北原千代「繭の家」、瀬崎祐「行方不明となった訪問販売人の記録」(「風都市」19、2009年冬)
北原千代「繭の家」の「わたし」は「繭の家」に住んでいる。Yという人物が、その「わたし」(繭の家)を後悔に連れ出す。
この2行がすてきだ。北原は海を描写しようとはしていない。「わたし」(繭の家)とYとの関係、いや、「わたし」(繭の家)そのものの寓意を書こうとしている。しかし、その寓意そのものよりも、寓意から逸脱していく瞬間がおもしろい。
ここに書かれていることがらは、特段、不思議なことではない。海はいつでもうねっている。また、海には深いところと浅いところがある。それは単純な事実であるけれど、寓意のなかにふいに挿入されるとき、それは「発見」になる。この2行はなくても、北原の書こうとしている寓意はかわらない。かわらないからこそ、その2行には意味がというか、価値がある。不要な細部、その逸脱のなかに、北原の感性が輝く。
この2行の場合、特に、その「いちばん深いところ」という部分に、北原の感性が輝く。岸から「いちばん遠いところ」の方が寓話として論理的なのだが、遠近ではなく、深さを挿入することで、ことばが揺らぐ。想像力を揺さぶる。危険があふれてくる。
前後を含めて引用しなおしてみる。
「きみを危うくさせ、きみを救う」というのなら、繭を放り出す海は、岸からいちばん遠いところになるだろう。岸までとおいほど、繭が岸へたどりつく可能性は少ない。泳げない繭にとって、浅い深いは危険度において差はない。繭が沈んでしまう深さなら、それで充分に危険である。泳げないのだから。それでも北原は「いちばん深いところ」ということばを選んだ。
そのことばに誘われて、海が水平ではなく、垂直に、断面として目の前にあらわれてくる。その衝撃。その美しさ。
この不意打ちの輝きがあるから、Yの泣かせ文句(?)も落ち着く。「岸からいちばん遠いところ」だったら、きざなせりふ、やぼったね、で終わってしまう。海は広いではなく、海は深いということを知っている、海は垂直であると知っているからこそ、カモメの行の「水平」も、Yのことばも効果的だ。Yのことばは、彼の深いところから出てきた、「広い」こころではなく、「深い」こころから出てきたものとして響く。
*
瀬崎祐「行方不明となった訪問販売人の記録」も寓話である。その書き出し。
最初から奇妙な寓話が最後の2行で飛躍する。その瞬間が美しい。
なぜ寓話を書くのか。それは、現実に則したリアルな文体では動かせないようなことばの運動を実現するためである。
1連目の最後の2行は、それを書こうとして狙っていたものではないだろう。1行目から書きはじめ、ことばがしだいに自立し、それが自律へとかわる。それに加速を加えると、ことばが飛躍する。
これは成り行きである。
こういう成り行きに身をまかせ、成り行きがつかみとったことばを「歪めずに」、ことばの自律運動を正確に再現できるのが詩人である。
狙って書くのではなく、狙わずに、そのことばが動いていくままに、追いかけていく。そのときにだけ見えるものがある。それを詩と呼ぶ。
北原千代「繭の家」の「わたし」は「繭の家」に住んでいる。Yという人物が、その「わたし」(繭の家)を後悔に連れ出す。
海というものは四六時中うねっているのだった
船が海のいちばん深いところにさしかかったとき
この2行がすてきだ。北原は海を描写しようとはしていない。「わたし」(繭の家)とYとの関係、いや、「わたし」(繭の家)そのものの寓意を書こうとしている。しかし、その寓意そのものよりも、寓意から逸脱していく瞬間がおもしろい。
ここに書かれていることがらは、特段、不思議なことではない。海はいつでもうねっている。また、海には深いところと浅いところがある。それは単純な事実であるけれど、寓意のなかにふいに挿入されるとき、それは「発見」になる。この2行はなくても、北原の書こうとしている寓意はかわらない。かわらないからこそ、その2行には意味がというか、価値がある。不要な細部、その逸脱のなかに、北原の感性が輝く。
この2行の場合、特に、その「いちばん深いところ」という部分に、北原の感性が輝く。岸から「いちばん遠いところ」の方が寓話として論理的なのだが、遠近ではなく、深さを挿入することで、ことばが揺らぐ。想像力を揺さぶる。危険があふれてくる。
前後を含めて引用しなおしてみる。
Yはおそろしく背が高く
着古したネイビーブルーのズボンをゆるやかに穿いていた
船乗りだと言った
てっぺんから繭を持ちあげると腕に抱えて
航海に連れていってくれた
海というものは四六時中うねっているのだった
船が海のいちばん深いところにさしかかったとき
甲板から繭ごと放り出した
わたしは泳ぎを知らなかったが
繭に納まったまま岸部に打ち上げられた
旅はどうだったかな、とYは訊いた
カモメが水平に飛んでいた、とわたしは言った
Yは憔悴しまるでみずから海に飛び込んだ人のように
頬や胸や腹や太腿に深い傷を負っていた
きみを危うくさせ、きみを救う、ぼくの愛のありようだ
「きみを危うくさせ、きみを救う」というのなら、繭を放り出す海は、岸からいちばん遠いところになるだろう。岸までとおいほど、繭が岸へたどりつく可能性は少ない。泳げない繭にとって、浅い深いは危険度において差はない。繭が沈んでしまう深さなら、それで充分に危険である。泳げないのだから。それでも北原は「いちばん深いところ」ということばを選んだ。
そのことばに誘われて、海が水平ではなく、垂直に、断面として目の前にあらわれてくる。その衝撃。その美しさ。
この不意打ちの輝きがあるから、Yの泣かせ文句(?)も落ち着く。「岸からいちばん遠いところ」だったら、きざなせりふ、やぼったね、で終わってしまう。海は広いではなく、海は深いということを知っている、海は垂直であると知っているからこそ、カモメの行の「水平」も、Yのことばも効果的だ。Yのことばは、彼の深いところから出てきた、「広い」こころではなく、「深い」こころから出てきたものとして響く。
*
瀬崎祐「行方不明となった訪問販売人の記録」も寓話である。その書き出し。
鞄から取りだした見本はいくらか湿っているようだ
手足の切れ端のようなものが付いていたり
神経の束のようなものががぶらさがっていたりしている
使用方法を説明しようとして
こんなものを取りだしてしまったことに困惑している
顔の小さな先生はそんな私を慈しんでいるようだ
ついでに歯を削ってあげましょう
訪問販売をしていれば歯は痛むものですよ
顔の小さな先生は私の口の中をのぞき込みながらくりかえす
ちぎれた神経の先端が昨日の辺りをなでまわしているから
苦しいのですよ
最初から奇妙な寓話が最後の2行で飛躍する。その瞬間が美しい。
なぜ寓話を書くのか。それは、現実に則したリアルな文体では動かせないようなことばの運動を実現するためである。
1連目の最後の2行は、それを書こうとして狙っていたものではないだろう。1行目から書きはじめ、ことばがしだいに自立し、それが自律へとかわる。それに加速を加えると、ことばが飛躍する。
これは成り行きである。
こういう成り行きに身をまかせ、成り行きがつかみとったことばを「歪めずに」、ことばの自律運動を正確に再現できるのが詩人である。
狙って書くのではなく、狙わずに、そのことばが動いていくままに、追いかけていく。そのときにだけ見えるものがある。それを詩と呼ぶ。
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