詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木絹代『ありがとう』

2009-02-20 10:48:21 | 詩集
鈴木絹代『ありがとう』(編集工房ノア、2008年12月17日発行)

 鈴木絹代『ありがとう』の巻頭の「小春日和」を、何度も読み返してしまった。

小さな男の子が
タンポポの綿毛を
ふーと吹いている
それをお母さんが
写真にとっている

もういいよ
とお母さんが言っているが
男の子には聞こえない
なんども
なんども
ふー
ふー
と吹いている
どこまで飛ぶんだろうね

午後の公園も笑って見ている

 きのう読んだ近江順子の詩が「現代詩」と呼ばれるなら、鈴木の作品は「現代詩」の範疇からはずれるかもしれない。
 「自覚」に差がある。
 近江の作品には、「十四世紀の自分は下女で」というように、「私」を「私」から切り離して見つめるという視点があった。そうした視点はことばそきものへの態度でもある。「いま」「ここ」にあることば、それをいったん「いま」「ここ」から切り離して、ことば自体の可能性を探る。ことばにどんな運動ができるかを常に意識する。ことばが運動するとき、世界はどうかわるかを意識的に考える。「わざと」そういうことを考える。その「わざと」のなかに、詩がある。
 鈴木の作品には、この「わざと」がない。「わざと」書くものが詩であるという「自覚」がない。だから、「現代詩」ではない。

 鈴木は逆に「わざと」を除外して書く。ことばを書いているという意識を取り払う。そして、実際に、それが消える一瞬がある。そのとき、そこに鈴木の詩があらわれる。
 2連目の最後の行「どこまで飛ぶんだろうね」。
 これは誰のことばだろうか。男の子は綿毛を吹いているので、もちろんことばはしゃべらない。お母さんだろうか。私には、鈴木の「声」に聴こえる。
 こどもがタンポポの綿毛を夢中で吹いている。たぶん、何も考えていない。息を吹きかけると綿毛が飛ぶというそのことに夢中になっている。自分の息で何かが変わるということに夢中になっているで、何も考えない。お母さんが何か言っているなんてことも考えない。お母さんも何も考えてはいない。写真は撮った。満足している。「もういいよ」と言ったのに、こどもはまだ綿毛を吹いている。そのことに、ちょっとあきれているかもしれない。でも、どう言っていいか、わからない。「もういいよ、って言ったでしょ」と言えば、怒りん坊のお母さんになってしまう、くらいのことは考えるかもしれないが……。
 いま、男の子とお母さんは、ことばを放棄した状態でいる。
 そして、それを見ている鈴木が、ふたりのかわりに「ことば」でふたりを、「いま」「ここ」ではない別の場所へ運ぶのだ。

なんども
なんども
ふー
ふー
と吹いている

 と、男の子の動作をことばで正確においかけ、一体になる。男の子になってしまう。そして、男の子のなかの、まだ、ことばになっていない思いを「どこまで飛ぶんだろうね」ということばですくいあげる。輝かせる。それから、それを鈴木自身のことばとしてではなく、お母さんに託して、こころのなかで言ってみる。お母さんに言わせてみる。
 「どこまで飛ぶんだろうね」。そのとき、そのことばのなかで男の子とお母さんは一体になる。この一体感は鈴木が作り上げたものだけれど、それを自分が作り上げたという気持ちを捨てて、いま、目の前にあるものとして受け止め、その「一体感」のなかへ鈴木も入れてもらう。
 「どこまで飛ぶんだろうね」は鈴木の「声」だが、それは「タンポポの綿毛を飛ばして遊ぶ仲間に入れてね」と言うべきところを、別のことばで言い換えたのだ。それは、挨拶であり、感謝だ。あくまで、男の子とお母さんの世界に入れてもらう、いっしょに楽しませてもらうという気持ちが、この「一体感」を生み出している。
 鈴木が男の子とお母さんの世界と一体になるとき、公園そのものも男の子とお母さんと一体になる。それが「午後の公園も笑って見ている」という至福の1行になる。飛んでいるタンポポの綿毛だって一体になっているはずである。 

 鈴木にとって、ことばは「批評」の対象ではない。鈴木にとって、ことばは、挨拶するための方法であり、感謝をするための道具である。挨拶と感謝--それが鈴木の思想(生き方)であり、それがことばのなかで固く結びついている。

 鈴木は、安水稔和のもとで詩を勉強しているひとのようだけれど、安水は、鈴木のような文学上の「わざと」から遠い詩人きちんとを育てる。文学上の「わざと」ではなく、くらし、生活のなかの「わざと」をていねいに生きているひとを大切にしている。「綿毛飛ばしの仲間に入れてね」と言えば、男の子とお母さんをびっくりさせる。そういうびっくりさせることばのかわりに、鈴木は「どこまで飛ぶんだろうね」と「わざと」こころのなかで共感のことばをつぶやく。その暮らしの智恵--その温かさ。そういうものを大切にしている。そういうものを大切にする視線があるから、安水のもとで何人もの詩人が育つのだと思う。



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『田村隆一全詩集』を読む(1)

2009-02-20 00:28:26 | 田村隆一
 田村隆一を読んでみようと思った。断片的に読んだことはあるが継続的に読んだことかなかったからだ。テキストは『田村隆一全詩集』(思潮社、2000年08月26日発行)。どんな田村隆一に出会えるのか、見当がつかないが、書きはじめることにする。

 「幻を見る人」。書き出しの3連が緊張感に満ちている。

空から小鳥が堕ちてくる
誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために
野はある

窓から叫びが聴えてくる
誰もいない部屋で射殺されたひとつの叫びのために
世界はある

空は小鳥のためにあり 小鳥は空からしか堕ちてこない
窓は叫びのためにあり 叫びは窓からしか聴えてこない

 この詩には矛盾がある。「ある」と断定されているものが矛盾している。
 小鳥のためには「野」と「空」がある。それは同時には存在し得ない。小鳥が死ぬとき野があり、小鳥が生きるとき空がある。生から死への、いのちの運動が野と空を隔て、またつなぐ。
 叫びにとっての「窓」と「世界」も同じである。
 いきるということ、いのちというものは、そういう矛盾をつなぐ運動そのものを指しているのだろう。
 その運動を、ことばで追跡したものが田村にとっての詩ということになるのかもしれない。

 この詩には矛盾がある--矛盾が詩である。「ある」と同じように強い断定で「ない」ということばが使われている。「堕ちてこない」「聴えてこない」の「ない」である。
 ことばは「ある」(生)から「ない」(死)へと動く。そのふたつの対立する何かを結ぶ力が、田村の詩なのだと思う。

 この詩の4連目も魅力的だ。

どうしてそうなのかわたしには分らない
ただどうしてそうなのかをわたしは感じる

 ここにも「分からない」という否定と、「感じる」という肯定が向き合う。
 田村にとっては、相対立するものが向き合うこと、矛盾することの「あいだ」を行き来する運動が大切なのだ。そういう運動を活発化させるために、相対立するもの、矛盾を選び取るのかもしれない。


 

田村隆一全詩集
田村 隆一
思潮社

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