詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

梅田智江『梅田智江詩集』(2)

2009-02-05 11:08:07 | 詩集
梅田智江『梅田智江詩集』(2)(右文書院、2008年08月15日発行)

 梅田智江は膵臓癌で死んだ。同じ病気で父を亡くしている。その父を描いた作品。「質問」。全行。

父は
膵臓癌で
数日の命だった。

母は
トイレにかけこんでは
泣き
顔面神経痛の笑顔で
病室に戻っては
笑った。

妊娠九ケ月の姉は
妊婦用の
喪服がなかった。

デパートに求めにいき
その足で
見舞った。

「よい生地があった?」と、母は尋ねた。

うらうらと
明るい午後の日差しだった。

ベッドの上で半身になり
やぎのような
やさしい眼で
父は聞いた。

「何を話しているの?」

嘆くことは 何もなかった。

 「嘆くことは 何もなかった。」と書いているが、これはほんとうのことではない。父が死ぬ。それは嘆くべきことである。けれど、「嘆くことは 何もなかった。」と書くしかないのは、「嘆く」ためのことばがみつからないからなのである。ことばはいつでも遅れてやってくる。ほんとうに必要なことばは遅れてやってくる。間に合わない。正直な梅田智江は、その「間に合わなかった」状況をそのままことばにしている。ことばをむりやりひねり出すのではなく、そのとき、そこにあらわれたことばだけとていねいに向き合っている。
 ひとは、いつでも、そういうものだ。
 トイレにかけこんで泣き、涙を拭いて病室で笑顔をみせる母。それは、彼女がそのときにできる唯一のことなのだ。ほんとうはもっと何かができた、あれもできた、これもできた、とあとから思うことはできる。思いはことばと同じように、やはり遅れてやってくるのである。
 私たちは、いつでも、その場その場でできることしかできない。妊婦用の喪服を買いに言ったり、それが「いい生地かどうか」尋ねたり、死んでいくはずの父がのんきに(?)「何を話しているの?」と聞いたり。
 それは矛盾している。しなければならないことから逸脱している、という意味で矛盾している。ほんとうはもっとほかのことをしなければいけない、と、こころは叫んでいるのに、そういうことしかできないというのは矛盾している。ばかげている。
 だが、そういう矛盾にこそ、思想がある。「肉体」としての思想がある。
 こういう矛盾をくぐりぬけないことには、「時間」はくぐりぬけられない。いつまでたっても「死」はやってこない。矛盾をくぐりぬけて、何もかもが過ぎ去ったあとで、あのときはこんなことをした。こんなばかげたことしかできなかった、とふりかえる。そのときに、明るい時間が流れる。「いま」と「過去」が和解し、その和解の中に「永遠」がふっと姿をみせる。そして、その瞬間、「嘆くことは 何もなかった。」が輝く。真実になる。
 そうなのだ。嘆くことは何もないのだ。それは「いのち」の記憶として、ずっと生き続ける。どんなときにも、矛盾を生きることができる、矛盾を生きた、その一瞬こそ、実は「いのち」と「いのち」が触れ合っていたということがわかる。父が死んで行く、その瞬間。そのとき。梅田智江は、母は、姉は、そして父は互いに触れ合って生きていた。それぞれ「悲しみ」を隠して、平穏に、明るく生きていた。その、不思議な矛盾。それが、たぶん、生きるということのすべてなのだろう。
 詩を書くことは、矛盾を書くことである。矛盾を矛盾のまま、正確に書くことである。その矛盾をへて、やがて真実が、永遠があらわれる。それがどんなものであるかは、そのときはわからない。わからないと正確に書き、わからないことのなかで起きていることを正直に書く。

 梅田智江は書くことで正直になり、正直だけがつかみうる「いのち」という永遠に触れたのだと思う。死を描きながらも、そこには「いのち」の讃歌がある。「いのち」の讃歌かあるからこそ、死を真っ正面からみつめることができる。
 すばらしい詩を残してくれたことに、こころから感謝したい。ありがとう。梅田智江さん。




