詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「荒磯(いそ)海のシンとジン」

2009-02-13 10:21:33 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「荒磯(いそ)海のシンとジン」(「白黒目」15、2009年01月発行)

 豊原清明は「肉体」をよく知っている。いつも、そう思う。「頭」でなにごとかを整理し、ととのえるのではなく。「肉体」でなじませる。そして、そのことを「ことば」にできる。「肉体」とことばがきちんと向き合っている。
 「荒磯(いそ)海のシンとジン」の1連目。

僕は飯をかきこみながら
映画情報番組を観ていた
次第に何故か腹が立ってきた
何を見ても 聞いても 読んでも
すべて暗く見えてくる
僕はベランダで煙草代わりに
爪楊枝やエンピツを
代わりがわりに吸っていた

 この5行は、とてつもなくスピードが速い。「飯をかきこ」みから「爪楊枝やエンピツを」「吸っていた」までの時間はかなり長い。その長い時間が「肉体」のなかで凝縮され、きちんと形になる。「頭」で書くと、こんなぐあいに速くならない。「何を見ても 聞いても 読んでも」で「見たもの 聞いたもの 読んだもの」に寄り道をしてしまう。その対象についてことばをつかってしまい、「頭」がどんどん「肉体」から離れて行ってしまう。もちろんそうした書き方をしてもいいのだが、豊原はそういう寄り道をしない。「頭」だけをどこかへ暴走させるということをしない。むしろ、そういう、いわば現代詩に多い暴走を振り捨てる。いつも「肉体」へ還る。
 別な言い方をしよう。

僕はベランダで煙草代わりに
爪楊枝やエンピツを
代わりがわりに吸っていた

 このとき豊原は何を考えているか。何も考えていない。「考え」というものを捨てているのだ。どういう「考え」を捨てているかというと、「腹が立ってきた」原因となるすべてのものを捨てているのである。「頭」で考えられることを全部捨てる。
 「肉体」へ還るとは、そういうことをいう。「無」になる、といってもいい。「頭」を「無」の状態にして、ただ世界を呼吸する。「煙草」を吸うふりをしながら、世界そのものを呼吸する。そこにある「空気」を吸い込み、自分の中にたまっている余分な空気、「頭」で汚れた空気を吐き出す。
 そうすると、突然、「頭」ではとらえられないものがぱっとあらわれる。
 2連目。

荒磯海のシンとジン
ふたりは仲良し 大好きな
妖精
荒波に飲み込められる
子供たちのために
天からのやさしい妖精
蚊のように小さくて
体は脳波の線のように
目を白黒させないと
見えないし触れない

 世界には「頭」を捨てないと見えないものがある。そのことを豊原は「肉体」で知っている。
 「頭」の捨て方はいろいろある。ことばを暴走させるのも、ある意味で、「頭」を捨てることである。「頭」をつかって「頭」を捨てることである。
 豊原は、そういう捨て方ではなく、「肉体」と空気をなじませる。それは、私の感覚では、とても俳句に似ている。そこにある「もの」と同じ空気を呼吸し、同じ空気そのものになる。そのとき、対象である「もの」と「私」のあいだで空気が行き交いまじるのだが、それはまるで「もの」と「私」が空気を呼吸しているのではなく、空気そのものが「もの」と「私」を呼吸しているかのように、区別がつかなくなる。世界が「頭」を捨てて、互いを許しあう。溶け合う。溶け合いながら、同時に、くっきりと存在する。

 そういう感じの俳句も、この「白黒目」には掲載されている。

草雲雀ゆっくりとしたカーブ球

 あ、いいなあ。春の光が、触れるくらいにくっきり見える。その感触は「瞬間」のものではない。また、ずーっと、というのでもない。先に触れた「脚本」のなかにでてきたことばを使って言えば、「ある程度」という感じのものである。そして、その「ある程度」という感じが、不思議と「永遠」を感じさせる。「ある程度」という幅、遊び、余裕の中に、温かい喜びがある。



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豊原清明「シュールぼくの言い訳」

2009-02-13 09:05:54 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「シュールぼくの言い訳」(「白黒目」15、2009年01月発行)

