詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョイス・キルマー「木」

2009-02-28 09:58:04 | 詩(雑誌・同人誌)
ジョイス・キルマー「木」(「朝日新聞」2009年02月25日夕刊)

 アーサー・ビナード、木坂涼選・共訳の「詩のジャングル」で紹介されている作品。

一本の木と同じくらいすてきな詩に
ぼくは一度も出会ったことがない

木はやさしい大地の胸に吸いついて
流れてくる恵(めぐ)みをのがさない

木はずっと天を見上げて
腕(うで)をいっぱい広げて祈(いの)りつづけている

夏になればツグミたちがきて
巣のアクセサリーで木の頭を飾(かざ)る

木は雪をかぶったこともあるし
だれよりも雨と仲よく暮らしている

詩はぼくみたいなトンマなやつで作れるが
木を作るなんてそれは神様にしかできない

すーっと胸に入ってくる気持ちがいい詩だ。感想を書こうとして、ふと原題が目に入った。その瞬間、何を書きたかったか忘れてしまった。書きたいことが変わってしまった。
原題は「Trees」。複数である。ところが、私は複数の木を思い浮かべなかった。1本の木しか思い浮かべなかった。訳の書き出し「一本の木」に引きずられ、1本の木を思い浮かべた。タイトルの「木」も、この「一本」に引きずられるように、完全に1本になってしまった。
そして、そのことで、この詩がさらによくなったと思った。
アーサー・ビナード、木坂涼のどちらが主体となって訳したのかわからないが、かれらに複数の意識があることは、4連目の「ツグミたち」を見れば明らかである。2人は原題の木が複数であることを知っていいて、単数に訳している。
アメリカ人の感性にとっても同じであるかどうかわからない。そして、他の日本の読者にとっても同じかどうかわからないが、タイトルが「木々」であったら、私は感動しなかったと思う。
1本の木だから「ぼく」と対等に向き合う。「一度も」もよくわかる。2連目以降、原文は単数なのか複数なのか分からないが、1本の木思い浮かべると、自分の生き方と対比しやすい。1本という孤独が、「ぼく」の孤独を支える。さらっと出てくるツグミの複数形が、孤独をすっきりと浮かび上がらせる。
とても共感しやすい。

そして、孤独の共感があって、最後の「トンマ」もうれしくなる。自分をそんなふうにかわいがって生きる生き方がうれしくなる。この「トンマ」は馬鹿ではなく、ちょっとかわいいじゃないか、人間ぽいじゃないか、という響きである。

で、質問していいですか?
「トンマ」って、英語でなんていうの? なんていう単語を「トンマ」と訳したの? ここにもきっと2人の工夫があるはずだ。




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『田村隆一全詩集』を読む(10)

2009-02-28 00:00:00 | 田村隆一
 詩人は存在に先だちことばを発見する。新しい「いのち」を発見する。そのとき、ひとつの困難が出現する。ことばに存在が追いついて来るまで、「いのち」は存在するべき場所がないのだ。「いのち」は発見された。だが、それが生きていく場がない。
 「立棺」は、そうした詩人の輝かしい絶望を語っている。

わたしの屍体を地に寝かすな
おまえたちの死は
地に休むことができない
わたしの屍体は
立棺のなかにおさめて
直立させよ

  地上にはわれわれの墓がない
  地上にはわれわれの屍体をいれる墓がない

 「わたし」と「おまえたち」は、「再会」の「わたし」と「僕」と同じように、ほんとうは「ひとり」である。何人いても、同じいのちを共有しているから「ひとり」である。詩人とは、何人いても、その詩とともに生きる「ひとり」である。ことばを共有するとき作者と読者が溶け合うように。

 ここでは「新しいいのち」が「死」(屍体)と表現されている。この死にはふたつの意味がある。ひとつは、「新しいいのち」にとって、その生活の「場」がないとき、それは生きたことにならない。死んでいる、という意味。もうひとつは、もし「新しいいのち」が「場」のなかでそれにふさわし存在を発見し、新しい何かとして結実したとする。そうすると、その瞬間から「新しいいのち」は「新しいいのち」ではなくなる。それは「生」を獲得した瞬間から「新しさ」(実現されていない論理)を失い、固定化してしまった存在論理(死)になってしまう。
 これは矛盾である。
 しかし、だから詩なのだ。
 詩とは、生きていく「場」をもたないことばである。それは常に何かを破壊し、新しいいのちの産声を上げながら死んでいくしかないものなのだ。その産声の強さで、いのちの根源がどこにあるかを暗示することだけが詩の仕事である。死として生まれて来るのが詩の運命・宿命である。

わたしの屍体を火で焼くな
おまえたちの死は
火で焼くことができない
わたしの屍体は
文明のなかに吊るして
腐らせよ

  われわれには火がない
  われわれには屍体を焼くべき火がない

 繰り返される「ない」。その否定形。それは否定を超越して「拒絶」にまで到達している。火は存在しないだけなのではない。ありきたりの火を詩人は拒絶しているのだ。火を求めながら、火を拒絶する。いま、ここにある火が、火に値しないという理由で。
 求めているのは、いま、ここにある火ではなく、火を火として成立させる何か、根源的な生々しいいのちをもった火だからである。

 対立-止揚-結実という発展という可能な三角形ではなく、矛盾-拒絶(破壊)-融合(根源的生成)という不可能な三角形がここにある。

 「三つの声」は、そういう詩人とことばの関係を繰り返し書き留めている。

その声は遠いところからきた
その声は非常に遠いところからきた
あらゆる囁きよりもひくく
あらゆる叫喚よりもたかく
歴史の水深よりさらにふかい
一〇八三〇メートルのエムデン海淵よりはるかにふかい
言葉のなかの海
詩人だけが発見する失われた海を貫通して
世界のもつとも寒冷な空気をひき裂き
世界のもつともデリケートな艦隊を海底に沈め
われわれの王とわれわれの感情の都市を支配する
われわれの死せる水夫とわれわれの倦怠を再創造する
その声は遠いところからきた
その声は非常に遠いところからきた

 ここに描かれているのは存在を超越したいのちである。たとえば「囁きよりもひくく」。ここに描かれているのは矛盾した(不都合な)存在である。たとえば「デリケートな艦隊」。ここに描かれているのは無意味な行為である。たとえば「倦怠を再創造する」。言い換えれば、ここには規制の存在を否定し、拒絶することばの運動だけがある。規制のものを拒絶し、破壊し、あたらしいことばの関係をつくりだそうとするエネルギーだけが、ここではうごめいている。
 これらすべての「声」は田村の声ではあるけれど、「遠いところからきた」ことばである。田村は、そのことばを生み出すのではない。やってくるその瞬間を予感し、つかみとる。予感し、というのは、それがあらわれてからでは遅いからだ。予感のなかでつかみとる。そして、そのつかみとったことばにしたがう。そのとき、ひとは、詩人になる。





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