詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

暮尾淳「タマサシの旅」

2009-02-12 10:33:15 | 詩(雑誌・同人誌)
暮尾淳「タマサシの旅」(「現代詩手帖」2009年02月号)

 他人のことばにであったとき、ひとはどんなふうにかわるのだろうか。岡井隆は他人のことばをのみこみながら、乱調の美を華麗に展開する。暮尾はふいに自分のことばをうしない、沈黙する。
 「タマサシの旅」の後半。

注文を受けた石の地蔵を
一人黙々と彫っている
すっかり白髪になった友人を訪ねると
彼は珈琲を啜りながら
切り出したばかりの大きな原石のころから
毎日一度は見にきていた
利発そうな男の子が
ようやく粗削りが終わるころ
おじさんはどうしてこの石を壊してしまうのと聞くので
仕事なんだよとこたえたけれど
なんだか急に恥ずかしくなり
時の流れのままに風化して行く
自然な石の姿にこそ
仏は現れるのだろうかとしみじみ語り
だからおれはタマサシについて話せなくなり
二人はしばらく
六月の青い空の白い雲をぼんやり眺めていたが。

 暮尾にとって、他者のことばと出会うことは沈黙することである。これは、暮尾の友人、地蔵をつくっている男も同じだ。少年に尋ねられたとき、ほんとうのことは語っていない。沈黙している。そして、別なことばを語っている。この語らなかった時間があって、つまり沈黙があって、そのあと遅れてことばがやってくる。そのとき、少年はいない。かわりに暮尾が沈黙をくぐりぬけたあとの、透明な音楽を聴く。

時の流れのままに風化して行く
自然な石の姿にこそ
仏は現れるのだろうか

 これは、友人が暮尾と話す機会がなかったら、永遠に沈黙のなかに沈んでいたことばかもしれない。深く深く沈黙していたことばがあらわれるとき、それはきっと詩なのだ。そして、そのまえでは、ひとは沈黙する。自分のことばをととのえ直さないと、きちんと向き合えない。だから、沈黙する。
 そう考えると、少年が友人に語りかけたことばも同じように詩なのだ。少年は長い長い沈黙の果てに、やっとことばを見つけ出し、友人に問いかけた。それは質問ではなく、沈黙の奥に生きていた「いのち」の誕生なのである。
 そしてそれは友人の想像を超えていた。そして一気に友人の「いま」「ここ」と「過去」をたたき壊してしまった。だからきちんとこたえることができなかった。地蔵をつくっている、という単純なことを明確に言えなかった。友人の「常識」「流通していることば」が通用しない世界に引きずり出されたことを知って、うろたえて、その場をとりつくろったのだ。「地蔵をつくっている」では、少年の求めている答えにはならないと、一瞬のうちにわかって、沈黙し、「仕事なんだよ」と答えるしかなかった。
 そういう「沈黙」をくぐり抜けたことばのあと、言ったひとも聞いたひとも、また沈黙するしかない。ことばがかえって行く先は「沈黙」しかない。
 沈黙と拮抗する音が音楽だと武満徹は言ったが、沈黙と拮抗することばが詩でもあるのだ。

 そういう美しい沈黙のあと、時間を置いてから暮尾のことばはゆっくり動きだす。

帰りの飛行機では若かった姉が出してくれた詩集のあとがきに何時
までも詩を書いているなんて恥ずかしいことであると書いたむかし
を思い出しながらおれはあのとき馬師の誰かにタマサシを作れない
牝馬の去勢の儀式はどのようにするのだろうか
聞いておけばよかったと後悔していた。

 どうしようもないことである。そのどうしようもないことが、ことばとなって静かにあらわれる。それは単純にみれば散文、呟きに聞こえる。しかし、これもまた詩なのだと私は思う。詩と、とても不思議な形をとってあらわれる。誰もが口ずさむ気持ちのよい響き、フレーズ、たとえば「ふるさとは遠きにありて思うもの」のような形であらわれるものもあるが、そうではなく、あらわれたけれど、受け止めるひともなく、ただ消えていくという形をとるものもある。
 暮尾の書いていること「後悔」、呟きもそうした詩である。
 この5行だけ読んでも、なんのことかさっぱりわからない。(詩の全体をとおして読めばわかるのだが、ここで引用するより、作品を直に読んでもらいたいので、前半は引用しないままにしておく。)だが、その、不思議な、深い深い沈黙を誘うことばは、やはり詩なのだ。
 暮尾は、この5行のあと、沈黙する。つまり、詩を閉じるが、その沈黙こそが詩なのである。そこでは、別の、ここには書くことのでなきかったことばが、いつかあらわれようとしてうごめいている。その書かれていないうごめき、いのちの予感が詩である。



 岡井隆の詩に戻れば、岡井のことばは、暮尾の書いている沈黙を螺旋を描くようにして降りて行く。あるいはのぼっていく。あるいは横へ横へとひろがり、さまよう。その方向性のなさ、あるいは無限の方向への自在な闊歩の足音、その乱れ、乱調が詩なのである。
 歌会始の前、階段をみてふと思い出した大滝和子の「階段は美貌なれどもわたしくと目合はすことを避けかかるなり」は、一瞬のうちに、岡井の日常「いま」「ここ」をたたき壊す沈黙の衝撃でもあったのだ。
 沈黙と通じ合うさまざまなことば--そのなかに、詩はある。そして、それはさまざまな形をしている。




