詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

エドワード・ズウィック監督「ディファイアンス」(★★★)

2009-02-17 21:30:18 | 映画
監督 エドワード・ズウィック 出演 ダニエル・クレイグ

 第二次大戦中、ヒトラーの迫害を逃れ、ベラルーシの森の中で生き続けたユダヤ人たち。その極限の状況を描いている。
 この森がとても美しい。その森へ最初に逃れた兄弟が、「森のことならなんでも知っている」というようなことを冒頭に言う。これが、この映画のひとつの思想である。とても重要な思想である。ひとは、自分たちがよく知っている土地でなら生き延びる方法を探すことができる。生き延びることができる。その土地を知らない人、つまり侵略者は、未知の土地では生きることはできない。征服はできない。
 森の中の何を使えるか、何を使えないか、その森のそばで暮らしつづけてきたひとたちは知っている。逃げるときはどこへ逃げていけばいいかを知っている。木を見れば、傾斜を見れば、それだけで方角がわかる。迷子にはならない。また、どんな方法で進めば安全化、ということも知っている。
 たとえば、クライマックスの川(沼?)を歩いて渡るシーン。モーゼの出エジプト記のように、水は割れない。神は道をつくってくれない。だが、人間は道をつくることができる。ベルト、ロープを繋ぎ合わせ、全員がそれにつながることによって、脱落者がでることを防ぎ、長い長い列が1本の道になり、向こう岸にたどりつくことができる。ただ歩くのではなく、「ロープ」をこの岸から向うの岸へつなぎ、それをたどりながら水を渡るという生き方の応用がここにある。軍の訓練でそれを学ぶのではなく、森で生きる暮らし、その生活の智恵(これこそ、ほんとうの思想)が、そうやって人間を救うのである。いのちを救う生き方こそが、真に思想と呼べるものである。
 この土地と人との結びつき--それが、この映画のひとつの重要な思想である。ユダヤ人は土地を奪われ、さまよいつづける民族といわれるけれど、そのさまよいのさなかでも、暮らしは土地に結びついている。土地としっかり結びついて生きた人間が侵略者の暴力をかわすことができる。土地が、土地そのものが一種の「防御」の働きをするのである。土地は、ある意味では、そこに暮らし人に向けられた試練であるけれど、その試練で鍛えられた智恵は、そのまましっかりした思想になる。何かを克服しなければ生きられない、というのはひとつの矛盾だが、そういう矛盾は、矛盾を超えたときから思想になるのだ。
 声高の主張となってはいないが、描かれた森の美しさが、無言のまま雄弁にそのことを語っている。森は、彼等の住む家のための木材を提供してくれる。火の原料である木を提供してくれる。隙間をふさぐ土を提供してくれる。森にあるものだけで、いくつものものをつくることができる。そこには、いくつもの可能性としての美しさがある。それは生きる苦闘から解放された一瞬には、祝福の輝きとなる。若葉の明るさが美しいのはもちろんのこと、過酷な冬の雪さえ、とても美しい。特に結婚式の雪のシーンの、なんと華やかなこと。雪を愛することを知っているしか撮れない美しさである。
 その森に守られながら、生き延びるユダヤ人たち。地上からの攻撃があり、空からの爆撃もある。その戦いの中で、そこに生きている人間が変わりはじめる。劣等生だった男はリーダーになり、父の死に対して涙を流すことしか知らなかった青年は、リーダーの窮地を救うまでに成長する。恋があり、仲違いがあり、和解があり、横暴があり、不正があり、いさかいがあり、死があり、悲しみがあり、いのちの誕生もある……と、どの社会でも起きることがそのまま起きる。そして、そこにはまた、文学があり、音楽があり、ダンスがある。チェスといった遊びがある。その、どの社会でも起きることが起き、どの社会でもある楽しみがあるから、人間は成長できるかもしれない。それもこれもみな、森がそこにあるからである。その森で生き抜いたひとが美しいのはもちろんだが、そのひとたちを抱きしめつづけた森もとても美しい。ほんとうに久々に美しい森を見た。



