冨上芳秀「千年の石」「人間の尻尾」(「詩遊」21、2009年01月31日発行)
八重洋一郎の「蛇」は「蛇」から逸脱し、宇宙軸になった。「虹」になった。冨上芳秀「千年の石」は「石」のままである。いや、いつか人間が「石」になると決めて、「石」の視点から世界をみつめると、どう見えるか、を書いている。
とても安定している。とても読みやすい。そして、書いてあることが、そのままよくわかる。
そして、そこで、私は考え込んでしまう。
八重洋一郎の作品について書いたときのことばをつかえば、「かっこいい」という部分がない。それは何が原因かといえば、12行目の「だから」である。ちゃんとした理由というか、根拠を持っていて、そこから出発している。何をするにもちゃんとした理由が必要なのだと思うけれど、それがちょっとおもしろくない。
八重が宇宙軸と蛇について書き、虹に「へび」とルビを振ったのも「理由」があるかもしれない。いや、ある。そして「理由」はあるけれど、その「理由」は実はわかっていない。わからない「理由」のために、ことばを動かしている。「理由」が自分自身でもわからないからこそ、ことばを動かしている。「理由なき反抗」のようである。そして、その「理由のなさ」がかっこいいのである。「理由のなさ」が「難解」の原因なのである。「かっこいい」という印象を生み出すためには「理由」などあってはならないのだ。「理由」はすべてがおわったあと、どこからともなくやってくる「詩」のようなものなのだ。
1行目に「決めた」ということばがあるが、冨上のキーワードは、この「決めた」にあるのかもしれない。何かを「決める」。そして、それにしたがって行動する。ことばを動かす。これはとても大切なことである。大切なことだけれど、ちょっとつまらない。決めないでほしい、と思う。何も決めないで、動いていけばいいのだと思う。
決めてしまっているから、「男がいて女がいれば/性交するのに不思議はない/お互いがそのための道具を持っているのだから」の「道具」のような、なんとも味気ないことばが露出してしまう。セックスというのはあらゆるものが融合しているにもかかわらず、「道具」の交渉になってしまう。「道具」から逸脱してしまうのがセックスなのに。「道具」だけでやっている行為はセックスなんかではないのに……。
「人間の尻尾」には、「決めた」とはいいきれない部分があって、そこがおもしろい。前半部分。
ここでは「女」が登場してきて、冨上の言っていることを突き動かす。その瞬間、視点が動く。逸脱していく。「悪魔」へと逸脱していく。その「快感」。
逸脱こそが快感のすべてなのである。「千年の石」に戻れば、「道具」から逸脱していったとき、セックスは楽しいのである。「道具」に限定して(決めて)、セックスをみつめては喜びを手にすることはできない。
これは詩も同じである。「決めて」書くのではなく、決めずに書く。書きながら探す。そのときの、ふいの逸脱がとても楽しいのである。
八重洋一郎の「蛇」は「蛇」から逸脱し、宇宙軸になった。「虹」になった。冨上芳秀「千年の石」は「石」のままである。いや、いつか人間が「石」になると決めて、「石」の視点から世界をみつめると、どう見えるか、を書いている。
私は千年の石になることを決めた
山犬が来て黄色い臭い小便をかけたが
石だから平気だった
カラスが半分腐りかけた
猫の死骸を食いながら
男と女が交わっているのを見た
といってギャアギャアとしゃべっている
男がいて女がいれば
性交するのに不思議はない
お互いがそのための道具を持っているのだから
セックスと死と食事はいつも結びついているが
私は石になったのだから
セックスも死も食事も関係がない
薄汚いカラスども
消えろということもない
食い残されたぼろぼろの皮と
血まみれの骨が残っている
その後は太陽が照り
雨が降って
風が粉々になった骨と
毛とを吹き飛ばしていくだけだ
いつのまにかまた
昔とおなじごろごろ
石が転がっているだけの風景になった
とても安定している。とても読みやすい。そして、書いてあることが、そのままよくわかる。
そして、そこで、私は考え込んでしまう。
八重洋一郎の作品について書いたときのことばをつかえば、「かっこいい」という部分がない。それは何が原因かといえば、12行目の「だから」である。ちゃんとした理由というか、根拠を持っていて、そこから出発している。何をするにもちゃんとした理由が必要なのだと思うけれど、それがちょっとおもしろくない。
八重が宇宙軸と蛇について書き、虹に「へび」とルビを振ったのも「理由」があるかもしれない。いや、ある。そして「理由」はあるけれど、その「理由」は実はわかっていない。わからない「理由」のために、ことばを動かしている。「理由」が自分自身でもわからないからこそ、ことばを動かしている。「理由なき反抗」のようである。そして、その「理由のなさ」がかっこいいのである。「理由のなさ」が「難解」の原因なのである。「かっこいい」という印象を生み出すためには「理由」などあってはならないのだ。「理由」はすべてがおわったあと、どこからともなくやってくる「詩」のようなものなのだ。
1行目に「決めた」ということばがあるが、冨上のキーワードは、この「決めた」にあるのかもしれない。何かを「決める」。そして、それにしたがって行動する。ことばを動かす。これはとても大切なことである。大切なことだけれど、ちょっとつまらない。決めないでほしい、と思う。何も決めないで、動いていけばいいのだと思う。
決めてしまっているから、「男がいて女がいれば/性交するのに不思議はない/お互いがそのための道具を持っているのだから」の「道具」のような、なんとも味気ないことばが露出してしまう。セックスというのはあらゆるものが融合しているにもかかわらず、「道具」の交渉になってしまう。「道具」から逸脱してしまうのがセックスなのに。「道具」だけでやっている行為はセックスなんかではないのに……。
「人間の尻尾」には、「決めた」とはいいきれない部分があって、そこがおもしろい。前半部分。
人間のお尻に生えている
尻尾を見ることができるようになったのは
女と出会ってからだ
女の丸いつるつるのお尻を
撫でているうちに
悪魔のような形
の細い尻尾があることに気が付いた
おい、こんなものがあるよ
とゴムのような弾力のある
尻尾を握ってからかうと
あら、あなたにもあるわと
ぎゃーっと細い指で握った
私は自分が悪魔になったように
驚いたが
握られたときの快感に痺れた
ここでは「女」が登場してきて、冨上の言っていることを突き動かす。その瞬間、視点が動く。逸脱していく。「悪魔」へと逸脱していく。その「快感」。
逸脱こそが快感のすべてなのである。「千年の石」に戻れば、「道具」から逸脱していったとき、セックスは楽しいのである。「道具」に限定して(決めて)、セックスをみつめては喜びを手にすることはできない。
これは詩も同じである。「決めて」書くのではなく、決めずに書く。書きながら探す。そのときの、ふいの逸脱がとても楽しいのである。
馬氏の鳥―冨上芳秀作品集冨上 芳秀イオブックスこのアイテムの詳細を見る |