詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北原千代「繭の家」、瀬崎祐「行方不明となった訪問販売人の記録」

2009-02-24 09:07:07 | 詩(雑誌・同人誌)
北原千代「繭の家」、瀬崎祐「行方不明となった訪問販売人の記録」(「風都市」19、2009年冬)

 北原千代「繭の家」の「わたし」は「繭の家」に住んでいる。Yという人物が、その「わたし」(繭の家)を後悔に連れ出す。

海というものは四六時中うねっているのだった
船が海のいちばん深いところにさしかかったとき

 この2行がすてきだ。北原は海を描写しようとはしていない。「わたし」(繭の家)とYとの関係、いや、「わたし」(繭の家)そのものの寓意を書こうとしている。しかし、その寓意そのものよりも、寓意から逸脱していく瞬間がおもしろい。
 ここに書かれていることがらは、特段、不思議なことではない。海はいつでもうねっている。また、海には深いところと浅いところがある。それは単純な事実であるけれど、寓意のなかにふいに挿入されるとき、それは「発見」になる。この2行はなくても、北原の書こうとしている寓意はかわらない。かわらないからこそ、その2行には意味がというか、価値がある。不要な細部、その逸脱のなかに、北原の感性が輝く。
 この2行の場合、特に、その「いちばん深いところ」という部分に、北原の感性が輝く。岸から「いちばん遠いところ」の方が寓話として論理的なのだが、遠近ではなく、深さを挿入することで、ことばが揺らぐ。想像力を揺さぶる。危険があふれてくる。

 前後を含めて引用しなおしてみる。

Yはおそろしく背が高く
着古したネイビーブルーのズボンをゆるやかに穿いていた
船乗りだと言った
てっぺんから繭を持ちあげると腕に抱えて
航海に連れていってくれた
海というものは四六時中うねっているのだった
船が海のいちばん深いところにさしかかったとき
甲板から繭ごと放り出した
わたしは泳ぎを知らなかったが
繭に納まったまま岸部に打ち上げられた
旅はどうだったかな、とYは訊いた
カモメが水平に飛んでいた、とわたしは言った
Yは憔悴しまるでみずから海に飛び込んだ人のように
頬や胸や腹や太腿に深い傷を負っていた
きみを危うくさせ、きみを救う、ぼくの愛のありようだ

 「きみを危うくさせ、きみを救う」というのなら、繭を放り出す海は、岸からいちばん遠いところになるだろう。岸までとおいほど、繭が岸へたどりつく可能性は少ない。泳げない繭にとって、浅い深いは危険度において差はない。繭が沈んでしまう深さなら、それで充分に危険である。泳げないのだから。それでも北原は「いちばん深いところ」ということばを選んだ。
 そのことばに誘われて、海が水平ではなく、垂直に、断面として目の前にあらわれてくる。その衝撃。その美しさ。
 この不意打ちの輝きがあるから、Yの泣かせ文句(?)も落ち着く。「岸からいちばん遠いところ」だったら、きざなせりふ、やぼったね、で終わってしまう。海は広いではなく、海は深いということを知っている、海は垂直であると知っているからこそ、カモメの行の「水平」も、Yのことばも効果的だ。Yのことばは、彼の深いところから出てきた、「広い」こころではなく、「深い」こころから出てきたものとして響く。



 瀬崎祐「行方不明となった訪問販売人の記録」も寓話である。その書き出し。

鞄から取りだした見本はいくらか湿っているようだ
手足の切れ端のようなものが付いていたり
神経の束のようなものががぶらさがっていたりしている
使用方法を説明しようとして
こんなものを取りだしてしまったことに困惑している
顔の小さな先生はそんな私を慈しんでいるようだ
ついでに歯を削ってあげましょう
訪問販売をしていれば歯は痛むものですよ
顔の小さな先生は私の口の中をのぞき込みながらくりかえす
ちぎれた神経の先端が昨日の辺りをなでまわしているから
苦しいのですよ

 最初から奇妙な寓話が最後の2行で飛躍する。その瞬間が美しい。
 なぜ寓話を書くのか。それは、現実に則したリアルな文体では動かせないようなことばの運動を実現するためである。
 1連目の最後の2行は、それを書こうとして狙っていたものではないだろう。1行目から書きはじめ、ことばがしだいに自立し、それが自律へとかわる。それに加速を加えると、ことばが飛躍する。
 これは成り行きである。
 こういう成り行きに身をまかせ、成り行きがつかみとったことばを「歪めずに」、ことばの自律運動を正確に再現できるのが詩人である。
 狙って書くのではなく、狙わずに、そのことばが動いていくままに、追いかけていく。そのときにだけ見えるものがある。それを詩と呼ぶ。



