詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

冨上芳秀「千年の石」「人間の尻尾」

2009-02-09 10:23:50 | 詩(雑誌・同人誌)
冨上芳秀「千年の石」「人間の尻尾」(「詩遊」21、2009年01月31日発行)

 八重洋一郎の「蛇」は「蛇」から逸脱し、宇宙軸になった。「虹」になった。冨上芳秀「千年の石」は「石」のままである。いや、いつか人間が「石」になると決めて、「石」の視点から世界をみつめると、どう見えるか、を書いている。

私は千年の石になることを決めた
山犬が来て黄色い臭い小便をかけたが
石だから平気だった
カラスが半分腐りかけた
猫の死骸を食いながら
男と女が交わっているのを見た
といってギャアギャアとしゃべっている
男がいて女がいれば
性交するのに不思議はない
お互いがそのための道具を持っているのだから
セックスと死と食事はいつも結びついているが
私は石になったのだから
セックスも死も食事も関係がない
薄汚いカラスども
消えろということもない
食い残されたぼろぼろの皮と
血まみれの骨が残っている
その後は太陽が照り
雨が降って
風が粉々になった骨と
毛とを吹き飛ばしていくだけだ
いつのまにかまた
昔とおなじごろごろ
石が転がっているだけの風景になった

 とても安定している。とても読みやすい。そして、書いてあることが、そのままよくわかる。
 そして、そこで、私は考え込んでしまう。
 八重洋一郎の作品について書いたときのことばをつかえば、「かっこいい」という部分がない。それは何が原因かといえば、12行目の「だから」である。ちゃんとした理由というか、根拠を持っていて、そこから出発している。何をするにもちゃんとした理由が必要なのだと思うけれど、それがちょっとおもしろくない。
 八重が宇宙軸と蛇について書き、虹に「へび」とルビを振ったのも「理由」があるかもしれない。いや、ある。そして「理由」はあるけれど、その「理由」は実はわかっていない。わからない「理由」のために、ことばを動かしている。「理由」が自分自身でもわからないからこそ、ことばを動かしている。「理由なき反抗」のようである。そして、その「理由のなさ」がかっこいいのである。「理由のなさ」が「難解」の原因なのである。「かっこいい」という印象を生み出すためには「理由」などあってはならないのだ。「理由」はすべてがおわったあと、どこからともなくやってくる「詩」のようなものなのだ。
 1行目に「決めた」ということばがあるが、冨上のキーワードは、この「決めた」にあるのかもしれない。何かを「決める」。そして、それにしたがって行動する。ことばを動かす。これはとても大切なことである。大切なことだけれど、ちょっとつまらない。決めないでほしい、と思う。何も決めないで、動いていけばいいのだと思う。
 決めてしまっているから、「男がいて女がいれば/性交するのに不思議はない/お互いがそのための道具を持っているのだから」の「道具」のような、なんとも味気ないことばが露出してしまう。セックスというのはあらゆるものが融合しているにもかかわらず、「道具」の交渉になってしまう。「道具」から逸脱してしまうのがセックスなのに。「道具」だけでやっている行為はセックスなんかではないのに……。

 「人間の尻尾」には、「決めた」とはいいきれない部分があって、そこがおもしろい。前半部分。

人間のお尻に生えている
尻尾を見ることができるようになったのは
女と出会ってからだ
女の丸いつるつるのお尻を
撫でているうちに
悪魔のような形
の細い尻尾があることに気が付いた
おい、こんなものがあるよ
とゴムのような弾力のある
尻尾を握ってからかうと
あら、あなたにもあるわと
ぎゃーっと細い指で握った
私は自分が悪魔になったように
驚いたが
握られたときの快感に痺れた

 ここでは「女」が登場してきて、冨上の言っていることを突き動かす。その瞬間、視点が動く。逸脱していく。「悪魔」へと逸脱していく。その「快感」。
 逸脱こそが快感のすべてなのである。「千年の石」に戻れば、「道具」から逸脱していったとき、セックスは楽しいのである。「道具」に限定して(決めて)、セックスをみつめては喜びを手にすることはできない。
 これは詩も同じである。「決めて」書くのではなく、決めずに書く。書きながら探す。そのときの、ふいの逸脱がとても楽しいのである。




馬氏の鳥―冨上芳秀作品集
冨上 芳秀
イオブックス

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八重洋一郎「宇宙律(2)」

2009-02-09 09:53:27 | 詩(雑誌・同人誌)
八重洋一郎「宇宙律(2)」(「ビーグル」2、2009年01月20日発行)

 「火」という作品と「蛇」という作品が発表されている。どちらもおもしろいのだが、「蛇」について書く。その2連目。

ゆらめく天軸 うごめく地軸 とどろきくねる
宇宙軸
軸とはこれ以上ない内部
ギリギリの
内部の内部に内臓はない
あるのは ただ
光だけ 「いま」という瞬間抱いて
骨格がきらきらひかり そして外部へ
暗黒放つ

 「蛇」というタイトルがついているので、読みながら「蛇」を連想する。宇宙の中心としての蛇。あの長い体は「軸」なのだ。「軸」というのは中心である。「内部」である。その内部の内部を、さらに追いつめていく。「内部の内部に内臓はない」というのは、とても生々しくて、蛇そのものに見えてくる。蛇には内臓があるはずだが、「内部の内部に内臓はない」と言われてしまうと、なんだか蛇にも内臓がないような気持ちになってくる。この変な(?)論理を私は「逸脱」と呼ぶのだが、蛇からはじまってどこまで蛇の外へ出て行けるか--というのが、八重がこの詩で書いていることだと思う。蛇から出発して、どんどん逸脱して、宇宙の中心へと蛇をつなげてしまう。そのとき、そのつながりとして「宇宙律」があるということなのだろう。たしかに真理はなんとでも結びつく。だから真理なのだろう。
 でも、こういう考え方は、いわゆる詩人の妄想? 詩人の妄想と真理は違う? そうかもしれない。そうではないかもしれない。区別がつかないけれど、この逸脱は、読んでいて楽しい。特に、次の連。

