詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井上瑞貴「雨が聞こえているのか」、藤維夫「眼の空」

2009-02-25 09:29:31 | 詩(雑誌・同人誌)
井上瑞貴「雨が聞こえているのか」、藤維夫「眼の空」(「SEED」18、2009年02月10日発行)

 井上瑞貴「雨が聞こえているのか」は「き」の音、母音「い」の音が印象に残る。

遠くから見える木々が立っている
それきりの踏切を父子は横切る
影になって
ふいに腕をからめてくる子どものちいさな情感には
さらに遠くの木々が立っている
雨が聞こえているのか

 実在の「遠くから見える木々」と、子どもの「情感」のなかの木々。そのふたつの木々のあいだで音が響きあい、音楽になるように、くりかえされる「き」、それと母音の「い」が楽しい。
 ただ、この音楽を井上が意識的に書いているのかどうか、私にはよくわからない。

影になって

 この唐突な、揺らぎを拒絶した1行は、どうしてなのだろう。次の1行が長いから、そのまえに短く息を吐いて、その分だけ吸い込む息を多くした--そのための準備?
 私の耳には、この1行がなじまない。
 次の1行をゆったり響かせたいのなら響かせたいで、「影になって」という短さで辻褄をあわせるのではなく、弱音で長く、低音で長くという方法はとれなかっただろうか。
 もし、低音で長く長くうねる響きだったら、最後の部分、

聞こえているのか
私たちのてのひらには
一度だけ結ばれた記憶に降る雨が
このときも聞こえているのか

 この「てのひら」の感じとしっかりつながるのになあ、と思った。音が揺らいで、肉体のなかを通る。それにあわせて、記憶が肉体になる。そういう予感がするのだけれど。



 藤維夫「眼の空」は視線の動きが「春」を感じさせる。素早くて軽い。そして、ちょっと冷たい。あたたかい風と冷たい風がまじって肉体を刺激するときの、春独特の印象がある。

早朝 詩が行ってしまう
どことてない眼の空
遠くまで追って行く
波の声につづいて
切り立った崖を登りながら

 「眼の空」とは不思議な言い方である。空を見ている、その眼。その眼と空が一体になる。一体になるから、どんな距離でもすばやく動くのだ。どこまで行っても、そこは「眼」なのだから、移動に時間がかかならい。そういう速さがこの詩のことばを動かしている。
 そして、それが一体であるから、どんなに遅れても、やっぱりそこは「眼の空」なのだ。遅れたつもりでも遅れることができない。
 対象と眼との距離がなくなる。
 もう、そうなってしまうと、見えないものを見ないかぎりは、何も起きない。その不思議な感じを2連、3連とことばが動いていく。
 


坂のある非風景―詩集
井上 瑞貴
近代文芸社

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デヴィッド・エアー監督「フェイクシティー」(★)

2009-02-25 08:30:42 | 映画
監督 デヴィッド・エアー 出演 キアヌ・リーブス、フォレスト・ウィテカー

 「L. A. コンフィデンシャル」を書いたジェームズ・エルロイの脚本である。込み入ったストーリーの見応えのある映画を期待したが、まったく期待外れである。警官の腐敗ぶり(?)にまったく新味がない。見え透いた腐敗の構図、いやもう何度も何度も映画になった腐敗の構図である。だれが悪役なのか、すぐにわかる。映画はストーリーで見るものではないけれど、ここまであからさまな「どんでん返し」が用意されていると、ばかばかしくなってしまう。
 腐敗の構図に気が付かないのは主人公のキアヌ・リーブスただひとりである。

