古谷鏡子「昔のはなし」、樋口伸子「ノヴァ・スコティア」(「六分儀」34、2009年02月18日発行)
古谷鏡子「昔のはなし」の3連目で私は考え込んだ。
青い空のむこうに宇宙がある。宇宙は暗い闇でできている。そして宇宙は無限である。しかし、その無限のむこうに、なお青が存在すると考えるということだろうか。
その論理が正しいかどうか私は知らない。詩なのだから、それが真理であっても嘘であっても私はかまわないと思うけれど。
私がこの作品を読みながら、ええっ、と思わず声に出してしまうほど驚いたのは、「青い、を深いといいかえてみる」という行である。そして、それが「それで」ということばで結びついていることである。
「それで」って何? 「それで」って、どういう意味? 「空が青い」からといって、なぜ「青い」を「深い」に言い換えてみる必要がある?
このすべてに、私は「答え」を出すことができない。だから、私は「それで」を古谷の「思想」(キーワード)だと考える。
「それで」はなんらかの「理由」を導くためのことばだと思う。「それゆえに」の「口語」だろうと思う。そして、その「それで」には、実は、他人を説得するだけの根拠はない。
朝目を覚ましたら9時だった。「それで」会社の始業時間9時に出社することはできなかった。遅刻した。--というのなら「それで」の「それ」は「9時に目を覚ました」を指し、「9時に出社できなかった」を説明する根拠になる。同じ時間に人間は離れた場所に存在できないという「定理」があるからである。
ところが、古谷の「それで」にはどんな「定理」もない。「定理」がないのに、「それで」と書いてしまう。「それで」は古谷の「肉体」のなかで、ことばとことばをしっかりむすびつけてしまっていて、それを分離することができない状態にしている。それは古谷の「肉体」そのものなのだ。
論理があって、「それで」ということばを使っているのではないのだ。「それで」という「論理的な」(?)ことばを利用して、そこから論理を探しはじめるのだ。論理的になるために(?)、「それで」を無意識に使っているのである。
こういう詩人本人が無意識に使ってしまうことば、どうしても「肉体」からきりはなせないもの、そのひとのことばの「いのち」のようなもの--それを私は「キーワード」(思想)と呼んでいるのだが、古谷は「それで」に頼ってしかことばを動かせない。ことばを動かそうとすると、いつでも「それで」(それでも)が侵入して来る。理不尽(他人には理解できない)理由づけがいつでも侵入して来る。
「それで」(それでも)が書かれていない部分にも(つまり、いくつもの行間に)、「それで」(それでも)が隠れている。
たとえば、3連目。
この引用部分の2行目と3行目のあいだには「それでも」が隠れている。「それでも」この道を通ったことは確かである、と古谷はいうのである。このときの「それで(も)」は、古谷の「肉体」だけが納得することばであって、読者は、それを論理的にはたどれない。信じるか、信じないか、それだけである。(同じような形のことばがくりかえされる1連目では、「それで(も)」は「だからといって」という形をとっている。同じ意味である。)
信じてくれ、と古谷の「肉体」は言う。その「肉体」の声が聞き取れるかどうかが問題になる。好みの問題になるだろうけれど、私は、こういう理不尽な(?)欲望に突き動かされて動いていくことばを読むのは好きである。「他人」というものは、いつでも「理不尽」な姿をとってあらわれてくるもの、と思うからである。
*
樋口伸子「ノヴァ・スコティア」は「ノヴァ・スコティア」という音に「肉体」をのっとられた記録である。知らない外国の街(州)の名前なのだが、それを声にしていると気持ちがいい。その気持ちのよさにつられて、どんどんことばが増えていく。知らない人にも出会ってしまう。その最後の部分。
「ノヴァ・スコティア」は地名を通り越して、樋口の「肉体」の友人のような存在になってしまっている。そんなふうになるまでの過程(引用はしないので、同人誌で読んでください)が、とても楽しい。私の耳や口蓋には「ノヴァ・スコティア」は、魅惑的な音ではないけれど、その音を楽しんでいる樋口の姿が見えるのでおもしろい。
古谷の論理をおいつづける「肉体」のことばは体調がよいときでないと苦しいかもしれないが、この樋口のことばは体調がよくないときでも楽しい。いや、逆かな。古谷のことばは私の体調とは無関係に、同じ調子で響いて来るけれど、樋口のことばはモーツァルトの音楽がそうであるように、体調がいいときは楽しいけれど、よくないときはなぜ樋口だけこんなに楽しんでいる?と、怒りたい気持ちになるかもしれない。
古谷鏡子「昔のはなし」の3連目で私は考え込んだ。
空はやはり青いのである それで
青い、を深いといいかえてみる
深ければ深いだけ青さは濃くなる濃くなってやがて闇に落ちてゆくだろう
闇の底にあって
その闇のむこうになお青さを湛えていると
わたしは信じていたい そうでなければわたしもこの闇の淵に溺れてしまう
闇のむこうの青
青の極致たる闇の世
青い空のはるかむこうのことについて
にんげんは
いとも簡単に
無限という言葉を発明した
青い空のむこうに宇宙がある。宇宙は暗い闇でできている。そして宇宙は無限である。しかし、その無限のむこうに、なお青が存在すると考えるということだろうか。
その論理が正しいかどうか私は知らない。詩なのだから、それが真理であっても嘘であっても私はかまわないと思うけれど。
私がこの作品を読みながら、ええっ、と思わず声に出してしまうほど驚いたのは、「青い、を深いといいかえてみる」という行である。そして、それが「それで」ということばで結びついていることである。
「それで」って何? 「それで」って、どういう意味? 「空が青い」からといって、なぜ「青い」を「深い」に言い換えてみる必要がある?
