大西若人「なぜ波は山より高い」(「朝日新聞」2009年02月25日夕刊)
加山又造の「春秋波濤」の鑑賞文。私は仰天してしまった。えっ、そうなの?
うそでしょう。
私にはそんなふうに見えない。確かに海は山より上にまで広がっている。(私は、ここに描かれているのを「波」ではなく、波がはてしなくうねる「海」と感じた。)でも、これはありふれた風景ではないのか。画家が立っている位置しだいで、こういう風景はいつでも出現する。手前の紅葉の山より高い山に登り、そこから他の山と海をみれば、いつだって水平線は山の上にある。水平線が山の上にあるからと言って、波が山より高いとは言えない。
山へ登る機会がないなら、海岸近くの(海岸より少し離れた)ビルに上り街を見下ろすといい。街の向こうに海が見えるとき、その海(水平線)はいつでも街より上にある。これは視覚の必然的な現象である。そういう風景を見ても、だれも海が街より高いとは言わない。そういう絵、写真を見ても、誰も海が街より高いとは言わない。
大西は、この絵を誤解しているのではないか。なぜ、そんなふうに見てしまったのか。大西は、加山の、この絵に対する考えを引用している。引用しながら、次のように書いている。
この加山の「不思議な空間」を大西はどう理解したのだろうか。波が山より高くなる不思議、と理解したのなら確かに「なぜ波は山より高い」になるかもしれない。しかし、加山はそんなことを言っているのだろうか。加山は、近くと遠くの常識的な区別がなくなる、近く遠くという判断基準が揺らぎ、遠く近くが分からなくなるという「不思議」を語っているのではないか。
遠近法が消えるというのは、その空間が「無限」になるということである。遠近法はあくまで「有限」の世界。有限の世界を規則にのっとって表現する方法である。遠近法では無限は表現できない。遠近法を拒絶することで、無限という不思議な空間(人間は有限の空間しか体験できない)が出現し、それが「宇宙」につながると言っているのではないのか。
波が山より高いのではなく、この絵では波が屏風という枠を超越し(越境し)、どこまでも広がり続けているのである。波が高いから山が飲み込まれのではなく、波がうねる海が無限に広がるので、何もかもがその無限にのみこまれ、同時に、その無限から生まれてくる。山も、月(太陽?)も、その無限の海から生成してくる。そのとき海は海ではなく、あらゆる存在を生成、生み出す宇宙そのものになる。海なのに、海ではなく宇宙――という不思議がこの絵の命なのではないか。
加山又造の「春秋波濤」の鑑賞文。私は仰天してしまった。えっ、そうなの?
決して、写実的な絵ではない。波に浮かぶ釣り鐘のような山。その頂やすそ野は画面からはみ出し、紅葉に覆われたものも、桜が満開なものもある。そして左方の波高は、山をはるかに超えている。
うそでしょう。
私にはそんなふうに見えない。確かに海は山より上にまで広がっている。(私は、ここに描かれているのを「波」ではなく、波がはてしなくうねる「海」と感じた。)でも、これはありふれた風景ではないのか。画家が立っている位置しだいで、こういう風景はいつでも出現する。手前の紅葉の山より高い山に登り、そこから他の山と海をみれば、いつだって水平線は山の上にある。水平線が山の上にあるからと言って、波が山より高いとは言えない。
山へ登る機会がないなら、海岸近くの(海岸より少し離れた)ビルに上り街を見下ろすといい。街の向こうに海が見えるとき、その海(水平線)はいつでも街より上にある。これは視覚の必然的な現象である。そういう風景を見ても、だれも海が街より高いとは言わない。そういう絵、写真を見ても、誰も海が街より高いとは言わない。
大西は、この絵を誤解しているのではないか。なぜ、そんなふうに見てしまったのか。大西は、加山の、この絵に対する考えを引用している。引用しながら、次のように書いている。
では、波高が山を超えているのか。加山は「遠くを大きく、近くを小さくするという逆遠近法」によって「波の動静が不思議な空間」を作り、宇宙空間につながると思った、と話している。
この加山の「不思議な空間」を大西はどう理解したのだろうか。波が山より高くなる不思議、と理解したのなら確かに「なぜ波は山より高い」になるかもしれない。しかし、加山はそんなことを言っているのだろうか。加山は、近くと遠くの常識的な区別がなくなる、近く遠くという判断基準が揺らぎ、遠く近くが分からなくなるという「不思議」を語っているのではないか。
遠近法が消えるというのは、その空間が「無限」になるということである。遠近法はあくまで「有限」の世界。有限の世界を規則にのっとって表現する方法である。遠近法では無限は表現できない。遠近法を拒絶することで、無限という不思議な空間(人間は有限の空間しか体験できない)が出現し、それが「宇宙」につながると言っているのではないのか。
波が山より高いのではなく、この絵では波が屏風という枠を超越し(越境し)、どこまでも広がり続けているのである。波が高いから山が飲み込まれのではなく、波がうねる海が無限に広がるので、何もかもがその無限にのみこまれ、同時に、その無限から生まれてくる。山も、月(太陽?)も、その無限の海から生成してくる。そのとき海は海ではなく、あらゆる存在を生成、生み出す宇宙そのものになる。海なのに、海ではなく宇宙――という不思議がこの絵の命なのではないか。
加山又造 美 いのり加山 又造二玄社このアイテムの詳細を見る |