詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マーク・フォースター監督「007/慰めの報酬」(★★★)

2009-02-11 12:22:15 | 映画
監督 マーク・フォースター 出演 ダニエル・クレイグ、オルガ・キュリレンコ、マチュー・アマルリック

 007がダニエル・クレイグにかわってから、映画が突然おもしろくなった。映画が原点に返った。つまり、活動写真に。ともかく動く。カーチェイスや水上でのボートチェイスといった「乗り物」の動きもあるが、基本は人間である。ダニエル・クレイグはひたすら走る。銃もつかうが、肉体で格闘する。それがとても小気味いい。
 冒頭の、教会内部での格闘は、補修の足場の崩れという要素もからんで、肉体と物体が激しく動く。そのひとつひとつの動きがリズミカルで、ぐいと画面に引きずり込まれる。快調である。
 崩れてくる足場を見ながら(足場そのものとダニエル・クレイグの顔、視線の交錯)、その崩れる足場をどう利用して戦うか--というようなことは、現実にはできない判断である。相手の動きも見ながら、瞬時のうちにかぎられた行動を的確に判断し、その判断にあわせて肉体を動かす--そういうふうに動く肉体を見る、といううことは現実にはできない。しかし、こういう、現実には見ることのできない映像があると、映画は映画らしくなる。映画は現実には体験できないことを体験するための「装置」なのだから。
 こういうシーンが、スムーズに流れると、とても楽しい。こういう映画が見たかった、となつかしい気持ちにさせられる。
 こうしたシーンはスタントマンが演じているのだろうけれど、ダニエル・クレイグがやったとしても不思議ではないくらいに、ダニエル・クレイグ自身の肉体が鍛えられているのもいい。歩くシーン、走るシーンも動きがシャープだ。そういうシャープな動きがあるから、現実にはありえない格闘シーンも生きてくる。人間離れしたアクションが美しく見える。
 ファッションもとてもいい。人間の動きを美しく見せる服を着ている。オペラ劇場で着ているスーツはとてもいい。激しく動いてもぴったり肉体にそって動く。こういう服を着るには、シャープに動ける肉体が必要なのだろうが、そういうことを忘れて、お、かっこいい服だと納得させる。
 一方で、現代のハイテク技術もさりげなく見せる。そして、そこにも肉体がからんでいる。諜報機関本部にあるコンピューターの画像処理、その操作のおもしろさ。スピルバーグが「マイノリティー・リポート」でやってみせたシーン(唯一、映画を見たあとトム・クルーズの動きを真似したくなるシーン)だが、スクリーンの映像を手で移動させる。トランプのカートのように、手の動きにあわせて映像が滑る。移動する。その滑らかさ。トランプのカード捌きの美しさをつくりだしているのが人間の手であるように、ここでもタッチパネルを操作する肉体が美しいのである。肉体派ではない役者も、そんなふうにして肉体の動きの美しさを見せる。それを感じさせる演出である。
 ダニエル・クレイグは顔の美しさではピアース・ブロスナンに劣るだろうけれど、肉体の動きの美しさで、はるかに上回る。この映画は、ダニエル・クレイグの肉体の動き、動き肉体があってはじめて成立する映画である。肉体の動きの美しさを見る映画である。ジュディ・デンチでさえ、立ち姿のすっくとした美しさをみせつけている。




前作もダニエル・クレイグの肉体の動きがとてもいい。


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黄河陽子「きょうの日」

2009-02-11 10:39:52 | 詩(雑誌・同人誌)
黄河陽子「きょうの日」(「美しい天使のための…」4、2009年01月10日発行)

 黄河陽子「きょうの日」は独特のスタイルを持っている。

食卓の朝
窓の かたちを カーテンに映して
あいさつする きょう
の 日

静かな 空間
影と共に 在る
一刻 一刻

朽ち果てると
だれが知っていただろうか
ひとときの輝きであることを
だれが見たのだったか

永遠に仰ぎ見る
魂の あこがれは いまも
遠く
いぶし銀の 光を放つ

 1、2、4連。ことばが、ぷつん、ぷつん、ぷつんと空白を挟んでつながっていく。1連目のおわりの2行には「あいさつをする きょう/の 日」と、わたりまである。このことばとことばの分断が、黄河にとっての詩である。ことばを独立させる。ことばと「もの」とを直接結びつける。ことばとことばが結びつくのを避ける。
 ことばは、ほうっておいても自然にことば同士その結びついて「文章」になってしまう。「意味」をつくってしまう。その「意味」とは、黄河の場合、「思い」(考え)ということになるかもしれない。3連目がそうだが、そこにはことばを分断する「空白」がない。改行はあるが、行の中には分断がない。それは「もの」ではなく、「考え」(思い)を書いた部分だからである。ひとの「考え」(思い)は「もの」と違って連続しているのである。どこまでもつながっているのである。
 黄河はそれを分断したいと願っている。
 なぜか。
 4連目に手がかりがある。「永遠」「ゆめ」「魂」。それは、「考え」のなかにあるのではなく、「もの」のなかにあるのだ。「もの」のなかにある、「ゆめ」「魂」「永遠」を、「考え」と結びつけることなく、そのままの形にして向き合いたいのだ。「もの」をそのまま受け入れたいのだ。
 その「もの」の中には「時間」もある。「時間」は連続したものだが、黄河は「一刻 一刻」と、その連続したものをなんとか分断して、その「一刻」のなかに「永遠」「ゆめ」「魂」をみつめたいのだ。
 そんなふうに「永遠」を感じること--それを、黄河は最終連で、別のことばで書いている。

午睡から覚めると
障子にゆれる 日差しの枝葉
庭の南天が招いたのか
ぬくもり ざわめきが きこえる
はるかのなつかしい面影 二人 四人と
きょうの日を呼吸する わたしに
問うまなざしが やさしい

 「もの」は「永遠」「ゆめ」「魂」を招き、その一個一個の「永遠」「ゆめ」「魂」を黄河は「呼吸する」のである。「肉体」のなかに取り入れるのである。そして幸福に包まれる。「優しい」「まなざし」につつまれる。
 この世界にたどりつくために、黄河は、ことばを、ものを分断する。「考え」という束縛から解き放つ。そのために「空白」が必要なのだ。


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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(11)中井久夫訳

2009-02-11 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
用心    リッツォス(中井久夫訳)

そうだな。まだ声を落としていたほうがいい。
明日か、その明日か、いつか、
別の連中が旗を掲げて叫んだら、
きみも叫べよ。
だが用心だ。帽子を眼深くかぶれよ。
ぐっと、ぐっとだぞ。
何を見てるか、悟られるなよ。
叫んでいる群衆の眼が
何も見てないことが分かってても、だよ。



 この詩は二通りに読むことができる。仲間(友人)が別の仲間に語りかけている。友が私に語りかける。あるいは私が友に語りかける。そういう読み方と、私が私に語りかける。つまり、こころのなかの対話というふうな読み方もできる。
 私は、後者の方を取る。「用心」とはもともとそういうものだろうと思う。
 最後の3行が、とてもさびしい。かなしい。内戦の果ての、孤独を感じる。「何も見てないことが分かってても、だよ。」の読点「、」の一呼吸に、深い深い孤独がある。自分としか対話できない、孤独の悲しみがある。読点「、」の一呼吸が、「私」というひとりを「私」と「私」に分断し、対話を念押しする。



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