詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

古谷鏡子「昔のはなし」、樋口伸子「ノヴァ・スコティア」

2009-02-26 10:36:06 | 詩(雑誌・同人誌)
古谷鏡子「昔のはなし」、樋口伸子「ノヴァ・スコティア」(「六分儀」34、2009年02月18日発行)

 古谷鏡子「昔のはなし」の3連目で私は考え込んだ。

空はやはり青いのである それで
青い、を深いといいかえてみる
深ければ深いだけ青さは濃くなる濃くなってやがて闇に落ちてゆくだろう
闇の底にあって
その闇のむこうになお青さを湛えていると
わたしは信じていたい そうでなければわたしもこの闇の淵に溺れてしまう
闇のむこうの青
青の極致たる闇の世
青い空のはるかむこうのことについて
にんげんは
いとも簡単に
無限という言葉を発明した

 青い空のむこうに宇宙がある。宇宙は暗い闇でできている。そして宇宙は無限である。しかし、その無限のむこうに、なお青が存在すると考えるということだろうか。
 その論理が正しいかどうか私は知らない。詩なのだから、それが真理であっても嘘であっても私はかまわないと思うけれど。
 私がこの作品を読みながら、ええっ、と思わず声に出してしまうほど驚いたのは、「青い、を深いといいかえてみる」という行である。そして、それが「それで」ということばで結びついていることである。
 「それで」って何? 「それで」って、どういう意味? 「空が青い」からといって、なぜ「青い」を「深い」に言い換えてみる必要がある?

 このすべてに、私は「答え」を出すことができない。だから、私は「それで」を古谷の「思想」(キーワード)だと考える。
 「それで」はなんらかの「理由」を導くためのことばだと思う。「それゆえに」の「口語」だろうと思う。そして、その「それで」には、実は、他人を説得するだけの根拠はない。
 朝目を覚ましたら9時だった。「それで」会社の始業時間9時に出社することはできなかった。遅刻した。--というのなら「それで」の「それ」は「9時に目を覚ました」を指し、「9時に出社できなかった」を説明する根拠になる。同じ時間に人間は離れた場所に存在できないという「定理」があるからである。
 ところが、古谷の「それで」にはどんな「定理」もない。「定理」がないのに、「それで」と書いてしまう。「それで」は古谷の「肉体」のなかで、ことばとことばをしっかりむすびつけてしまっていて、それを分離することができない状態にしている。それは古谷の「肉体」そのものなのだ。
 論理があって、「それで」ということばを使っているのではないのだ。「それで」という「論理的な」(?)ことばを利用して、そこから論理を探しはじめるのだ。論理的になるために(?)、「それで」を無意識に使っているのである。
 こういう詩人本人が無意識に使ってしまうことば、どうしても「肉体」からきりはなせないもの、そのひとのことばの「いのち」のようなもの--それを私は「キーワード」(思想)と呼んでいるのだが、古谷は「それで」に頼ってしかことばを動かせない。ことばを動かそうとすると、いつでも「それで」(それでも)が侵入して来る。理不尽(他人には理解できない)理由づけがいつでも侵入して来る。
 「それで」(それでも)が書かれていない部分にも(つまり、いくつもの行間に)、「それで」(それでも)が隠れている。
 たとえば、3連目。

きのうわたしはむしょうに人が恋しかった
きょうわたしにはだれの言葉もとどいてこない
隅っこの書けたこの石の道をわたしはたしかに通った

 この引用部分の2行目と3行目のあいだには「それでも」が隠れている。「それでも」この道を通ったことは確かである、と古谷はいうのである。このときの「それで(も)」は、古谷の「肉体」だけが納得することばであって、読者は、それを論理的にはたどれない。信じるか、信じないか、それだけである。(同じような形のことばがくりかえされる1連目では、「それで(も)」は「だからといって」という形をとっている。同じ意味である。)
 信じてくれ、と古谷の「肉体」は言う。その「肉体」の声が聞き取れるかどうかが問題になる。好みの問題になるだろうけれど、私は、こういう理不尽な(?)欲望に突き動かされて動いていくことばを読むのは好きである。「他人」というものは、いつでも「理不尽」な姿をとってあらわれてくるもの、と思うからである。



 樋口伸子「ノヴァ・スコティア」は「ノヴァ・スコティア」という音に「肉体」をのっとられた記録である。知らない外国の街(州)の名前なのだが、それを声にしていると気持ちがいい。その気持ちのよさにつられて、どんどんことばが増えていく。知らない人にも出会ってしまう。その最後の部分。

