詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スティーヴン・ソダーバーグ監督「チェ 39歳別れの手紙」(★★★★)

2009-02-06 22:10:01 | 映画

監督 スティーヴン・ソダーバーグ 出演 ベニチオ・デル・トロ、ヨアキム・デ・アルメイダ、エルビラ・ミンゲス

 とても不思議な映画である。
 その不思議さに圧倒される。何が不思議かというと、これはチェ・ゲバラがキューバ革命のあと忽然と姿を消して何をしていたかを描いているのだが、多くの映画が持っているストーリーがこの映画にはないのである。いや、ボリビアに行ってゲリラ革命を試みるが失敗するというストーリーがあると言えば言えるけれど、それってストーリー? チェたちはただひたすらボリビアのジャングルを逃走する。一度も勝利をおさめない。最後は銃殺されてしまう。それをまるでドキュメンタリーのように描いている。いわゆるカタルシスというものがない。「事件」が解決しない。チェが革命に失敗し、殺される。そんな「ストーリー」でほんとうに映画になるのか。
 ところが、どこをとってみても映画なのである。女性闘士が尾行されるシーンのカメラの動き、追いかける男たちの入れ代わり立ち代わりのリズムというような、ごく一般的な映像はもちろんだが、圧倒的なのはボリビアのジャングルである。その緑である。そして、チェたちの汗である。疲労である。ボリビア国軍に追いつめられ、どんどん山奥へ逃げる。その逃げるシーンのほとんどがチェたちしか映していないのに、迫ってくるボリビア国軍を感じさせる。それだけ、ベニチオ・デル・トロら、出演者の肉体の緊張感が真に迫っているということなのだが、それだけではなく、ジャングルの生々しい緑の力も影響していると思う。生い茂る木々はチェたちを隠す。同時に、チェたちの動きを阻む。つまり、チェたちの行動とは無関係にそこに存在し、平然としている。その敵か味方かわからない存在感をカメラはしっかり捉えている。しかも、とても美しく捉えている。自然は美しい。美しいけれど非情である。緑だけではない。山の傾斜も、岩も、川も、みんな非情である。無関心のまま、非情で美しい。この美しさは、たぶん映画でないと表現できない。ことばになるまえの、ことばをもたないいのちの非情な美しさなのである。
 それはどこか、チェたちが革命をとおして解放しようとした農民たちの姿にも似ている。彼らはチェたちも保護するけれど、裏切りもする。助けもするけれど、国軍に売り渡しもする。味方であり、同時に敵である。そして、また美しい。つましく自分たちの生活といのちを守って、そこから動かない。まるで野生の樹木や草花のようである。どんなにチェたちを裏切っても、その姿はけっして卑しくはない。彼らはチェたちを裏切っているのではなく、ただ自分のいのちを守っているだけなのである。そういう、なまの、自己完結の美しさ。
 こういうい自己完結している人間に対して、革命の必要性を説くのはむずかしい。それでも、そういうその敵か味方かわからない人間に対して革命の必要性を解き、また彼らからの質問にも真摯に答える。そういうことをしながら、ジャングルの奥へ奥へと逃走する。負傷した仲間もけっして見捨てない。革命だけが、ほんとうにチェの「思想」なのである。革命をつらぬく人間の真摯な生き方がチェの思想なのである。いのちのあるものをけっして見捨てず、そのいのちが一番輝くのはどういうときなのかだけを追い求める。それが、ことばではなく「肉体」として伝わってくる。そういう「肉体」を映画は延々と、何の説明もせずに、ただスクリーンに映し出す。
 「28歳の革命」では「ことば」が大きな力を発揮していたが、この映画では「肉体」そのもので語りつづけている。何度か、仲間同士が出会い、「生きていたのか」と確かめあい、抱擁するシーンがあるが、そのときの、相手をしっかりと抱きしめる強さ--その肉体の抱擁の強さを信じて、そのまま野生のジャングルにも向き合えば、ひっそりとくらす農民とも向き合う。当然、国軍とも向き合う。敵であるけれど、単に敵としてではなく、生きているいのち、人間として、向き合う。
 処刑の寸前。チェが若い兵士とふたりだけになる。若い兵士はチェの姿に同情し、思わず「煙草を吸うか」と差し出す。チェはその好意をすなおに受ける。そのときの、不思議な交流。直接ふれあうわけではないが、若い兵士は不思議な力を感じて、いのちを感じて、思わずそんな反応をするのだが、そういうことが自然に見えるベニチオ・デル・トロの演技力。人間の力。--ここがこの映画のハイライトである。チェは煙草をくれた兵士に、「縄をといてくれ」と頼む。この素朴な依頼。そのことば。そして、それがあまりにも素朴であるために、兵士はためらってしまう。この瞬間の美しさ。人間にはそれぞれ与えられた責務がある。若い兵士はチェが逃亡しないように見張りをしている。それが仕事なのに、その仕事をしている兵士に対してチェは手足を解放してくれと頼む。その声が、そして実際に兵士にまっすぐに届いてしまう。
 チェは誰に対しても、まっすぐにことばを届けてきた。ゲリラから脱落しようとする仲間に対しても、まっすぐに向き合い、脱落することは許されないという理由をまっすぐに語る。ことばだけではなく、ほんとうに「肉体」として向き合う。ジャングルは、もともと素裸のチェをよりいっそう裸にした。無防備にした。そして、その自然のなかで、たしかに輝いたのだということが納得できる映画である。


 
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梅田智江『梅田智江詩集』(3)

2009-02-06 10:55:18 | 詩集
梅田智江『梅田智江詩集』(3)(右文書院、2008年08月15日発行)

 梅田智江の詩集のなかで、『変容記』は変わった詩集である。形式的には「散文詩」という形をとっている。そして、それは多くの散文詩がそうであるようになにごとかの「物語」を含んでいる。梅田智江は正直な詩人だが、その正直さだけでは語れないものがあることに気がついたのかもしれない。
 正直さだけでは語れないもの--正直には語れないもの。それを、ひとはときに「秘密」と呼ぶ。そして、ひとは「秘密」によって他人と切り離され、独立する。「秘密」の存在によって、悲しみと悦びを手に入れる。矛盾した存在になる。「秘密」とは、他人から見れば「謎」でもある。「謎」によって人間は完成する。そして、不思議なことに(あるいは不思議ではなく、当然のことなのかもしれないけれど)、その「謎」はほんとうは本人にとっても「謎」なのである。「謎」であるからこそ、「秘密」にするしかない。そして、「謎」であるにもかかわらず、「謎」の答えは、それぞれのひとがそれぞれに知っている。本能的に知っている。そして、その知っていることを、疑いつつ、ほんとうなんだろうか、とさらにその「謎」へ分け入っていく。確かめるために生きる。そういう「確かめる」という運動を私は「正直」と呼ぶのだが、この運動には矛盾がある。「正直」には語れないものを、その「秘密」(謎)を語りつづけることが「正直」であるという矛盾が……。
 だが、矛盾でしか語れないものがある。人間は矛盾しているのだから--としか、私には、いえないのだけれど。

 「誕生」は次のようにはじまる。

 深い山の奥の、その谷間に、紺碧の天を映し、鏡のように光る湖がある。岸には、いちめんに曼珠沙華の花なども咲いて、ひもじい女だけが知っている湖がある。

 「秘密」を梅田はここでは「女だけが知っている」と書いている。「秘密」とはそのひとだけが知っていることである。ほかのひとは知らない。
 梅田は(梅田の描く女は)、その「秘密」のなかへ分け入っていく。

 透明なある朝、女は湖水のまんなかに、小さな舟を出す。舟のなかで、素裸となってそべり、その真っ青な天にうっとりと見入るのだ。--誰も知らない。辺りは森閑として、このまま千年がたってもおかしくはない深い谷で。やがて、太陽は金色の毬となって、宙天にかかり、山を温め、女の白い肉体も柔らかくなる。小舟のなかから見上げると、ゆらゆらと燃える太陽だけしかみえなくて、太陽は女だけのものになる。誰も知らない。女だけの太陽になる。

 「秘密」のなかで、女は誰も知らないことをする。「素裸となってそべり、その真っ青な天にうっとりと見入る」。そうすると、女が変わりはじめる。「女の白い肉体も柔らかくなる。」この変化はとても重要である。太陽にあたためられて肉体がやわらかくなるというようなことは、ごくふつうのようなことのようであるけれど、ここに書かれている「柔らかくなる」の「なる」はとても重要である。「なる」とはある存在が、それまでとは違ったもの(状態)へと変わってしまうことである。そうすると、それにあわせて女だけではなく、まわりも変わっていく。「太陽は女だけのものになる。」これは、女の意識のなかでの変化ではない。実際に、太陽そのものが、おんなだけのものに「なる」のである。ほかのひとからは見えない。ほかのひとは気がつかいな。--誰も知らない。
 「秘密」の世界へ分け入れば分け入るほど、誰も知らない存在になる。そして、誰も知らないはずだけれど、それは不思議なことに誰もが知っている愉悦と結びついている。誰も知らないことを「正直」に語るとき、それはそれぞれが実感している「誰も知らない」こととぶつかり、そこで誰彼の区別がなく、融合してしまう。「秘密」を書けば書くほど、そこには梅田の「秘密」ではなく、読者の「秘密」が立ち上がってくる。読者の「秘密」が、人間の「秘密」が明るみに出てくる。

 そのとき、太陽は遥かな永遠の高みから、その巨大な光の男根を、ひとすじ、虹のように降ろして、女の露な女陰を射し貫いた。女の子宮は、一瞬にして鋭く立ち上がり、たちまちのうちに妊んでしまった。
 小舟は、太陽に射し貫かれた女を乗せて、空中へと浮揚していった。それからぴたりと、そのまま止まった。しどけなく深い眠りに溶けている女。疲労に皺よって、太陽も山の端に落ちていった。
 いつしか、小舟は中空に宙吊りになったまま、皓々と月光に濡れている。女の白い肉体も、闇に浮かんで。
 --誰もしらない。このまま千年がたってもおかしくはない深い谷で。眠る女の股間から、毬のような赤い卵が産まれた。闇と光にみがかれて、卵はくっきりと曼珠沙華のように赤く輝いていた。