変容記
梅田 智江
沖積舎

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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(5)中井久夫訳

2009-02-05 00:23:50 | リッツォス(中井久夫訳)
怪我か死んだか    リッツォス(中井久夫訳)

連中は車付きの寝台を裏口からひそかに持ち込んだ。こちらはシャッターの隙間からじっと見てた。一人が戻って来た。
何か忘れたのだな。櫛か。表の街路では
シーツの白さが目にしみる。まだ通りの明かりは消えていない。
「やる時間があるか。気になるな」と一人が言った。消えた煙草をくわえてた奴だ。
「俺だ」と彼は言った、「連中はなんでやっこさんをかくさにゃならんのだ?」。その後ろで女が腰をかがめた。太ももがすったり見えた。通りの反対側から大きい犬が近寄ってきた。歯にくわえているのは、車付寝台にねている奴の顔と同じ仮面じゃないか。
突然、強力照明が五つ、ぱっと点いた。その下にいた、微動もせずに、
秘密警察が。新品の黒い帽子。こちらは急いで
シャッターの隙間から逃げる。部屋は隅から隅まで照らされてる、
光の線や帯で--。気づかない失敗の下に強調線を引いてるみたいだ。
テーブルの上には宝石箱と鍵とあいつの靴片方。



 リッツォスの詩には映画的なものが多い。この作品もそうである。舞台(芝居)というより、映画、と感じる。それはアップがあるからだと思う。舞台にはアップはない。しかし、映画にはアップがある。
 3行目の「櫛か。」という短いことばが特徴的だ。それは舞台では見えない。映画でなら櫛のアップで、それがわかる。しかし、それは実は「スクリーン」には映し出されない。詩、だからである。ことばは意識のなかでクローズアップするだけである。ここにリッツォスの詩の一番おもしろいところがある。単なる映画ではなく、意識のスクリーンに映し出される映画なのだ。
 いったん意識のスクリーンが目の前に広がると、あとはカメラは自在に動く。つまり、遠近を自在に動く。ロングもクローズアップも、何の障害もない感じで動き回る。急速に動く。
 街路。シーツ。明かり。そして「消えた煙草」、しかも「くわえてた」という描写。「もの」から「肉体」へ、「肉体」から「もの」へ。その動きの間に「こころ」が差し挟まれる。つまり、「ことば」が。何を言っているのか、そのほんとうの「意味」はわからない。「意味」を超えて、そのときの、映像のアップがかってに物語をつくっていく。
 そして、それは「事件」。物語を超えて、もっと想像力を刺激するものだ。
 意識のスクリーンに映し出される「事件」であるからこそ、何もかもが猛スピードで動く。次々に目新しいものをカメラはクローズアップで映し出す。新しい「もの」と「もの」、映像と映像は、長回しではなく、短いカットの連続だ。カットとカットの間には暗い暗い闇があって、その闇を想像力が駆け回る。ことばはストロボ照明のように強烈に「もの」を映し出す。

光の線や帯で--。気づかない失敗の下に強調線を引いてるみたいだ。

 ああ、しかし、映像だけではない。映像の洪水の中に差し挟まれた、ことば。ことばでしか表現できない意識の動き。意識のクローズアップというより、意識の井戸を深く深く掘って、その瞬間にあらわれる冷たい冷たい水のような新鮮さ。
 なんとうい美しさだろう。
 そういう意識の、一種の裏切りのような鮮やかな超越。映像と意識の固い結びつき。
 そして、もう一度、映像に戻ってくる。その、余韻の孤独。ほうりだされた悲しみのような、未練をひっぱる何か。映像とこころが結びついて、そこに広がる余韻。

テーブルの上には宝石箱と鍵とあいつの靴片方。

 いいなあ、このエンディング。このラストシーン。「片方」という不完全さが、完全さを逆に描き出す。こころのなかに。完全なものがあるのに……という悲しみとして。
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