詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三木卓「曇天」

2009-02-22 10:43:16 | 詩(雑誌・同人誌)
三木卓「曇天」(「文藝春秋」2009年03月号)

 詩--まだ、ことばになっていないものを、ことばにすることによって出現させる。その運動。私はそんなふうに定義している。そういうことを最初に考えたのはいつのことだろう。もう忘れてしまったが、三木卓の「曇天」を読みながら、ふと思い出した。詩を書いてみたい、詩をもっと読みたいと思ったころの、最初の喜びを思い出した。
 「曇天」の全行。

中空反転中の縞猫は
制帽の上に逆立ちしている 将校を一瞥する

鼻息あらい輓馬に 美醜の判定を迫られ
ただちに 曇天化する 鏡

少女の腰が ゆっくり動き
皺のある乾いた指は 砂時計を にぎりしめる

 中空で反転している猫。その目が一瞬、将校を見る。将校は逆立ちしているのではなく、猫が逆さまなので、将校が逆立ちしているように見える。それを「ように見える」を省略して、「逆立ちにしてしまう」。その省略のなかの、ことばの動き。「のように見える」。比喩。詩の出発点はそこにある。「のように見える」という比喩の論理が省略されると、比喩を超越して、対象そのものが出現する。それまで存在しなかったものが、突然、目の前にあらわれてくる。
 省略は、異次元へのジャンプなのだ。
 三木のこの詩には、1字空きがたくさん出てくる。1行目以外にはすべて1行空きがある。「制帽の……」の1字空きは「のように見える」を補うと論理(?)がすっきりする。2連目、3連目は? 私にはすぐには思いつかない。思いつかないが、感じることがある。1字空きのたびに、ことばが私の想像力を超えた領域へ動いていく。それはつまり、ことばが同じ次元をなだらかに移行しているということではなく、ジャンプしていることを意味する。
 輓馬が美醜の判定を迫る、というようなことは、ふつうはありえない。輓馬は太っていて醜い。美とは遠い存在である。常識(?)的には、そうである。しかし、そういう輓馬、太って醜い、野性的な力に満ちているものが「美とは何か」と問うたからといって問題はない。むしろ、単純に輓馬は太っていて醜いという流通概念で満足している意識そのものに問題があるかもしれない。
 ことばがジャンプする。そうすると、1行目の「反転中」の猫ではないが、意識がひっくり返る。意識が知らない領域へつっこんでしまう。
 詩--まだ、ことばになっていないものを、ことばにすることによって出現させる、と私は最初に書いたが、それは、意識が、まだ意識化していない領域に突入することで、いままで意識できなかったものを意識できるようになる、ということでもある。
 この運動が6行のことばのなかで次々に起きる。それが楽しい。

 ところで。
 2連目、「ただちに 曇天化する 鏡」を読みながら、もしこれが「快晴化」するだったら、どうだろうと考えた。三木は、輓馬に美醜の判断を求められ、鏡は自分の意識(太って荒々しいものは醜いという固定概念)が間違っているかもしれないと曇っていく--曇天化する鏡と書いているのだが、これが「快晴化する」だったらどうなるだろう。
 「快晴化」では、不十分かもしれない。快晴さえも通り越して、光に満ちて、鏡みずからが割れて砕けるというのは、どうだろう。
 --これは、三木の詩とは関係ないことである。たしかに関係ないことなのだが、そんな暴走へ私を誘ってくれる。
 私は、そんなふうに私の想像力(ことばの自律運動)を誘ってくれる詩(ことば)が大好きだ。詩人が書いたことばを無視して、私自身のなかからことばが動いていく--そういう瞬間に、なぜか、あ、いい詩を読んだなあ、という気持ちになる。ことばが解放されたということを実感するからである。ことばを解放することが、たぶん詩にとっての最大の仕事なのだ。



わが青春の詩人たち
三木 卓
岩波書店

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『田村隆一全詩集』を読む(3)