飽きずに海とあいさつを交わし
立ち上がるときにお婆さんが
どっこいしょと言ったので
とてもおかしかった

どっこいしょ だって
ノヴァ・スコティア

 「ノヴァ・スコティア」は地名を通り越して、樋口の「肉体」の友人のような存在になってしまっている。そんなふうになるまでの過程(引用はしないので、同人誌で読んでください)が、とても楽しい。私の耳や口蓋には「ノヴァ・スコティア」は、魅惑的な音ではないけれど、その音を楽しんでいる樋口の姿が見えるのでおもしろい。
 
 古谷の論理をおいつづける「肉体」のことばは体調がよいときでないと苦しいかもしれないが、この樋口のことばは体調がよくないときでも楽しい。いや、逆かな。古谷のことばは私の体調とは無関係に、同じ調子で響いて来るけれど、樋口のことばはモーツァルトの音楽がそうであるように、体調がいいときは楽しいけれど、よくないときはなぜ樋口だけこんなに楽しんでいる?と、怒りたい気持ちになるかもしれない。


 


眠らない鳥―詩集
古谷 鏡子
花神社

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ジョニー・トー監督「エグザイル/絆」(★★★)

2009-02-26 10:14:23 | 映画
監督 ジョニー・トー 出演 アンソニー・ウォン、フランシス・ン

 暗黒街の5人男たちの友情を描いている。少し変わっているのは、その5人が3人と2人に分かれ、敵対する組織に属することである。3人組の方のひとりが対立する組織のボスを銃撃したために、2人から命を狙われる。仲間の方の2人は彼を守ろうとする。
 という話はどうでもよくて、この映画では銃撃戦をいかにかっこよく見せるか--ということに力点が置かれている。缶コーク(?)を空中に放り上げ、それが落ちて来るまでのあいだに銃撃戦でけりをつける。そのことを5人とも「命題」にしている。そして、どんなときもびくびくしない。堂々と構えて銃撃戦に臨む。そんなことは実際にはありえないだろうけれど、そういう実際にありえないものを形として美しく見せる。俳優たちの銃撃のときの肉体がとても美しい。また、ドアや机などを防御壁につかったり、逆にそれを攻撃の道具として投げつけたりするシーンにも、肉体の疲労が少しも見えず、とても美しい。映像をスタイリッシュに見せる。「かっこいい」とはこういうシーンのためにあるのだ、という気持ちになる。快感である。
 ところが。
 その快感のでどころ(?)が、ちょっとイヤでもある。こういうありもしない映像をスタイリッシュでかっこいいと思う気持ち、その快感はどこから来ているのか。
 ジョニー・トー監督はこの映像のあと、ちょっと一休みという感じで(あとで、もういちど激しい銃撃戦--クライマックスがある)、4人の逃避行を描く。5人の対立の原因となっている1人が死に、残りの4人が「裏切り者」として狙われる、逃げるのである。そのとき、金塊1トンを強奪するという話を思い出す。そして、そのあと「金塊1トンは重いのか」(4人ともメートル法を知らない。香港が中国に返還される前なので、ポンドか斤の単位しか知らない)から問答がはじまって、「愛1トンは重いのか」「疲労1トンは重いのか」というようなことばがつづく。「……は重いのか」と統一されたスタイルで、現実から感情、肉体までをぱっと切り取る。このことば、詩みたいで、とてもかっこいい。「現代詩」に拝借したいくらいである。
 この詩に拝借したいようなかっこよさ、そのことばの「わざと」繰り出されるかっこよさと、先に書いた銃撃戦のかっこよさが、ぴったり重なるのである。現実にはありえない(無意味な)運動。その運動の主体は、「肉体」(銃撃のアクション)と「ことば」(現代詩まがいのせりふ)と、まったく違ったものなのだが、「わざと」という点でぴったり重なるのである。そして、それは何といえばいいのだろうか、一種の「抒情」なのである。「抒情的」な「わざと」なのである。ことばが「抒情的」でるあるのはいいとしても、銃撃戦も抒情的であっては、なんだかみっともない(?)と感じてしまう。抒情ではなく、鍛えられた超人的な肉体だけが可能なアクションならいいけれど……。
 言い換えると。
 たとえば、4人が超人的に走る、飛ぶ、というようなアクションをしながら銃撃し合うのならいいけれど、そうではない。彼等の銃撃戦は、狭い室内で行われる。そこでは人間は走るという行動をとらなくていい。隠れる(銃弾を避ける)にしても数メートルと動かない。それは投げ上げた缶が落ちるまでという時間が象徴しているように、いわば「短距離競走」のリズムなのである。短距離競走をスローモーションで見せるリズムなのである。現実の動きを微分し、その一瞬一瞬を美的に整えて見せているだけであって、そこではほんとうは肉体は苦悩していない。あるアクションを、たんに視点をかえて見せただけなのである。この「わざと」は、あきる。あきてしまう。
 映画のアクションには、それが嘘とわかっていても、最近の「007」や「ボーン・アルティメイタム」のように、広い空間を主人公が全力で走りつづける「持続」的な広がりが必要なのだ。空間と時間を超人的に動き回り、観客の「肉体」に働きかけて来ないと意味がない。価値がない。スタイリッシュな映像で「頭」にだけ働きかけて来るアクションでは、役者が「肉体」をもっている意味がない。あの「肉体」(あの顔、あの背の高さ、あの足の長さ、あの筋肉の鍛え方)がかっこいい、という印象、特権的肉体を見せつけないアクションは「抒情」に過ぎない。快感は、完全に錯覚に成り下がってしまう。