 むりをして(?)1点だけ、おもしろいシーンをあげておく。
 キアヌ・リーブスが追いつめられ、つかまえられ、丘の上のアジトへ連れて行かれる。気が付いたら手足はしばられている。そのキアヌが銃をもった2人の警官から、這って逃げようとする。
 え? 無意味な行動じゃない? 2人の警官も笑っている。からかって、わざと狙いを外して銃を撃つ。「あ、足に命中した」などと笑いながら。キアヌはけがをしたまま、草の影に逃れる。それを1人の警官が追って来る。そして、とどめの1発を撃とうとしたとき、キアヌが反撃する。スコップで。キアヌが逃げていった先は、実は、キアヌたちが遺体を発見した墓だった。墓を掘り起こしたときのスコップがそこにあることを知っていて、キアヌはそこへ逃げたのだ。
 ここは見事でしたねえ。伏線の張り方が美しかったなあ。私は寸前まで、気が付かなかった。あ、スコップと思ったら、キアヌがスコップを持っていた。少なくとも「自分から墓場へ突き進んでいる」という警官のせりふで気が付くべきだったなあ。--でも、この映画、あまりに退屈なので、このあたりまでくるとほとんど睡魔との闘いという感じだから……と、自分のぼんやりさ加減を弁護したいような気持ちにもなったり……。
 あ、ともかく、みえすいたストーリーです。そして、それを、あいかわらず無表情ハンサムのキアヌが演じるのだから、これはほんとうにつらい映画です。



L.A.コンフィデンシャル [DVD]

日本ヘラルド映画(PCH)

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『田村隆一全詩集』を読む(6)

2009-02-25 00:00:00 | 田村隆一
 矛盾。「四千の日と夜」は、矛盾したことば、厳しく対立することばに満ちている。1連目。

一篇の詩が生まれるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

 「生」と「死」。しかも、その死は自然のものではなく、「殺す」ことによって生まれる死である。そして殺す対象は敵(憎むべき相手)ではなく「愛するもの」である。

 4連目。

記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く

 何によって? 想像力によって?
 しかし、この4連目は次のようにつづいている。

一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した

 「眼に見えざるものを見、」「耳に聴えざるものを聴く」というとき、つかわれている力は「想像力」ではない。その「想像力」さえもが毒殺の対象なのだから。では、何によって見聞きするのか。
 「ことば」によって、である。ことばを発すること、見た、聴いたとことばにする、書くことによって、田村はすべての行動をする。「毒殺」するのも、ことばよってである。ことばに田村は特権を与えている。詩とは、特権を与えられたことばなのだ。

 最終連。

一篇の死を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない

 「生む」のは「あたらしいいのち」ではない。「死者」を「甦らせる」と田村は書き換えている。死者は現実には甦らない。けれども、ことばのうえでなら、死者は甦ると書くことができる。ことばは、あらゆる存在に先行して、動いていくことができる。
 想像力があって、それをことばで説明するのではない。ことばがあって、ことばが想像力を動かしているのだ。だからこそ、不必要な想像力はことばの力によって「毒殺」するということが可能なのだ。

 「四千の日と夜」は、いわば、「ことば」の特権宣言である。「ことば」の独立宣言といえばいいだろうか。何にも束縛されない。ことばは、ことば自身の力で自在に運動する。それが詩である、という宣言である。

 田村は、「ことば」をもって、という肝心の「主語」をこの作品では書き記していないが、それは書き記す必要がないほど、田村には自明のことだったのだ。自明すぎて、書き忘れているのである。そして、この詩が「現代詩」の世界で受け入れられたのは、「現代詩」を書く詩人達がその意識を「共有」していたことを意味するだろう。
 だれもが、詩は、ことばの独立宣言であると思っていたのだ。現実を描写するのではない。ことばの力で現実を動かす。極端に言えば、ことばを現実(実在)が描写する。ことばは、詩は、現実をひっぱって動かしていく。
 芸術は自然を模倣するのではない、自然が芸術を模倣するのだ--ではなく、詩は現実を模倣するのではなく、現実が詩を模倣するのだ、というのが田村たちの、この時代の「共通認識」だったのだと思う。

 矛盾したことばを書く。それは矛盾を書いているのではない。「現実(くらし)」のなかでは矛盾としか定義できないものが実は矛盾ではないという主張のために、「わざと」矛盾を書いているのである。いま、矛盾に見えることが、永遠に矛盾でありつづけるわけではない。それは矛盾を超越した何かになる。(止揚ではない。)詩人には、それがわかっている。だから、それを書くのである。



若い荒地 (講談社文芸文庫)
田村 隆一
講談社

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