エドワード・ズウィック監督は、「ブラッド・ダイヤモンド」「ラスト・サムライ」「戦火の勇気」なども撮っています。



ブラッド・ダイヤモンド [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井本元義『レ モ ノワール』

2009-02-17 11:43:27 | 詩集
井本元義『レ モ ノワール』(書肆侃侃房、2008年10月20日発行)

 ことばの動きが律儀である。「満ちてくる水」の書き出し。

僕は身を隠すためにここに来たのだった
長い間使われていない倉庫群
錆びた廃線のレールに沿って白い小さな花が咲いている
僕は運河のほとりに佇む
水は透明なのか不透明なのかわからない
真っ黒だからだ

 運河のそばの倉庫群。その倉庫群はすでに活気はない。倉庫群とつながるレールはすでに廃線になっている。かつたの繁栄の代わりに白い小さな花が咲いている。この対比の中で「僕」は「倉庫」「廃線」の側に属している。「身を隠す」というのは、すでに誰からも見向かれなくなった「倉庫」「廃線」と自己を重ね、同一のものとなって溶け込むということである。
 ことばは互いに補足しあい、「意味」を深めていく。「感情」を深めていく。その動きはほんとうに「律儀」としかいいようがない。それはたとえていえば、数学の証明のようである。
 「僕は身を隠すために」の「ために」や、「水は透明なのか不透明なのかわからない/真っ黒だからだ」という結果(現象)と「原因」をきちんと説明することばの運動に、特にそういう性質を感じる。
 こういう性質のことばは、それをきちんと守っているあいだは美しい。しかし、そこに余分なものがはいるととたんに醜くなる。数学の証明は余分な径路をたどると奇妙になる。同じ答えにたどりついたとしても、変な脇道をたどったものと、いちばん単純な径路をたどったものとを比較すると、単純なものがどうしても美しく見える。
 1連目は、いわば、すっきりした証明である。ところが、2連目。

闇が降りてくる
僕の足元は揺れる
否 停滞していた運河が動きだす
かすかな漣が踊り子の舞いのように見えていたのに
逆流が次第に速さを増す
満ちてくる波の激しさ
流れが岸を打ち 雑草が気流に揺れる
鞭打たれた追われる罪なき囚人の群れ

 運河に塩が逆流してくる(海の近くなのだろう)。そのために「僕」が揺れて感じる。このときのことばの運動「僕の足元は揺れる/否 停滞していた運河が動きだす」、現象と原因の分析、そこから「逆流」ということばを導き出してくる運動も証明としてとても自然だ。美しい。しかし、

かすかな漣が踊り子の舞いのように見えていたのに

 これは何だろう。「踊り子の舞い」と何? このことばはどこから出てきたのだろう。引用はしないが、最後まで読んでも「僕」と「踊り子」を結びつける関係が出てこない。「踊り子」は「僕」の生活と無関係である。
 「鞭打たれた追われる罪なき囚人」は「雑草」の比喩であり、それはまた、「僕」自身の立場(たとえば、資本家に搾取される労働者)の比喩ともなりうるだろうが、「踊り子」は?
 たぶん「踊り子の舞い」は井本の生活とは無関係なのである。生活とは無関係であるけれど、そのことば、そのイメージだけを「文学」として知っている。「文学」が突然、「僕」の生活の「数学」に混じってきたのである。これは醜い。
 「漣」もおなじである。「踊り子の舞い」のように、井本が「文学」で読んだことばが、ふいにここに噴出してきている。その噴出を抑えるということができていない。

 井本はことばを生活をもとに動かしてはない。もちろん、そういう作品があるのはかまわないが、これはまた別の問題である。
 井本は、最初から、「文学」のことばを使いながら「数学」をやっているのかもしれない。「身を隠す」「長い間使われていない」「錆びた廃線」「佇む」。そうしたことばのなかにはひとつの「空気」がある。敗北の空気がある。そしてセンチメンタルがとても強く匂う。そのセンチメンタルに誘われて「漣」「踊り子の舞い」が滲み出てきたのである。こういう滲み出てき方は、ほんとうに醜い。ことばに対して井本には無意識な部分がある。