雨言葉
暮尾 淳
思潮社

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岡井隆「年賀/注釈する者からの挨拶」

2009-02-12 09:43:05 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「年賀/注釈する者からの挨拶」(「現代詩手帖」2009年02月号)

 歌会始に招かれたときの様子を書いている。そこに他者の書いた歌や詩や俳句が引用されている。

御門には青年宮務官(きゅうむかん)が待ちうけてゐて「階段は美貌なれどもわたくしと目合はすことを避けかかるなり」(大滝和子)そつくりの美しい階段が絨毯をひきかむつてわたしを導かうとして強いて目を合はすのを避けたがつてゐるのを横目でみながら老いを意識したうつむき歩きになる

 大滝和子の短歌は歌会始に招かれて、そのときに見た階段を詠んだものではないだろうけれど、そういうその場(その状況)ではないことばが、「いま」「ここ」に立ち上がってきて、現実をひっかきまわす。攪乱させる。そのときのこころの動き。そのときに、こころが動いてしまうということ--そこに詩の本質がある。
 ことばは、いつでも、その場において直接発せられるだけではなく、どこか遠いところからやってきて、「いま」「ここ」と結びつき、「いま」「ここ」を「いま」「ここ」から引き離してしまう。ふたつの「場」がことばのなかで出会う。そして、その「ふたつ」の場が本来持っているものとは違った違った世界へひとを導く。
 これは、ある意味では「注釈」の作業に似ている。
 ことばは、かかれたことばは、いつでも、その「場」から離れた場で受け止められ、理解される。注釈は、かつての「場」に近づく作業だが、近づくということは、常に本来の場とは違った別の場があるという意識があってはじめて成立する運動である。Aという場とBという場が近づき、近づくことで似ていると同時に違っているものを発見する。そのとき、精神が興奮する。似ているものと違っているものとのあいだで、「いま」「ここ」を点検するのだが、そこにはどうしたって「発見」というか、何か新しいものが必ずあって、それが精神を興奮させる。--注釈はたいつくな作業のようでもあるけれど、そういう興奮をもたらす作業でもある。
 岡井の書いているのは詩であるから、その「発見」を具体的には書かない。ただ、「いま」「ここ」において書かれたことばではないものが、「いま」「ここ」にあらわれて岡井の思考をぐいとひっぱる。そのひっぱる力にまかせて(ひっぱられるにまかせて)、動きはじめたことばを正直に書きとどめる。その正直さのなかに、岡井の「肉体」があらわれる。そこが岡井の作品のおもしろいところである。
 詩は、引用部分につづいて、モーニングと燕尾服のあいだを揺れ動き、そこに建畠晢の詩や江里昭彦、さらには宮内庁からの案内、歌会始の出席者のことばが交錯する。交錯することで何か結論(?)がでるわけではなく、ただ交錯することが、交錯のまま、いわば混沌として描かれている。この混沌、そして、混沌を混沌のまま、ことばとして書き留めることができる強靱な文体を、私は、とても美しいと感じる。
 岡井のことばの美しさは、結局、どんなことばも引き受けしっかりと動かすことができるという文体の力にある。今回の作品に岡井の特徴が非常によくあらわれているが、岡井の文体は、詩的言語(文学作品)は古典から現代まで自在にとりこむのはもちろんだが、事務的な散文や、日常の会話もとりこみ、それでいてまったく乱れないことである。他人のことばをとりいれるたびに、それ独自の調子を活かすから、それを乱調と呼ぶことはできるかもしれないが、その乱調が美しいのだから、もはや乱調とは言えない。
 「美は乱調にあり」ということばを思い出すが、そうであるためには、強靱な肉体としての文体が基底になければならない、とも思う。岡井の文体はほんとうに強靱である。





岡井隆の現代詩入門―短歌の読み方、詩の読み方 (詩の森文庫)
岡井 隆
思潮社

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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(12)中井久夫訳

2009-02-12 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
意味は一つである    リッツォス(中井久夫訳)

圧縮した言葉、きわめつきの言葉、達人の言葉、
とりとめのない言葉、しつこい言葉、単純な言葉、疑いっぽい言葉、
役に立たぬ記憶、口実、口実、
あたりまえのことを強く言う、--たぶん石でしょう、
たぶん家でしょう、たぶん武器でしょう、--と。戸の把手。
水指しの把手。卓子に花瓶。
寝る用意をしてタバコを吸う。言葉たち--。
きみは言葉を空で鍛える。森で鍛える。大理石の上で鍛える。
紙の上で鍛える。別に--。死さ。

ネクタイをぐっと締めなくちゃ。ほら、こうだ。
しっ、静かに。待って。こういうふに。こうだよ。
ゆっくり。ゆーっくりだよ。この狭い隙間からはいる。
あすこだ。壁に押しつけてある階段の下だ。



 きのう読んだ「用心」に似ている。ことばを慎む。ことばを口にしない。行動も同じである。自分に言い聞かせる。
 どんなふうに言ってみても、誤解されることがある。かんぐられることがある。そうされないための工夫。--これも、軍政がもたらした一つの精神の形かもしれない。軍政に抵抗するというひそかな内戦の一つの形かもしれない。
 孤独なことばの記録をしっかりと残す--そういう戦い方もあるである。

 ことば、ことば、ことば。それを3行目で、言い換えている。

役に立たぬ記憶、口実、口実、

 あ、「記憶」もたしかに「ことば」なのだと知らされる。
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