このすべてに、私は「答え」を出すことができない。だから、私は「それで」を古谷の「思想」(キーワード)だと考える。
「それで」はなんらかの「理由」を導くためのことばだと思う。「それゆえに」の「口語」だろうと思う。そして、その「それで」には、実は、他人を説得するだけの根拠はない。
朝目を覚ましたら9時だった。「それで」会社の始業時間9時に出社することはできなかった。遅刻した。--というのなら「それで」の「それ」は「9時に目を覚ました」を指し、「9時に出社できなかった」を説明する根拠になる。同じ時間に人間は離れた場所に存在できないという「定理」があるからである。
ところが、古谷の「それで」にはどんな「定理」もない。「定理」がないのに、「それで」と書いてしまう。「それで」は古谷の「肉体」のなかで、ことばとことばをしっかりむすびつけてしまっていて、それを分離することができない状態にしている。それは古谷の「肉体」そのものなのだ。
論理があって、「それで」ということばを使っているのではないのだ。「それで」という「論理的な」(?)ことばを利用して、そこから論理を探しはじめるのだ。論理的になるために(?)、「それで」を無意識に使っているのである。
こういう詩人本人が無意識に使ってしまうことば、どうしても「肉体」からきりはなせないもの、そのひとのことばの「いのち」のようなもの--それを私は「キーワード」(思想)と呼んでいるのだが、古谷は「それで」に頼ってしかことばを動かせない。ことばを動かそうとすると、いつでも「それで」(それでも)が侵入して来る。理不尽(他人には理解できない)理由づけがいつでも侵入して来る。
「それで」(それでも)が書かれていない部分にも(つまり、いくつもの行間に)、「それで」(それでも)が隠れている。
たとえば、3連目。
きのうわたしはむしょうに人が恋しかった
きょうわたしにはだれの言葉もとどいてこない
隅っこの書けたこの石の道をわたしはたしかに通った
この引用部分の2行目と3行目のあいだには「それでも」が隠れている。「それでも」この道を通ったことは確かである、と古谷はいうのである。このときの「それで(も)」は、古谷の「肉体」だけが納得することばであって、読者は、それを論理的にはたどれない。信じるか、信じないか、それだけである。(同じような形のことばがくりかえされる1連目では、「それで(も)」は「だからといって」という形をとっている。同じ意味である。)
信じてくれ、と古谷の「肉体」は言う。その「肉体」の声が聞き取れるかどうかが問題になる。好みの問題になるだろうけれど、私は、こういう理不尽な(?)欲望に突き動かされて動いていくことばを読むのは好きである。「他人」というものは、いつでも「理不尽」な姿をとってあらわれてくるもの、と思うからである。
*
樋口伸子「ノヴァ・スコティア」は「ノヴァ・スコティア」という音に「肉体」をのっとられた記録である。知らない外国の街(州)の名前なのだが、それを声にしていると気持ちがいい。その気持ちのよさにつられて、どんどんことばが増えていく。知らない人にも出会ってしまう。その最後の部分。
飽きずに海とあいさつを交わし
立ち上がるときにお婆さんが
どっこいしょと言ったので
とてもおかしかった
どっこいしょ だって
ノヴァ・スコティア
「ノヴァ・スコティア」は地名を通り越して、樋口の「肉体」の友人のような存在になってしまっている。そんなふうになるまでの過程(引用はしないので、同人誌で読んでください)が、とても楽しい。私の耳や口蓋には「ノヴァ・スコティア」は、魅惑的な音ではないけれど、その音を楽しんでいる樋口の姿が見えるのでおもしろい。
古谷の論理をおいつづける「肉体」のことばは体調がよいときでないと苦しいかもしれないが、この樋口のことばは体調がよくないときでも楽しい。いや、逆かな。古谷のことばは私の体調とは無関係に、同じ調子で響いて来るけれど、樋口のことばはモーツァルトの音楽がそうであるように、体調がいいときは楽しいけれど、よくないときはなぜ樋口だけこんなに楽しんでいる?と、怒りたい気持ちになるかもしれない。
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