豊原清明「荒磯(いそ)海のシンとジン」(「白黒目」15、2009年01月発行)
豊原清明は「肉体」をよく知っている。いつも、そう思う。「頭」でなにごとかを整理し、ととのえるのではなく。「肉体」でなじませる。そして、そのことを「ことば」にできる。「肉体」とことばがきちんと向き合っている。
「荒磯(いそ)海のシンとジン」の1連目。
この5行は、とてつもなくスピードが速い。「飯をかきこ」みから「爪楊枝やエンピツを」「吸っていた」までの時間はかなり長い。その長い時間が「肉体」のなかで凝縮され、きちんと形になる。「頭」で書くと、こんなぐあいに速くならない。「何を見ても 聞いても 読んでも」で「見たもの 聞いたもの 読んだもの」に寄り道をしてしまう。その対象についてことばをつかってしまい、「頭」がどんどん「肉体」から離れて行ってしまう。もちろんそうした書き方をしてもいいのだが、豊原はそういう寄り道をしない。「頭」だけをどこかへ暴走させるということをしない。むしろ、そういう、いわば現代詩に多い暴走を振り捨てる。いつも「肉体」へ還る。
別な言い方をしよう。
このとき豊原は何を考えているか。何も考えていない。「考え」というものを捨てているのだ。どういう「考え」を捨てているかというと、「腹が立ってきた」原因となるすべてのものを捨てているのである。「頭」で考えられることを全部捨てる。
「肉体」へ還るとは、そういうことをいう。「無」になる、といってもいい。「頭」を「無」の状態にして、ただ世界を呼吸する。「煙草」を吸うふりをしながら、世界そのものを呼吸する。そこにある「空気」を吸い込み、自分の中にたまっている余分な空気、「頭」で汚れた空気を吐き出す。
そうすると、突然、「頭」ではとらえられないものがぱっとあらわれる。
2連目。
世界には「頭」を捨てないと見えないものがある。そのことを豊原は「肉体」で知っている。
「頭」の捨て方はいろいろある。ことばを暴走させるのも、ある意味で、「頭」を捨てることである。「頭」をつかって「頭」を捨てることである。
豊原は、そういう捨て方ではなく、「肉体」と空気をなじませる。それは、私の感覚では、とても俳句に似ている。そこにある「もの」と同じ空気を呼吸し、同じ空気そのものになる。そのとき、対象である「もの」と「私」のあいだで空気が行き交いまじるのだが、それはまるで「もの」と「私」が空気を呼吸しているのではなく、空気そのものが「もの」と「私」を呼吸しているかのように、区別がつかなくなる。世界が「頭」を捨てて、互いを許しあう。溶け合う。溶け合いながら、同時に、くっきりと存在する。
そういう感じの俳句も、この「白黒目」には掲載されている。
あ、いいなあ。春の光が、触れるくらいにくっきり見える。その感触は「瞬間」のものではない。また、ずーっと、というのでもない。先に触れた「脚本」のなかにでてきたことばを使って言えば、「ある程度」という感じのものである。そして、その「ある程度」という感じが、不思議と「永遠」を感じさせる。「ある程度」という幅、遊び、余裕の中に、温かい喜びがある。
豊原清明は「肉体」をよく知っている。いつも、そう思う。「頭」でなにごとかを整理し、ととのえるのではなく。「肉体」でなじませる。そして、そのことを「ことば」にできる。「肉体」とことばがきちんと向き合っている。
「荒磯(いそ)海のシンとジン」の1連目。
僕は飯をかきこみながら
映画情報番組を観ていた
次第に何故か腹が立ってきた
何を見ても 聞いても 読んでも
すべて暗く見えてくる
僕はベランダで煙草代わりに
爪楊枝やエンピツを
代わりがわりに吸っていた
この5行は、とてつもなくスピードが速い。「飯をかきこ」みから「爪楊枝やエンピツを」「吸っていた」までの時間はかなり長い。その長い時間が「肉体」のなかで凝縮され、きちんと形になる。「頭」で書くと、こんなぐあいに速くならない。「何を見ても 聞いても 読んでも」で「見たもの 聞いたもの 読んだもの」に寄り道をしてしまう。その対象についてことばをつかってしまい、「頭」がどんどん「肉体」から離れて行ってしまう。もちろんそうした書き方をしてもいいのだが、豊原はそういう寄り道をしない。「頭」だけをどこかへ暴走させるということをしない。むしろ、そういう、いわば現代詩に多い暴走を振り捨てる。いつも「肉体」へ還る。
別な言い方をしよう。
僕はベランダで煙草代わりに
爪楊枝やエンピツを
代わりがわりに吸っていた
このとき豊原は何を考えているか。何も考えていない。「考え」というものを捨てているのだ。どういう「考え」を捨てているかというと、「腹が立ってきた」原因となるすべてのものを捨てているのである。「頭」で考えられることを全部捨てる。
「肉体」へ還るとは、そういうことをいう。「無」になる、といってもいい。「頭」を「無」の状態にして、ただ世界を呼吸する。「煙草」を吸うふりをしながら、世界そのものを呼吸する。そこにある「空気」を吸い込み、自分の中にたまっている余分な空気、「頭」で汚れた空気を吐き出す。
そうすると、突然、「頭」ではとらえられないものがぱっとあらわれる。
2連目。
荒磯海のシンとジン
ふたりは仲良し 大好きな
妖精
荒波に飲み込められる
子供たちのために
天からのやさしい妖精
蚊のように小さくて
体は脳波の線のように
目を白黒させないと
見えないし触れない
世界には「頭」を捨てないと見えないものがある。そのことを豊原は「肉体」で知っている。
「頭」の捨て方はいろいろある。ことばを暴走させるのも、ある意味で、「頭」を捨てることである。「頭」をつかって「頭」を捨てることである。
豊原は、そういう捨て方ではなく、「肉体」と空気をなじませる。それは、私の感覚では、とても俳句に似ている。そこにある「もの」と同じ空気を呼吸し、同じ空気そのものになる。そのとき、対象である「もの」と「私」のあいだで空気が行き交いまじるのだが、それはまるで「もの」と「私」が空気を呼吸しているのではなく、空気そのものが「もの」と「私」を呼吸しているかのように、区別がつかなくなる。世界が「頭」を捨てて、互いを許しあう。溶け合う。溶け合いながら、同時に、くっきりと存在する。
そういう感じの俳句も、この「白黒目」には掲載されている。
草雲雀ゆっくりとしたカーブ球
あ、いいなあ。春の光が、触れるくらいにくっきり見える。その感触は「瞬間」のものではない。また、ずーっと、というのでもない。先に触れた「脚本」のなかにでてきたことばを使って言えば、「ある程度」という感じのものである。そして、その「ある程度」という感じが、不思議と「永遠」を感じさせる。「ある程度」という幅、遊び、余裕の中に、温かい喜びがある。