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『田村隆一全詩集』を読む(7)

2009-02-26 00:00:00 | 田村隆一
 ことばが自律運動をする。その先に何があるのか。それを理解して書きはじめる詩人はいないだろう。何があるかわからないから書きはじめるだ。止まっていては倒れるから、走りつづけるのだ。
 「十月」。

危機はわたしの属性である
わたしのなめらかな皮膚の下には
はげしい感情の暴風雨があり 十月の
淋しい海にうちあげられる
あたらしい屍体がある

  十月はわたしの帝国だ
  わたしのやさしい手は失われるものを支配する
  わたしのちいさな瞳は消えさるものを監視する
  わたしのやわらかい耳は死にゆくものの沈黙を聴く

 どのことばにも疾走感がある。そして、そのことばにはひとつの特徴がある。2種類のことばの出会いが「疾走感」を演出している。つまり、2種類のことばが「わざと」出会わされ、衝突させられ、そこにいままで存在しなかった「声」を生み出している。
 2連目が特徴的である。
 身体・肉体を修飾することばは、「ひらがな」で書かれ、やわらかい。「やさしい」手、「ちいさな」瞳、「やわらかい」耳。これに対して、その響き、眼の印象とは対極にあることばがぶつけられる。「支配する」「監視する」。肉体のやわらかさ、弱さに対して、なにかしら固いことばがぶつかる。ふさわしい漢字熟語がないときは「沈黙を聴く」と、動詞の前に漢字熟語をもってくる。その衝突のあいだには、「失われる」もの、「消えさる」もの、「死にゆく」ものという緩衝材がある。そこにはていねいに漢字が1文字ずつ割り振られている。
 ここに書かれているのは「意味」ではない。イメージでもない。ことばの運動の仕方である。
 やさしい身体・肉体→はかないもの→漢字熟語。この運動を、1連目のことばで言い直せば「はげしい感情の暴風雨」になる。いや、言い方が逆だった。「はげしい感情の暴風雨」を2連目で、田村は、そんなふうに書き直しているのだ、というべきだった。
 何を書くのかほんとうはわかっていない。「危機」と書き「属性」と書き、「はげしい感情の暴風雨」ということばにたどりつく。そのあと、そのことばが動いていく先に、やさしい身体・肉体→はかないもの→漢字熟語ということばの運動があるのだ。

 きのう私は、田村のことばの運動、矛盾したものの衝突は、やがて矛盾を超越する。それは止揚ではない、と書いたが、その運動が止揚ではないというのは、ある「発展」をめざしているわけではない、と言い換えることができるかもしれない。
 弁証法(止揚の論理)は、発展を前提としている。いわば矛盾は「予定調和」の内にはいってしまっている。
 しかし、詩のことばは「発展」を前提としていない。むしろ、発展を破壊してしまうことを前提としている。発展へ向けて動く何か、未来を(?)形成しようとするときの、その「イメージ」(形成された何か)を破壊しようとして動く。言い換えれば、発展、形成ではなく、根源へ、混沌へむけて動き、その混沌のエネルギーそのものになろうとしている。ものが生まれる前の、「いのち」そのものになろうとしている。
 矛盾は、詩にとって必然なのである。
 定まった明瞭な形をめざしているのではなく、何も定まっていない状態、何にでもなりうる「自由」なエネルギーをめざしている。「わたし」を発展させるのではなく、「わたし」を「わたし以前」に引き戻そうとしている。「わたし」を「わたし」たらしめているものはいろいろあるが、たとえば社会的な位置というものもそうかもしれないが、そういう「わたし」である前の、だれでもない「いのち」の状態を復元しようとしている。

 「死者を甦らせる」ということばが「四千の日と夜」に出て来るが、死者を甦らせるというのは、たんに生きている状態にするということではなく、彼が生まれる前の状態にするということである。
 「十月の詩」の1連目、「淋しい海岸にうちあげられる/あたらしい屍体がある」の「屍体」も同じである。それは甦るべき死者である。それはすべての存在を、生まれる前に引き戻すための道しるべなのだ。死者を破壊し、いのちを死へとむけて動かしたすべての止揚を(弁証法を)拒絶する。ただ、純粋な「いのち」に還るための北極星のようなものなのだ。



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