2009-02-22 00:22:43 | 田村隆一
 矛盾。あるいは対立。それと呼応するように、対句のような行が書かれる。「Nu」。その書き出し。

窓のない部屋があるように
心の世界には部屋のない窓がある

 「窓のない部屋」は矛盾ではない。しかし「部屋のない窓」は矛盾である。そういうものは現実には想定できない。
 「部屋のない窓」というのは、たとえば工事現場の塀の「窓」という例がある--というのは屁理屈である。1行目を無視した、単なる「現象」の証拠にすぎない。2行目はあくまで1行目の対句なのだから、そこに「塀」などをもってきても、ことばの運動として無意味である。
 「部屋のない窓」というものは現実にはない。けれど、ことばの運動としてはありうる。これが「現代詩」の出発点である。虚数が現実にはないが、数学上は存在するのと同じように、言語の運動、その運動を証明するひとつの方法として、「部屋のない窓」は存在する。ただし、これは1行目を前提とする。2行目は、1行目を前提として、「わざと」書かれた矛盾なのである。
 詩において、矛盾は、あくまで「わざと」書かれたものなのだ。

 なぜ、矛盾は詩に導入されるのか。3、4連目。

あなたは黙つて立ち止まる
まだはつきりと物が生れないまえに
行方不明になつたあなたの心が
窓のなかで叫んだとしても

 ぼくの耳は彼女の声を聴かない
 ぼくの眼は彼女の声を聴く

 「窓のなかで叫んだとしても」の「窓のなか」というのは、「部屋」のことではない。あくまで「窓」そのものの「なか」である。「部屋のない窓」の、その「窓」そのものの「なか」である。
 これも、ことばの運動そのものでしかつかむことのできない「虚数」としての表現である。
 虚数は平方すると-1(マイナス1)になる。「-1」自体、奇妙な数字で、実際にそれを存在として見ることはできない。「-1本のエンピツ」は見ることはできない。手で触ることはできない。けれど、思考のなかでは、それは存在する。
 そういうものが、数学だけではなく、言語のなかでも起きる。数学は、数字をつかって書かれた世界共通の国語であるが、数学という国語で起きることは、日常の国語でも起きるのだ。論理としてというより、運動として、そういうことが可能なのである。その可能性を追及しているのが「現代詩」である。
 言語としての「窓のなか」の叫び声--それは、どうやってとらえることができるか。聞くことができるのか。

 ぼくの耳は彼女の声を聴かない
 ぼくの眼は彼女の声を聴く

 「耳」ではなく、「眼」で聴く。これは、日常の文法からすると奇妙かもしれない。眼は聴覚ではないからだ。だが、この詩では、叫び声は絶対に「眼」で聴かなければならない。なぜか。「部屋のない窓」と、その「窓のなか」を実感できるのは「眼」だからである。現実には存在しないものを見る。その眼の力で、その「窓のなか」の叫びを見る。彼女が叫ぶのを見る。そのとき、「眼」のなかに、その叫びが届くのだ。
 その叫びは、声にはならない声なのだ。声にならないまま、ただ口が叫びの形になる。それを見るとき、叫びはまず「眼」に見え、「眼」に聴こえる。「眼」が「耳」となって、叫びをつかみ取る。
 肉体の感覚は、感覚の領域を越境する。超越する。

 ある感覚が別の感覚を越境する。侵入する。超越する。こういうことは、奇妙かもしれないけれど、実際に存在する。感覚は、ある「共通」の何かをもっている。感覚の母体である「肉体」は、感覚を融合させる何かを持っている。
 「冷たい声」という表現には触覚と聴覚の融合がある。「白々しい声」には視覚と聴覚の融合がある。そういう日常の表現を点検すれば、感覚は互いに越境することがわかる。そういう表現を私たちは日常的に知っている。その、知っているけれど、普段はありま意識しない領域へ向けて、ことばを動かしてゆく。そこで、新しい感覚を呼び起こすものとして、詩というものがある。
 その具体的実践が「ぼくの眼は彼女の声を聴く」なのである。詩は、そういうことばの運動の実践のことである。



ぼくの人生案内 (知恵の森文庫)
田村 隆一
光文社

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