梅田智江『梅田智江詩集』(右文書院、2008年08月15日発行)
いまごろになって、やっと感想を書きはじめている。やっと落ち着いて詩集に向き合えるようになった。梅田智江とは「往復詩」と「連詩」の試みをしたことがある。会ったことはないけれど、仲間意識があるので、その突然の死は、やはり衝撃だった。
梅田智江の詩の特徴は「語り口」にある。「笑う」は堕胎したときのことを書いている。
1、2、3、4連は、ふつうの分隊である。「ごしょうでも見たくなかった。」は独立していて、思いの強さを浮き彫りにしているが、書いてあることはすぐにわかる。
ところが、5連目。
この突然の動詞(述語)に、とまどう。「くれなかった」って、何? 一瞬、わからない。しかし、つづけて読むと、すぐにわかる。
どうして、ここでは、こんな文体になっているのか。それは、その「くれなかった」の主語、補語が梅田にはわかりきったことだからである。だれが、何をくれなかったかは、もう、この詩を書きはじめる前から、明確にわかっていた。梅田にとって、それは「肉体」そのもののように、くっきりとわかっていた。書く必要がないのだ。ほんとうは「くれなかった、くれなかった、くれなかった、くれなかった」と延々と書きつづければ、この作品は完成したのである。梅田が書きたいのは「くれなかった」という事実だけである。主語も補語も、どうでもいい。「くれなかった」ということが、梅田の意識をしめている。
梅田はいつでも、ほんとうに思っていることを、そのまま書いてしまう。その正直な文体は、どうしたって、「教科書」の文体通りにはならない。ことばが先にあって、それからこころがあるのではない。こころはいつでもことばを追い越していく。ことばや、しばらくしてやっと追いついてくる。そして、追いついたときは、もう、余分なことはどうでもよくなる。その余分なことというのは、ときには主語であり、補語である。どんな文章にも、全体必要なものがある。それが主語であることもあれば、補語であることもある。梅田の場合、この詩では「くれなかった」という述語である。
この詩が正直なのは、そんなふうにして、述語が主語と補語を追い越して噴出してきたあと、その噴出にあわせるように、こころがことばをつかみ、ほうりだすからである。ほんとうに言いたいこと--それを1-4連の文体を突き破って(破壊して)書いてしまうと、あとはことばは、もうほんとうのことを語るだけである。
悲しみと怒りが渦を巻いて見分けがつかなくなる。見分けがつかなくなれば、そこにはほんとうは存在しないはずの「笑い」までもが紛れ込んでくる。感情が肉体を壊してしまう。肉体は感情をこれは悲しみ、これは絶望、これは怒りというように区別できなくなって、それがあふれてくるのをただ受け止めるだけになっている。
そういうことは多くのひとが経験することかもしれない。
けれど、その一瞬のきっかけというか、感情と肉体の両方が壊れてしまう一瞬を、「くれなかった」という倒置法をつかうことで、こんなにリアルに、正直にあらわしてしまう文体--それは梅田智江の作品にしかない。
正直な文体の力、それは正直な人間のひとがらそのものだと思う。先に書いたが私は梅田と会ったことがない。電話で声を聞いたこともない。そして、この詩集で初めて梅田の写真をみた。私は、梅田がどんな顔をしているかも、まったく知らなかった。ただ、そのことばだけしか知らなかった。そして、これからも、そのことばだけしか知らないままなのだと思うと、せつなくなった。
いまごろになって、やっと感想を書きはじめている。やっと落ち着いて詩集に向き合えるようになった。梅田智江とは「往復詩」と「連詩」の試みをしたことがある。会ったことはないけれど、仲間意識があるので、その突然の死は、やはり衝撃だった。
梅田智江の詩の特徴は「語り口」にある。「笑う」は堕胎したときのことを書いている。
暗くなっても 電気なぞ
つけたくなかった。
カーテンをぴっちりとしめ
生けた つつじの花など
ごしょうでも見たくなかった。
壁びっちりに
ならべられた本は灰色だ。
どうして こんなにたくさんあるのだろう。
眼じりはじとじとと濡れて
まくらに しみこんでゆく。
くれなかった。
子どもを堕ろしているのに
あのひとは
電話 ひとつ くれなかった。
この事実
この固い物体のような恐るべき感情を
どうして のみたこんだらいい。
遠くで しきりに
自動車のドアをバタンとしめる音がして
ライトが部屋を明るく照らしていく。
涙を流しながら
くちびるは機械的に
かっかっと笑っていた。
口の中から まっ黒な
こうもりが とびだしてきそうだった。
1、2、3、4連は、ふつうの分隊である。「ごしょうでも見たくなかった。」は独立していて、思いの強さを浮き彫りにしているが、書いてあることはすぐにわかる。
ところが、5連目。
くれなかった。
この突然の動詞(述語)に、とまどう。「くれなかった」って、何? 一瞬、わからない。しかし、つづけて読むと、すぐにわかる。
どうして、ここでは、こんな文体になっているのか。それは、その「くれなかった」の主語、補語が梅田にはわかりきったことだからである。だれが、何をくれなかったかは、もう、この詩を書きはじめる前から、明確にわかっていた。梅田にとって、それは「肉体」そのもののように、くっきりとわかっていた。書く必要がないのだ。ほんとうは「くれなかった、くれなかった、くれなかった、くれなかった」と延々と書きつづければ、この作品は完成したのである。梅田が書きたいのは「くれなかった」という事実だけである。主語も補語も、どうでもいい。「くれなかった」ということが、梅田の意識をしめている。
梅田はいつでも、ほんとうに思っていることを、そのまま書いてしまう。その正直な文体は、どうしたって、「教科書」の文体通りにはならない。ことばが先にあって、それからこころがあるのではない。こころはいつでもことばを追い越していく。ことばや、しばらくしてやっと追いついてくる。そして、追いついたときは、もう、余分なことはどうでもよくなる。その余分なことというのは、ときには主語であり、補語である。どんな文章にも、全体必要なものがある。それが主語であることもあれば、補語であることもある。梅田の場合、この詩では「くれなかった」という述語である。
この詩が正直なのは、そんなふうにして、述語が主語と補語を追い越して噴出してきたあと、その噴出にあわせるように、こころがことばをつかみ、ほうりだすからである。ほんとうに言いたいこと--それを1-4連の文体を突き破って(破壊して)書いてしまうと、あとはことばは、もうほんとうのことを語るだけである。
悲しみと怒りが渦を巻いて見分けがつかなくなる。見分けがつかなくなれば、そこにはほんとうは存在しないはずの「笑い」までもが紛れ込んでくる。感情が肉体を壊してしまう。肉体は感情をこれは悲しみ、これは絶望、これは怒りというように区別できなくなって、それがあふれてくるのをただ受け止めるだけになっている。
そういうことは多くのひとが経験することかもしれない。
けれど、その一瞬のきっかけというか、感情と肉体の両方が壊れてしまう一瞬を、「くれなかった」という倒置法をつかうことで、こんなにリアルに、正直にあらわしてしまう文体--それは梅田智江の作品にしかない。
正直な文体の力、それは正直な人間のひとがらそのものだと思う。先に書いたが私は梅田と会ったことがない。電話で声を聞いたこともない。そして、この詩集で初めて梅田の写真をみた。私は、梅田がどんな顔をしているかも、まったく知らなかった。ただ、そのことばだけしか知らなかった。そして、これからも、そのことばだけしか知らないままなのだと思うと、せつなくなった。
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