2連目の4行以降は、次のように進む。

わたしの手のなかで乾いて死んだ公園の午後
わたしの歯で砕かれた永遠の夏
わたしの乳房の下で眠つている地球の暗い部分
どこでお逢いしましたか どこで
僕は十七歳の少年でした
僕は都会の裏町を歩き廻つたものでした
驟雨!
僕は肩を叩かれて振り返る
「あなた 地球はザラザラしている!」

 「わたし」と「僕」との関係はどうなっているのだろうか。
 印象的なのは、私の耳には「僕」のことばの方がスピードある。「わたし」のことばはゆったりしているのに対し、「僕」のことばはとても速い。理由のひとつに、「僕」の行は動詞をもっているのに対し、「私」は動詞をもっていないことである。1連目の、引用しなかった部分に「わたしはどこかであなたに囁いたことがある」という動詞をもった行があるが、2連目では「わたし」と動詞は呼応していない。
 「僕」は動くのに、「わたし」は佇んでいる。立ち止まっている。
 ただそれだけではなく、ことば、その音そのものも、「僕」の行でははじけるような輝きがある。「死火山」「性的」「太陽」「秩序」といった漢字熟語が強く響く。一方「わたし」の行では「乾いた」「死んだ」「砕かれた」「眠つている」「くらい」とことばがゆっくり動く。
 わざとつくりだされた対比のようなものが、ここにはある。

 この詩は、「わたし」と「僕」は別人であり、その二人が対話していると読むこともできるが、私には、その二人はほんとうはひとりのように思える。
 ひとりのなかの「わたし」という人間と「僕」という人間が交代し、「わたし」になり、「僕」になり、そのたびにことばの動きがどう変わるか、それを調べながら、楽しんでいる感じがする。
 「わたし」は「僕」に対して「あなた」と呼びかけ、その呼びかけに答える形で「僕」は「わたし」から離れ、軽快にはじける。
 これも、ひとつの対立、矛盾である。
 そういう構造を、田村は「わざと」つくりだしている。そして、その対立のなかで世界を見つめようとしている。

 あるいは、こんなふうに考えることもできる。
 「再会」にとって不可欠なもの--それは「過去」である。「いま」とは違う時間である。かつて、そこにも「いま」はあった。かつての「いま」と、いまここにある「いま」が会うときが再会であり、それは常に「違うもの」と「同じもの」をぶつけ合わせながら動く。
 存在の中には普遍のものと変わりつづけるものが同居している。--それを、ひとりの人間のなかで動かしてみることもできる。

 だが、こんな読み方は、詩にとってはどうでもいいことかもしれない。

驟雨!
僕は肩をたたかれて振り返る

 この「驟雨」の突然の美しさ。それまで、どこにも存在しなかったことばが突然あらわれて、「肩をたたく」ということばのなかで、現実感を獲得する。雨も肩をたたくからね。この、ふいの変化が、すべてを融合させる。再会の一瞬を、「いま」でありながら、「いま」ではないどこかへひっぱっていく。
 「わたし」「ぼく」の関係は? などという、まだるっこしい意識をさらって、視界を洗う。意識がことばになるのではなく、「もの」がことばになり、ことばが「もの」になる。
 意識の運動を超越した何かが、ここにはある。「驟雨!」ということばのなかにある。この詩は、その「驟雨!」ということばのためにこそ書かれたという感じがする。



『詩人からの伝言』 (ダ・ヴィンチブックス)
田村 隆一
リクルート

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする