鈴木絹代『ありがとう』(編集工房ノア、2008年12月17日発行)
鈴木絹代『ありがとう』の巻頭の「小春日和」を、何度も読み返してしまった。
きのう読んだ近江順子の詩が「現代詩」と呼ばれるなら、鈴木の作品は「現代詩」の範疇からはずれるかもしれない。
「自覚」に差がある。
近江の作品には、「十四世紀の自分は下女で」というように、「私」を「私」から切り離して見つめるという視点があった。そうした視点はことばそきものへの態度でもある。「いま」「ここ」にあることば、それをいったん「いま」「ここ」から切り離して、ことば自体の可能性を探る。ことばにどんな運動ができるかを常に意識する。ことばが運動するとき、世界はどうかわるかを意識的に考える。「わざと」そういうことを考える。その「わざと」のなかに、詩がある。
鈴木の作品には、この「わざと」がない。「わざと」書くものが詩であるという「自覚」がない。だから、「現代詩」ではない。
鈴木は逆に「わざと」を除外して書く。ことばを書いているという意識を取り払う。そして、実際に、それが消える一瞬がある。そのとき、そこに鈴木の詩があらわれる。
2連目の最後の行「どこまで飛ぶんだろうね」。
これは誰のことばだろうか。男の子は綿毛を吹いているので、もちろんことばはしゃべらない。お母さんだろうか。私には、鈴木の「声」に聴こえる。
こどもがタンポポの綿毛を夢中で吹いている。たぶん、何も考えていない。息を吹きかけると綿毛が飛ぶというそのことに夢中になっている。自分の息で何かが変わるということに夢中になっているで、何も考えない。お母さんが何か言っているなんてことも考えない。お母さんも何も考えてはいない。写真は撮った。満足している。「もういいよ」と言ったのに、こどもはまだ綿毛を吹いている。そのことに、ちょっとあきれているかもしれない。でも、どう言っていいか、わからない。「もういいよ、って言ったでしょ」と言えば、怒りん坊のお母さんになってしまう、くらいのことは考えるかもしれないが……。
いま、男の子とお母さんは、ことばを放棄した状態でいる。
そして、それを見ている鈴木が、ふたりのかわりに「ことば」でふたりを、「いま」「ここ」ではない別の場所へ運ぶのだ。
と、男の子の動作をことばで正確においかけ、一体になる。男の子になってしまう。そして、男の子のなかの、まだ、ことばになっていない思いを「どこまで飛ぶんだろうね」ということばですくいあげる。輝かせる。それから、それを鈴木自身のことばとしてではなく、お母さんに託して、こころのなかで言ってみる。お母さんに言わせてみる。
「どこまで飛ぶんだろうね」。そのとき、そのことばのなかで男の子とお母さんは一体になる。この一体感は鈴木が作り上げたものだけれど、それを自分が作り上げたという気持ちを捨てて、いま、目の前にあるものとして受け止め、その「一体感」のなかへ鈴木も入れてもらう。
「どこまで飛ぶんだろうね」は鈴木の「声」だが、それは「タンポポの綿毛を飛ばして遊ぶ仲間に入れてね」と言うべきところを、別のことばで言い換えたのだ。それは、挨拶であり、感謝だ。あくまで、男の子とお母さんの世界に入れてもらう、いっしょに楽しませてもらうという気持ちが、この「一体感」を生み出している。
鈴木が男の子とお母さんの世界と一体になるとき、公園そのものも男の子とお母さんと一体になる。それが「午後の公園も笑って見ている」という至福の1行になる。飛んでいるタンポポの綿毛だって一体になっているはずである。
鈴木にとって、ことばは「批評」の対象ではない。鈴木にとって、ことばは、挨拶するための方法であり、感謝をするための道具である。挨拶と感謝--それが鈴木の思想(生き方)であり、それがことばのなかで固く結びついている。
鈴木は、安水稔和のもとで詩を勉強しているひとのようだけれど、安水は、鈴木のような文学上の「わざと」から遠い詩人きちんとを育てる。文学上の「わざと」ではなく、くらし、生活のなかの「わざと」をていねいに生きているひとを大切にしている。「綿毛飛ばしの仲間に入れてね」と言えば、男の子とお母さんをびっくりさせる。そういうびっくりさせることばのかわりに、鈴木は「どこまで飛ぶんだろうね」と「わざと」こころのなかで共感のことばをつぶやく。その暮らしの智恵--その温かさ。そういうものを大切にしている。そういうものを大切にする視線があるから、安水のもとで何人もの詩人が育つのだと思う。
鈴木絹代『ありがとう』の巻頭の「小春日和」を、何度も読み返してしまった。
小さな男の子が
タンポポの綿毛を