 


レ モ ノワール 黒い言葉
井本 元義
書肆侃侃房

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リッツォス「紙細工(1971年)」より(4)中井久夫訳

2009-02-17 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)

ありとあらゆるものが秘密。
石の影も、
鳥の爪も、
糸巻きも、
椅子も、
この詩も。

 秘密とはなんだろう。秘密のままであるとき、秘密ではない。秘密でなくなったとき、秘密だったということが明らかになる。秘密にしていたことが明らかになる。
 --こういう読み方、「意味」を求める読み方は、ことばを窮屈にする。だから、これ以上は書かない。
 この詩の中にある「糸巻き」ということばにひかれた。リッツォスの詩に何度か出てくる。「石」も「椅子」も出てくるけれど、なぜが「糸巻き」ということばにリッツォスを感じる。ほかの詩人はあまり取り上げないのかもしれない。特に、こんなふうな、ことばが飛躍していく詩の場合は。なんらかの、それこそ秘密があるのかもしれない。このことばが好き、という理由が。その理由をわからないままにしておく。私は、そういう状態が好きだ。わからないままのものがそこにあり、ふっとしたときに、そのことばに自然に視線がいって、そこで立ち止まる瞬間が。
 説明はできないけれど、詩を感じているのである。そういうときは。


この吐き気は
病にあらず、
一つの答えなり。

 こうした箴言は、私にはよくわからない。箴言だけの断章がほかにあるかどうかわからない。なんとなくリッツォスらしくない、と私は感じる。


彼等は美しかった(覚えているか?)。
ひとたと前に歩いた。
ひたと前を見ていた。
歌を歌い、
槍を直立させてた、
高々と。
ただ旗がないのを知らなかった。

 「ひたと」と「直立」がことば全体を引き締めている。その引き締まったことばの運動を、最後の欠如が、さびしいものにする。このさびしさにリッツォスの特徴がある。リッツォスのことばは、いつもさびしさと向き合っている。そして、さびしさと向き合ったものを「美しかった」と呼んでいる。
 リッツォスにとって、「美」と「さびしさ」(孤独)はいつも同居している。「にぎやか」なものより、「さびしい」ものの方がリッツォスにとっては詩である。


荒い風の中、
高く、高く、
一等白い鴎の高みより、
自由が。

 この中井訳には「動詞」がない。「自由が」の述語がない。リッツォスの詩そのものにないのか。あるいは、中井が省略したのか。私には中井が省略したように思える。まだ、その述語(動詞)にふさわしい日本語が見つからないのだと思う。訳すだけなら訳せるだろうけれど、その日本語では、日本語にならない--そう思っているのかもしれない。
 荒い風--その厳しさのなかの、高さ。さらに高い高さ。このことばのなかにも、リッツォスの孤高とさびしさがある。孤独(孤高)とさびしさは、前の断章で「美」であった。それにいま、「自由」がくわわった。
 「動詞」(述語)がないのは、そこに描かれたものが「ひとつ」ではないからだ。
孤高と美と自由が溶け合っている。いまは「自由」と書かれているけれど、それは「自由」だけを指してはいない。だからひとつの動詞(述語)でくくってしまうことはできないのだ。
 --そう考えると、リッツォス自身が「動詞」を書いていないともみえるけれど。

 この詩でおもしろいのは、そういう孤高、美、自由を、また「鴎」とも結びつけていることである。あらゆる概念は「もの」と結びついてたしかなものになる。「鴎」のなかに孤高、美、自由をみるとき、それは鴎が孤高、美、自由に見えるのか。それとも孤高、美、自由が、冬の鴎に見えるのだろうか。区別がつかない。書いてしまうと、よけいに区別がつかなくなる。
 たぶん、この区別がつかなくなるという一瞬が詩なのである。


          (今回で中井久夫訳「リッツォス詩集」の紹介はおわりです。)


括弧―リッツォス詩集
ヤニス リッツォス
みすず書房

このアイテムの詳細を見る
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする