ジョイス・キルマー「木」(「朝日新聞」2009年02月25日夕刊)
アーサー・ビナード、木坂涼選・共訳の「詩のジャングル」で紹介されている作品。
すーっと胸に入ってくる気持ちがいい詩だ。感想を書こうとして、ふと原題が目に入った。その瞬間、何を書きたかったか忘れてしまった。書きたいことが変わってしまった。
原題は「Trees」。複数である。ところが、私は複数の木を思い浮かべなかった。1本の木しか思い浮かべなかった。訳の書き出し「一本の木」に引きずられ、1本の木を思い浮かべた。タイトルの「木」も、この「一本」に引きずられるように、完全に1本になってしまった。
そして、そのことで、この詩がさらによくなったと思った。
アーサー・ビナード、木坂涼のどちらが主体となって訳したのかわからないが、かれらに複数の意識があることは、4連目の「ツグミたち」を見れば明らかである。2人は原題の木が複数であることを知っていいて、単数に訳している。
アメリカ人の感性にとっても同じであるかどうかわからない。そして、他の日本の読者にとっても同じかどうかわからないが、タイトルが「木々」であったら、私は感動しなかったと思う。
1本の木だから「ぼく」と対等に向き合う。「一度も」もよくわかる。2連目以降、原文は単数なのか複数なのか分からないが、1本の木思い浮かべると、自分の生き方と対比しやすい。1本という孤独が、「ぼく」の孤独を支える。さらっと出てくるツグミの複数形が、孤独をすっきりと浮かび上がらせる。
とても共感しやすい。
そして、孤独の共感があって、最後の「トンマ」もうれしくなる。自分をそんなふうにかわいがって生きる生き方がうれしくなる。この「トンマ」は馬鹿ではなく、ちょっとかわいいじゃないか、人間ぽいじゃないか、という響きである。
で、質問していいですか?
「トンマ」って、英語でなんていうの? なんていう単語を「トンマ」と訳したの? ここにもきっと2人の工夫があるはずだ。
アーサー・ビナード、木坂涼選・共訳の「詩のジャングル」で紹介されている作品。
一本の木と同じくらいすてきな詩に
ぼくは一度も出会ったことがない
木はやさしい大地の胸に吸いついて
流れてくる恵(めぐ)みをのがさない
木はずっと天を見上げて
腕(うで)をいっぱい広げて祈(いの)りつづけている
夏になればツグミたちがきて
巣のアクセサリーで木の頭を飾(かざ)る
木は雪をかぶったこともあるし
だれよりも雨と仲よく暮らしている
詩はぼくみたいなトンマなやつで作れるが
木を作るなんてそれは神様にしかできない
すーっと胸に入ってくる気持ちがいい詩だ。感想を書こうとして、ふと原題が目に入った。その瞬間、何を書きたかったか忘れてしまった。書きたいことが変わってしまった。
原題は「Trees」。複数である。ところが、私は複数の木を思い浮かべなかった。1本の木しか思い浮かべなかった。訳の書き出し「一本の木」に引きずられ、1本の木を思い浮かべた。タイトルの「木」も、この「一本」に引きずられるように、完全に1本になってしまった。
そして、そのことで、この詩がさらによくなったと思った。
アーサー・ビナード、木坂涼のどちらが主体となって訳したのかわからないが、かれらに複数の意識があることは、4連目の「ツグミたち」を見れば明らかである。2人は原題の木が複数であることを知っていいて、単数に訳している。
アメリカ人の感性にとっても同じであるかどうかわからない。そして、他の日本の読者にとっても同じかどうかわからないが、タイトルが「木々」であったら、私は感動しなかったと思う。
1本の木だから「ぼく」と対等に向き合う。「一度も」もよくわかる。2連目以降、原文は単数なのか複数なのか分からないが、1本の木思い浮かべると、自分の生き方と対比しやすい。1本という孤独が、「ぼく」の孤独を支える。さらっと出てくるツグミの複数形が、孤独をすっきりと浮かび上がらせる。
とても共感しやすい。
そして、孤独の共感があって、最後の「トンマ」もうれしくなる。自分をそんなふうにかわいがって生きる生き方がうれしくなる。この「トンマ」は馬鹿ではなく、ちょっとかわいいじゃないか、人間ぽいじゃないか、という響きである。
で、質問していいですか?
「トンマ」って、英語でなんていうの? なんていう単語を「トンマ」と訳したの? ここにもきっと2人の工夫があるはずだ。
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