風を待つ人々
瀬崎 祐
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(5)

2009-02-24 00:16:17 | 田村隆一
 「声」は書こうとすることが定まっていない。何が書けるかを探している。そのときの、ことばの揺らぎが過激である。

思考を拒絶せよ それは時間を所有することだ 時間から脱出せよ 全身で感じることのできるせつない空間へ 感じるのだ 身をもつて思想を感じることなのだ

 ここでは抽象的なことばがせめぎあっている。「思考を拒絶せよ それは時間を所有することだ 時間から脱出せよ」の「それは」は何だろうか。
 「時間を拒絶」すること--と考えるのがふつうの文法かもしれないが、そう考えるとあとが矛盾する。思考を拒絶することは時間を所有すること、と考えると、次に「時間から脱出せよ」が論理的に矛盾する。脱出する必要があるなら、なぜ、その時間を所有しなければならないのか。
 「それは」は「思考」か。思考を拒絶せよ。なぜなら、思考は時間を所有することだ。時間は所有せず、時間から脱出せよ。
 こう考えると、なんとなく、論理的には可能なことのように思える。
 時間から脱出して、どこへ行くのか。全身で感じることのできるせつない空間へ、行く。だが、このとき、目的は「空間」ではない。「感じるのだ 身をもつて思想を感じるのことなのだ」。目的は「感じる」ことである。だが、何を? 「思想」を感じる。
 そこまでたどりついて、私は、立ち止まってしまう。
 「思考」を拒絶して、「思想」を感じる。「思考」と「思想」はどこが違う? 私にすぐには答えることができない。私自身のことばのつかい方を吟味してみても、その区別はどこかであいまいになる。田村の「思考」と「思想」の使い分けは、もちろん、いまの段階ではわからない。
 何がいいたいのだろうか。
 たぶん、「思考」の対極にあるのは「感じる」ということばなのだろう。「考える」(思考する)のではなく、感じる。しかも「身をもつて」。「考える」は「頭」である。ここでは「頭」に対して「身」が向き合っている。
 「考える頭」と「感じる身」--これが、この詩における「対」である。そして、同時に「思考」と「思想」がやはり「対」になっている。
 「頭」でたどりつく、つかみとるのが「思考」、「身」でたどりつくのが「思想」。そして、田村は、その「身」でたどりつく「思想」、「身をもつて感じる」ことを重視している。
 その「思想」を重視するなら、私が、ここで解読したような試みは、もっともいけないことである。「頭」で「論理」を追ってはいけない。それでは「思想」にたどりつけない。
 では、どうすべきなのか。
 ことばを「頭」ではなく、肉眼で追いかけ、喉と舌で追いかけ、耳で追いかける。つまり「音楽」で追いかける。そのとき「身」(肉体)が感じる何か--それが「思想」だと感じる、ということをすべきなのである。
 ここでは考えてはいけない。音をただ味わうのだ。

 詩の書き出しに戻る。

 指が垂れはじめる ここに発掘された灰色の音階に

 「音」は最初からテーマだった。「灰色の音階」という不思議な表現。耳で聴く音階ではなく、眼で聴く音階。眼と耳、視覚と聴覚の融合。「身をもつて」とは感覚の融合をもってというのに等しい。
 それはたしかに「考える」ことではない。ただ「身」をまかせることである。「身」を何かに(音楽に)まかせ、そのとき起きる感覚の融合を全身にひろげる。そのとき、全身(肉体)という「空間」が「思想」になるのだ。

思考を拒絶せよ それは時間を所有することだ 時間から脱出せよ 全身で感じることのできるせつない空間へ 感じるのだ 身をもつて思想を感じることなのだ

 このことばのなかで、田村は何も考えていない。多々音に誘われるままに、音の自律性にまかせて、その動きを身体で追っているのだ。旋律。リズム。ことばはいつでも、そういうものだけで動いていく。「拒絶」→「所有」→「脱出」。この過激な漢語(熟語)のスピード。そのスピードを「頭」ではなく、「身体」で感じるとき、「音楽」が「思想」になる。それは「意味」ではなく、意味以前の感覚の融合である。




スコッチと銭湯 (ランティエ叢書)
田村 隆一
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