 豊原清明「シュールぼくの言い訳」は映画の脚本である。「ぼく」の最近の写真と子どものときの写真についての映画という説明がついている。

○現在のぼくの目が映る
ぼくの声「だらだらしやがって と、昔よく父が言っていた。親にも教師にも言われた」

○小学校アルバムの集合写真
   同級生の顔をスーパーの紙で覆い、僕の顔だけ見えるように、穴を開けて、映す。

○14歳の風引きの顔と、三十一歳の学生証の顔が、フラッシュする。

○台所を映す(夜)
ぼくの声「ぼくは何処へ行くのか。一回でも、
 中学の頃のように疾走したいものだ。」

○冬の道
   父と一緒に田舎道を歩いている。
   ある程度、歩いて汗を掻く。
   ぼくの汗と、ぼくの目を撮ってもらう。
ぼく「ここは安住の場所ではない。」

 とてもリズムがいい。せりふは断片的だが、とてもよくわかる。「いま」「ここ」に対する違和感。その違和感が、昔の写真を見ることで、いっそう広がっていく。「いま」「ここ」から、「いま」「ここ」ではないところへ行ってしまういたい。
 だが、そのとき、「いま」「ここ」にいる「ぼく」を捨ててしまうのではない。「ぼく」は「ぼく」のまま、「ぼく」の肉体のまま、存在しつづけたい。--この欲望が、あらゆるひとに共通のものかどうか、実は、私にはよくわからない。「いま」「ここ」にいる「ぼく」を捨ててしまい、どこかへ行ってしまうことは、「ぼく」ではなくなることだと私は思っているが、豊原はたぶんそんなふうには考えていない。ずーっと、自分の肉体というものを愛している。「ここ」は「ぼく」にとって「安住の地ではない」かもしれないが、「ぼくの肉体」は「ぼく」にとって「安住の地」なのだ。自分自身に対する不思議な信頼というものがある。その信頼が、とてもあたたかく感じる。
 自分の肉体を傷つけ、その痛みによって自己存在を知る--という人間がいる。自分の精神をわざと傷つけ、こころの痛みによって自己を認識する--という人間がいる。豊原はそういう人間とはまったく違う。自分をとても大事にしている。そして、そこには自分を大事にする人間だけがかかえこむひろがりがある。自分からはみだしてゆくものがある。--あいまいなことしか書けないが、そういうものを感じる。

ある程度、歩いて汗を掻く。

 この感覚がとてもいい。「ある程度」。いつも豊原の周囲には「ある程度」がある。「一瞬」というより、「ある程度」の時間のひろがりがある。時間の幅がかかえこむ「まじっりけ」がある。たとえば、ここでは汗。「肉体」のなからから、自然ににじんできたもの。汗をかこうとして歩いているのではないが、歩いていれば自然に汗が出る。それは自然な肉体の変化である。「ある程度」はそういう自然の変化を受け入れてくれるひろがりのことである。

 変化。変化としかいいようのない、ぶれ。それが、とてもなつかしい。

 脚本の最後の部分。

○父の背中を撮る
ぼくの声「お父さん」

○ぼくの背中を撮る(長めに)

○サボテンを撮る
   腐りかけたサボテンに向かって、
ぼくの句「われ病むや海辺で太鼓ならしてる」

 不思議な変化。それを肉体をなじませるために、豊原は「時間」を必要としている。「ある程度」というひろがりを必要としている。そのひろがりは「遊び」と呼ばれるものに少し似ているかもしれない。機械や何かの、動きをスムーズにするための「遊び」。きっちりしているのではなく、わざときっちりしていなもの。その「わざと」と「ある程度」が重なり合う。そして、何かを豊かにする。
 その不思議な豊かさ--それを感じる。

 この脚本が映像になったものを知らないので、「脚本」ではあるけれど、このブログの「ジャンル」では「詩」として「分類」しておくことにする。





夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(13)中井久夫訳

2009-02-13 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
見せ場    リッツォス(中井久夫訳)

廊下に立っていた。さびしげな女。法務官。衛兵。
ロープでしばった毛布が床に。隣の事務室で電話が鳴った。
「四時に」と声が聞こえた。「 船が着く」
「四時」と彼等は言った。「きっかりだ」。鋼鉄の扉がもう一度きしった。
まだ法廷に送り込む気だ。「あなたに煙草を送るわ」と女が呟いた。「遅いわい」と衛兵。
壁に大きな蜘蛛が這う。二番目の扉が
突然開いた。男の死体がうつぶせに倒れてきた。衛兵が蜘蛛をつかんだ。
死体の口に突っ込んだ。
笑った。顎は引き締めたままで。
「しゃべれ」と死体に叫んだ。「吐け」。
「白状しろ」と死体を脅かした。死体は一言も言おうとせぬ。死体は笑った。
女は毛布に腰をおろして顔を手で蔽った。



 扉の向こう側で行われているのは訊問か、拷問か。いずれにしろ、向こう側にいるのは女の知り合い、夫か、恋人か、父か、息子か。その身を心配している。姿が見えず、声だけが聞こえる。電話の話し声が聞こえるということは、訊問か、拷問の声も聞こえるかもしれない。このとき苦しいのは、訊問・拷問を受けている男もそうであろうが、その姿を想像する女も同じだろう。見えない。声だけが聞こえる。そのときの、はりつめた恐怖と不安。
 壁を這う蜘蛛--その、人間とは無関係に動くものの存在が、恐怖と不安をいっそう強くする。
 そして、突然、死体。そして、乱暴な衛兵の行為。口に蜘蛛を突っ込む、というのは、何か意味があることなのかもしれない。ギリシアの習慣がわからないのだが……。死体であるから、反応はない。反応がないことを知っていて、衛兵は乱暴をする。そこに、衛兵の人間としての醜さが露骨にでている。
 そういう行為を死体が笑う。--これは強烈な批判である。

 ところで、この詩の最後の1行は、とても不思議である。中井久夫の、いまの形の1行では、「顔を蔽った」というときの「顔」は「女の顔」になると思う。「顔を蔽った」、つまり「泣いた」という意味になると思う。
 しかし、最初の中井の訳は

女は毛布に死体の腰をおろして顔を手で蔽った。

 である。初稿では「死体の顔」。推敲の結果、「死体の」が削除されている。「死体の」がなくても「死体の顔」と読者が読むと判断したのかもしれない。そうではなくて、「死体の」が誤読であると判断して、削除したのかもしれない。どちらかわからないが、「死体の」顔が「原文」の意味だとしたら、ここに書かれている内容は、とても複雑で、より強烈になる。
 死体は笑った。その死体の顔を隠す。(「蔽った」も中井は最初、「隠した」と訳している。)それは、死体さえもが軍政を批判して、あざ笑っているというだけではなく、そういう死体を軍政はさらに傷つける--それを恐れて女は愛する男と顔を隠した、ということになる。軍政のむごたらしさを、より強烈に暗示することになる。

 この作品では、訊問・拷問から聞こえてくる声、音は書かれていない。書かれていないことによって、それがより強烈に見えてくる。書けないような、むごたらしさが存在するのだ。同じように、ここでは軍政が死体をどんなふうにあつかうかは、死体の口に蜘蛛をつっこむということしか書かれていないが、ほんとうは、もっともっとむごたらしいことをするのである。それを心配して女は死体の顔を隠した。笑う顔を隠したのだ。

 書かれないものの方が、書かれたものより強烈である。
 --リッツォスには、そういう思いが強いな野かもしれない。だから、リッツォスは、できるかぎりことばを省略する。「物語」を「もの」の断片にして、それをつなぐ力を隠して表現する。「もの」だけを孤立させて、「もの」の背後を読者に想像させる。私はギリシア現代史を知らないのでよくわからないが、ギリシアの国民には、「もの」の背後がくっきり見えているに違いない。
 最後の行の訳は、そういうリッツォスのことばを運動に沿った訳なのだろうと思う。

 決定稿だけでなく、初稿→推敲という過程を読む楽しさを、今回はじめて知った。



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