ふーと吹いている
それをお母さんが
写真にとっている
もういいよ
とお母さんが言っているが
男の子には聞こえない
なんども
なんども
ふー
ふー
と吹いている
どこまで飛ぶんだろうね
午後の公園も笑って見ている
きのう読んだ近江順子の詩が「現代詩」と呼ばれるなら、鈴木の作品は「現代詩」の範疇からはずれるかもしれない。
「自覚」に差がある。
近江の作品には、「十四世紀の自分は下女で」というように、「私」を「私」から切り離して見つめるという視点があった。そうした視点はことばそきものへの態度でもある。「いま」「ここ」にあることば、それをいったん「いま」「ここ」から切り離して、ことば自体の可能性を探る。ことばにどんな運動ができるかを常に意識する。ことばが運動するとき、世界はどうかわるかを意識的に考える。「わざと」そういうことを考える。その「わざと」のなかに、詩がある。
鈴木の作品には、この「わざと」がない。「わざと」書くものが詩であるという「自覚」がない。だから、「現代詩」ではない。
鈴木は逆に「わざと」を除外して書く。ことばを書いているという意識を取り払う。そして、実際に、それが消える一瞬がある。そのとき、そこに鈴木の詩があらわれる。
2連目の最後の行「どこまで飛ぶんだろうね」。
これは誰のことばだろうか。男の子は綿毛を吹いているので、もちろんことばはしゃべらない。お母さんだろうか。私には、鈴木の「声」に聴こえる。
こどもがタンポポの綿毛を夢中で吹いている。たぶん、何も考えていない。息を吹きかけると綿毛が飛ぶというそのことに夢中になっている。自分の息で何かが変わるということに夢中になっているで、何も考えない。お母さんが何か言っているなんてことも考えない。お母さんも何も考えてはいない。写真は撮った。満足している。「もういいよ」と言ったのに、こどもはまだ綿毛を吹いている。そのことに、ちょっとあきれているかもしれない。でも、どう言っていいか、わからない。「もういいよ、って言ったでしょ」と言えば、怒りん坊のお母さんになってしまう、くらいのことは考えるかもしれないが……。
いま、男の子とお母さんは、ことばを放棄した状態でいる。
そして、それを見ている鈴木が、ふたりのかわりに「ことば」でふたりを、「いま」「ここ」ではない別の場所へ運ぶのだ。
なんども
なんども
ふー
ふー
と吹いている
と、男の子の動作をことばで正確においかけ、一体になる。男の子になってしまう。そして、男の子のなかの、まだ、ことばになっていない思いを「どこまで飛ぶんだろうね」ということばですくいあげる。輝かせる。それから、それを鈴木自身のことばとしてではなく、お母さんに託して、こころのなかで言ってみる。お母さんに言わせてみる。
「どこまで飛ぶんだろうね」。そのとき、そのことばのなかで男の子とお母さんは一体になる。この一体感は鈴木が作り上げたものだけれど、それを自分が作り上げたという気持ちを捨てて、いま、目の前にあるものとして受け止め、その「一体感」のなかへ鈴木も入れてもらう。
「どこまで飛ぶんだろうね」は鈴木の「声」だが、それは「タンポポの綿毛を飛ばして遊ぶ仲間に入れてね」と言うべきところを、別のことばで言い換えたのだ。それは、挨拶であり、感謝だ。あくまで、男の子とお母さんの世界に入れてもらう、いっしょに楽しませてもらうという気持ちが、この「一体感」を生み出している。
鈴木が男の子とお母さんの世界と一体になるとき、公園そのものも男の子とお母さんと一体になる。それが「午後の公園も笑って見ている」という至福の1行になる。飛んでいるタンポポの綿毛だって一体になっているはずである。
鈴木にとって、ことばは「批評」の対象ではない。鈴木にとって、ことばは、挨拶するための方法であり、感謝をするための道具である。挨拶と感謝--それが鈴木の思想(生き方)であり、それがことばのなかで固く結びついている。
鈴木は、安水稔和のもとで詩を勉強しているひとのようだけれど、安水は、鈴木のような文学上の「わざと」から遠い詩人きちんとを育てる。文学上の「わざと」ではなく、くらし、生活のなかの「わざと」をていねいに生きているひとを大切にしている。「綿毛飛ばしの仲間に入れてね」と言えば、男の子とお母さんをびっくりさせる。そういうびっくりさせることばのかわりに、鈴木は「どこまで飛ぶんだろうね」と「わざと」こころのなかで共感のことばをつぶやく。その暮らしの智恵--その温かさ。そういうものを大切にしている。そういうものを大切にする視線があるから、安水のもとで何人もの詩人が育つのだと思う。