ゆらめく天軸 うごめく地軸 くねりとどろく
宇宙軸
ひかりというやみ
虹(へび)のはだ
やみという彩(いろ)
虹(へび)のひふ
騙(だま)しの手管(てくだ)は蛇身にあふれ そよそよとひっそりそよぐ危機の
鱗(うろこ)の隙まより 内部の
内部のさらに内部の軸芯(じくしん)蕩(とろ)かし こなごなに骨格くだき
広大無辺の
闇の中 きらきらと 切れ味
鋭い

 「ひかりというやみ」は「内部の内部に内臓はない」につながるのだが、この「ひかりというやみ」の矛盾。強烈な衝突のあと、「虹」という文字が出てくる。「にじ」である。それに「へび」とルビを振っている。「虹(へび)のはだ」「虹(へび)のひふ」と2回も出てくる。誤植? いや、誤植ではないのだろう。そのあとには「蛇身」ということばが出てくるがルビはない。「虹」を「へび」と読ませているのだ。
 この蛇と虹という文字は、とても似ている。
 私は目が強くないので、こういう文字に出会ったときは、目がくらくらしてしまう。ことばの錯乱だけではなく、文字の錯乱のなかにもまきこまれてしまう。そして、思うのだ。この錯乱のなかに、逸脱することばの力だけが触れることのできる真実があるのだと。
 ことばは逸脱する。逸脱しながら、「いま」「ここ」にないものをつかみ取る。「いま」「ここ」にないものは、嘘かもしれない。しかし、私はそれが嘘であっても真実だと思う。「嘘であっても真実である」というのは矛盾した表現だが、それを言い直せば、嘘であっても、そこには明確な運動があって、その運動自体は真実である、ということになる。真実とは固定したものではなく、ある動きなのだ。何かをつかみとろうとする意志の動き、それを追いかけることば、その力--ことばには、「いま」「ここ」にないものを追いかける力がある、その力の発露としての運動は、いつでも真実である、という意味になる。
 どこまで逸脱していけるか。ことばの自律力にまかせて、どこまで逸脱できるか。詩は、その方向にしかない。

 ことばは逸脱する。しかし、同時に、ことばには逸脱を許さない力が働く。社会に流通するという「命題」のようなものがある。八重が書いていることばで説明すると、「虹」を「へび」と読ませるのは間違っている。「へび」を「虹」と書いてはいけないという「ルール」のようなものがある。それを、どんなふうにたたき壊すことができる。そのルールから、ことばの自律力を解放する方法としてどんなものがあるか。そういう方法を獲得するために、詩がある。
 逸脱する力は、いつでもかっこいい。かっこいいものは美しい。

 「現代詩は難解である」とは昔いわれたことばである。「難解」とはかっこいいことだ、と私は思い、自分の中で言い換えてきた。逆から言えば「かっこいい」は難解である。古い古い例で言えばビートルズは「かっこいい」のは「難解」だからである。「難解」とはようするに、いままで知っているものとは違っているので、いままでの基準では判断できない。いままでの判断基準を逸脱している、ということである。そういうものは、いつだって「かっこいい」のである。そして、この「かっこよさ」(難解)は、ことばでは吸収できない。肉体でしか吸収できない。肉体で奪い取ることしかできない。「かっこいい」を消化するために、肉体はいろいろ無理をする。聞き慣れない音を声にしてみる。髪をのばす。そんなことをして何になる?というようなことをしつづけて、わけのわからないものを消化してしまう。

 詩にも、そういう動きがあるのだと思う。
 
 


しらはえ
八重 洋一郎
以文社

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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(9)中井久夫訳

2009-02-09 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
ピレフス港・拘置もの移送所    リッツォス(中井久夫訳)

一枚の毛布にくるまる。「柏餅」だ。発熱。セメント。湿り気。
髪の汗臭さ。壁に爪で刻んだ字。
名。日付。小さな「契約の石」。同じ悪夢が
同じたいまつで傷口を開く、--「今晩だ」「今晩だ」
「明朝の夜明けだ」と。
鍵孔に鍵がはまり、
投げた最後の煙草がまだ床でくすぶっているのに
長い鎖が果てない白い線の上を引きずって行く時、
ここを出るものがいて、ぼくらのことを覚えているだろうか?

   柏餅…一枚のふとんを上下に着る(本邦の俗語)。
   契約の石…神がモーセに下された十戒を書いた石板



 リッツォスが実際に「拘置所」あるいは拘置者移送所を体験したかどうか、私は知らない。詩人が書くことは体験したことだけとはかぎらない。見聞をもとにして、自分のことばを動かす。そういうことがあっても、不思議はない。リッツォスのように映画的な作品を書く詩人なら、なおのことそういう思いがする。
 前半の「もの」の素早い描写の積み重ね。それからひとの動きを交え、最後にこころを描く。一連の、リッツォスのことばの動きが、ここでも同じように動いている。
 前半の単語の積み重ねに対して、後半の「投げた最後の煙草がまだ床でくすぶっているのに」という粘着力のあることばの動きがおもしろい。ことばの粘着力がこころの動きを、点ではなく線として描き出す。リッツォスには、点と線との対比がある。


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