 もう、女は何になったのか、わからない。太陽になり、月になり、卵になり、曼珠沙華になる。つまり、すべてになる。女が「秘密」の奥に分け入り、そこで「正直」になるとき、女を女としてしばっていたものがすべて溶解し、女はあらゆるものに「なる」。そのときそのとき、そこにあるものに「なる」。すべての存在と溶け合って、そのすべてに「なる」。つまり、「いのち」になる。「いのち」の運動になる。
 なぜ、そんなことが起きるのか。それこそ「謎」である。「謎」であるけれど、そうなってしまうことは、「謎」ではなく、「謎」を超越した「実感」である。
 私たちは「謎」を解くことはできない。しかし、「実感」はそれを超越していて、それに従うしかないのだ。「実感」に、どこまでもどこまでも従うことを「正直」という。

 こういうとき、つまりすべての存在の「枠」が消えて、そのつど何かに「なる」というとき、そこでは「時間」も消えてしまう。「このまま千年がたってもおかしくない」とは、そういう感覚のことである。それを別なことばでは「永遠」ともいう。
 「実感」と「正直」--それが結びついたとき、永遠があらわれるのである。

 そういうものを書くために、梅田は、この詩集『変容記』では、あえて「嘘」を導入している。「正直」とは反対のものを「秘密」という名前で書き進めている。深い山奥の谷に湖がある、というのは「嘘」である。そんなものなど誰も見たことがない。地図にはのっていない。グーグルの航空写真にも写ってはいない。そういう「嘘」を「秘密」「謎」(誰も知らないもの)として捉えなおし、その「謎」へ、「正直」に分け入っていく。そういうことをするために、「散文形式」が必要だったのである。
 「散文形式」は、この詩集の場合、必然なのである。

 梅田智江の詩集を一冊選べと言われたら、私はためらいなく『変容記』を選ぶ。




梅田智江詩集
梅田 智江
右文書院

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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(6)中井久夫訳

2009-02-06 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
必要な絶叫    リッツォス(中井久夫訳)

おおよその時刻と光と色を決めなければ。
夜だ。馬車が樽を積んで通る。
車輪の一つが石膏の作品を砕く。
壁のつぎ目にひびが入る。窓ガラスの背後に
見えるのは向うの壁に白いキッチン、冷蔵庫、
老人の裸足。それから浴室の灯が消える。
カーテンがひかれる。女中が林檎を盛ったボウルをバルコンに出す。
蓄音機が鳴ってる。関係ないもの、
対照性のないものの中から選べるか。
ついに金切り声が聞こえて、ナイフが木のテーブルに突き立てられ、
紙ナプキンを突き刺した。
ナプキンには鮮やかな上下の唇の紅。
こうなると話は別だ。



 この作品も映画の1シーンのようである。そういう作品をめざしているのだろう。そして、1行目は、そういう「わざと」を明確にしている。事実を書くのではなく、フィクションとしてのことば。ある瞬間をそのまま描くのではなく、あることを書くために、「時刻」をきめる。そして、基調となる色をきめる。そこから映画をつくるように、詩をつくる。
 暗い夜の街の全景。通りの奥から馬車があらわれる。近づいてくる。車輪のアップ。たがしカメラが近づいて行くのではなく、車輪が近づいてきてアップになる。その車輪をおうようにしてカメラは動き、石膏の作品(彫像?)が砕かれるアップ。そこでカメラは止まる。馬車が通りすぎて、道の向こうに壁。窓。そして窓の奥にはキッチン。カメラは窓に近づいていき、キッチンを映しながら戸外から室へと移動していく。
 説明はなく、せりふもなく、ただ「もの」だけを映しながら。そうして、観客が自分で「ストーリー」を組み立てるのを待っている。老人が動き、女中が動き、音楽が流れる。その音楽を切り裂くようにして、かなきり声。
 突然、ナイフのアップ。紙ナプキンのアップ。ナプキンに残された口紅、唇の形のアップ。女は映らない。映ったとしても、スカートや足だけ。顔は映さない。

 リッツォスの詩の特徴(物語の特徴)は、そこに「顔」がないことだとも言える。ひとは登場する。けれども、特別な顔を持っていない。名前をもっていない。不特定多数のひとりとして登場する。名前、顔がないので、抽象的な感じがする。具体的な描写にもかかわらず、とても抽象的な印象が残る。そして、その抽象性が、一種の孤独を感じさせる。余分なものをそぎおとして、とても清潔な印象残す。
 読者は、ただ動きを見るだけである。動き、運動のなかにリッツォスは詩を感じているのだと思う。


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