三木卓「曇天」(「文藝春秋」2009年03月号)
詩--まだ、ことばになっていないものを、ことばにすることによって出現させる。その運動。私はそんなふうに定義している。そういうことを最初に考えたのはいつのことだろう。もう忘れてしまったが、三木卓の「曇天」を読みながら、ふと思い出した。詩を書いてみたい、詩をもっと読みたいと思ったころの、最初の喜びを思い出した。
「曇天」の全行。
中空で反転している猫。その目が一瞬、将校を見る。将校は逆立ちしているのではなく、猫が逆さまなので、将校が逆立ちしているように見える。それを「ように見える」を省略して、「逆立ちにしてしまう」。その省略のなかの、ことばの動き。「のように見える」。比喩。詩の出発点はそこにある。「のように見える」という比喩の論理が省略されると、比喩を超越して、対象そのものが出現する。それまで存在しなかったものが、突然、目の前にあらわれてくる。
省略は、異次元へのジャンプなのだ。
三木のこの詩には、1字空きがたくさん出てくる。1行目以外にはすべて1行空きがある。「制帽の……」の1字空きは「のように見える」を補うと論理(?)がすっきりする。2連目、3連目は? 私にはすぐには思いつかない。思いつかないが、感じることがある。1字空きのたびに、ことばが私の想像力を超えた領域へ動いていく。それはつまり、ことばが同じ次元をなだらかに移行しているということではなく、ジャンプしていることを意味する。
輓馬が美醜の判定を迫る、というようなことは、ふつうはありえない。輓馬は太っていて醜い。美とは遠い存在である。常識(?)的には、そうである。しかし、そういう輓馬、太って醜い、野性的な力に満ちているものが「美とは何か」と問うたからといって問題はない。むしろ、単純に輓馬は太っていて醜いという流通概念で満足している意識そのものに問題があるかもしれない。
ことばがジャンプする。そうすると、1行目の「反転中」の猫ではないが、意識がひっくり返る。意識が知らない領域へつっこんでしまう。
詩--まだ、ことばになっていないものを、ことばにすることによって出現させる、と私は最初に書いたが、それは、意識が、まだ意識化していない領域に突入することで、いままで意識できなかったものを意識できるようになる、ということでもある。
この運動が6行のことばのなかで次々に起きる。それが楽しい。
ところで。
2連目、「ただちに 曇天化する 鏡」を読みながら、もしこれが「快晴化」するだったら、どうだろうと考えた。三木は、輓馬に美醜の判断を求められ、鏡は自分の意識(太って荒々しいものは醜いという固定概念)が間違っているかもしれないと曇っていく--曇天化する鏡と書いているのだが、これが「快晴化する」だったらどうなるだろう。
「快晴化」では、不十分かもしれない。快晴さえも通り越して、光に満ちて、鏡みずからが割れて砕けるというのは、どうだろう。
--これは、三木の詩とは関係ないことである。たしかに関係ないことなのだが、そんな暴走へ私を誘ってくれる。
私は、そんなふうに私の想像力(ことばの自律運動)を誘ってくれる詩(ことば)が大好きだ。詩人が書いたことばを無視して、私自身のなかからことばが動いていく--そういう瞬間に、なぜか、あ、いい詩を読んだなあ、という気持ちになる。ことばが解放されたということを実感するからである。ことばを解放することが、たぶん詩にとっての最大の仕事なのだ。
詩--まだ、ことばになっていないものを、ことばにすることによって出現させる。その運動。私はそんなふうに定義している。そういうことを最初に考えたのはいつのことだろう。もう忘れてしまったが、三木卓の「曇天」を読みながら、ふと思い出した。詩を書いてみたい、詩をもっと読みたいと思ったころの、最初の喜びを思い出した。
「曇天」の全行。
中空反転中の縞猫は
制帽の上に逆立ちしている 将校を一瞥する
鼻息あらい輓馬に 美醜の判定を迫られ
ただちに 曇天化する 鏡
少女の腰が ゆっくり動き
皺のある乾いた指は 砂時計を にぎりしめる
中空で反転している猫。その目が一瞬、将校を見る。将校は逆立ちしているのではなく、猫が逆さまなので、将校が逆立ちしているように見える。それを「ように見える」を省略して、「逆立ちにしてしまう」。その省略のなかの、ことばの動き。「のように見える」。比喩。詩の出発点はそこにある。「のように見える」という比喩の論理が省略されると、比喩を超越して、対象そのものが出現する。それまで存在しなかったものが、突然、目の前にあらわれてくる。
省略は、異次元へのジャンプなのだ。
三木のこの詩には、1字空きがたくさん出てくる。1行目以外にはすべて1行空きがある。「制帽の……」の1字空きは「のように見える」を補うと論理(?)がすっきりする。2連目、3連目は? 私にはすぐには思いつかない。思いつかないが、感じることがある。1字空きのたびに、ことばが私の想像力を超えた領域へ動いていく。それはつまり、ことばが同じ次元をなだらかに移行しているということではなく、ジャンプしていることを意味する。
輓馬が美醜の判定を迫る、というようなことは、ふつうはありえない。輓馬は太っていて醜い。美とは遠い存在である。常識(?)的には、そうである。しかし、そういう輓馬、太って醜い、野性的な力に満ちているものが「美とは何か」と問うたからといって問題はない。むしろ、単純に輓馬は太っていて醜いという流通概念で満足している意識そのものに問題があるかもしれない。
ことばがジャンプする。そうすると、1行目の「反転中」の猫ではないが、意識がひっくり返る。意識が知らない領域へつっこんでしまう。
詩--まだ、ことばになっていないものを、ことばにすることによって出現させる、と私は最初に書いたが、それは、意識が、まだ意識化していない領域に突入することで、いままで意識できなかったものを意識できるようになる、ということでもある。
この運動が6行のことばのなかで次々に起きる。それが楽しい。
ところで。
2連目、「ただちに 曇天化する 鏡」を読みながら、もしこれが「快晴化」するだったら、どうだろうと考えた。三木は、輓馬に美醜の判断を求められ、鏡は自分の意識(太って荒々しいものは醜いという固定概念)が間違っているかもしれないと曇っていく--曇天化する鏡と書いているのだが、これが「快晴化する」だったらどうなるだろう。
「快晴化」では、不十分かもしれない。快晴さえも通り越して、光に満ちて、鏡みずからが割れて砕けるというのは、どうだろう。
--これは、三木の詩とは関係ないことである。たしかに関係ないことなのだが、そんな暴走へ私を誘ってくれる。
私は、そんなふうに私の想像力(ことばの自律運動)を誘ってくれる詩(ことば)が大好きだ。詩人が書いたことばを無視して、私自身のなかからことばが動いていく--そういう瞬間に、なぜか、あ、いい詩を読んだなあ、という気持ちになる。ことばが解放されたということを実感するからである。ことばを解放することが、たぶん詩にとっての最大の仕事なのだ。
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