詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

梅田智江『梅田智江詩集』

2009-02-04 13:09:48 | 詩集
梅田智江『梅田智江詩集』(右文書院、2008年08月15日発行)

 いまごろになって、やっと感想を書きはじめている。やっと落ち着いて詩集に向き合えるようになった。梅田智江とは「往復詩」と「連詩」の試みをしたことがある。会ったことはないけれど、仲間意識があるので、その突然の死は、やはり衝撃だった。
 梅田智江の詩の特徴は「語り口」にある。「笑う」は堕胎したときのことを書いている。

暗くなっても 電気なぞ
つけたくなかった。
カーテンをぴっちりとしめ
生けた つつじの花など

ごしょうでも見たくなかった。

壁びっちりに
ならべられた本は灰色だ。

どうして こんなにたくさんあるのだろう。
眼じりはじとじとと濡れて
まくらに しみこんでゆく。

くれなかった。
子どもを堕ろしているのに
あのひとは
電話 ひとつ くれなかった。

この事実
この固い物体のような恐るべき感情を
どうして のみたこんだらいい。

遠くで しきりに
自動車のドアをバタンとしめる音がして
ライトが部屋を明るく照らしていく。

涙を流しながら
くちびるは機械的に
かっかっと笑っていた。

口の中から まっ黒な
こうもりが とびだしてきそうだった。

 1、2、3、4連は、ふつうの分隊である。「ごしょうでも見たくなかった。」は独立していて、思いの強さを浮き彫りにしているが、書いてあることはすぐにわかる。
 ところが、5連目。

くれなかった。

 この突然の動詞(述語)に、とまどう。「くれなかった」って、何? 一瞬、わからない。しかし、つづけて読むと、すぐにわかる。
 どうして、ここでは、こんな文体になっているのか。それは、その「くれなかった」の主語、補語が梅田にはわかりきったことだからである。だれが、何をくれなかったかは、もう、この詩を書きはじめる前から、明確にわかっていた。梅田にとって、それは「肉体」そのもののように、くっきりとわかっていた。書く必要がないのだ。ほんとうは「くれなかった、くれなかった、くれなかった、くれなかった」と延々と書きつづければ、この作品は完成したのである。梅田が書きたいのは「くれなかった」という事実だけである。主語も補語も、どうでもいい。「くれなかった」ということが、梅田の意識をしめている。
 梅田はいつでも、ほんとうに思っていることを、そのまま書いてしまう。その正直な文体は、どうしたって、「教科書」の文体通りにはならない。ことばが先にあって、それからこころがあるのではない。こころはいつでもことばを追い越していく。ことばや、しばらくしてやっと追いついてくる。そして、追いついたときは、もう、余分なことはどうでもよくなる。その余分なことというのは、ときには主語であり、補語である。どんな文章にも、全体必要なものがある。それが主語であることもあれば、補語であることもある。梅田の場合、この詩では「くれなかった」という述語である。
 この詩が正直なのは、そんなふうにして、述語が主語と補語を追い越して噴出してきたあと、その噴出にあわせるように、こころがことばをつかみ、ほうりだすからである。ほんとうに言いたいこと--それを1-4連の文体を突き破って(破壊して)書いてしまうと、あとはことばは、もうほんとうのことを語るだけである。
 悲しみと怒りが渦を巻いて見分けがつかなくなる。見分けがつかなくなれば、そこにはほんとうは存在しないはずの「笑い」までもが紛れ込んでくる。感情が肉体を壊してしまう。肉体は感情をこれは悲しみ、これは絶望、これは怒りというように区別できなくなって、それがあふれてくるのをただ受け止めるだけになっている。
 そういうことは多くのひとが経験することかもしれない。
 けれど、その一瞬のきっかけというか、感情と肉体の両方が壊れてしまう一瞬を、「くれなかった」という倒置法をつかうことで、こんなにリアルに、正直にあらわしてしまう文体--それは梅田智江の作品にしかない。

 正直な文体の力、それは正直な人間のひとがらそのものだと思う。先に書いたが私は梅田と会ったことがない。電話で声を聞いたこともない。そして、この詩集で初めて梅田の写真をみた。私は、梅田がどんな顔をしているかも、まったく知らなかった。ただ、そのことばだけしか知らなかった。そして、これからも、そのことばだけしか知らないままなのだと思うと、せつなくなった。




梅田智江詩集
梅田 智江
右文書院

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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(4)中井久夫訳

2009-02-04 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
表現されないもの    リッツォス(中井久夫訳)

夕べの空の下で全市が電灯を灯した。
なぜかあのたかさに明滅する明るい赤い灯二つ。
窓。橋。街路。タクシー。バス。
「私だった自転車くらいはあったさ」と彼は言った。「あのころ夢を見ていたんだ」
同じ部屋の女は目を逸らした。口を利かなかった。
そのドレスの右側にはステッチがしてなかった。立ち上がったら
左右の肩の高さが違うことが分かったでしょう。「それ以上は
連中についてはいえない」と彼は言った。「ひびのはいったコップみたいにそっと持って
   おいてくれ」
廃物収集が通るときにひとに頼まずに自分で持って行くようにな。
悪いことを犯しているように必死にやる。朝早くだよ。美しいコップを古新聞にくるんで
階段の手すりにぶつけないかとずっとびくびくしながら--。
ぶっつければ、まだ鳴る力があるよ。殷々と鳴る。遠くまで透る。途中で止められぬ。
窓ガラスと、風と、壁が共謀しているみたいに鳴る。
すると目の見えない楽士がやっとのことで階段を上がって来て、
さて椅子にヴァイオリンのケースを置いて、開ける。中には
三つ揃いの水飲みコップの二つがある、燦然と、疵一つなく--。



 「表現されないもの」--これはリッツォスの詩には非常に多い。きのうの「日記」にも書いたが、まず「物語」が表現されない。そこに書かれるのは「もの」だけである。それは「物語」を構成する要素だが、同時に「物語」を破壊する。「物語」からのがれて、ただそこに存在することによって「詩」になる。「詩」とは理解不能なものである。ただそこにあることを知って、ひとは驚く。そんなふうに存在しうることに驚くのである。そして、その理解できないものを自分の中にとりこみ、納得するために「物語」をつくりだす。
 だが、いつでも伝わっていくものは「物語」ではなく、「物語」を破壊してしまう「詩」だけである。なぜなら、「物語」はそれぞれのひとが必然的につくりだしてしまうものだからである。どんな人間でも、そのひと自身の「物語」をもたないひとはいない。生きていれば必ず何かがある。何かを体験してしまう。生きた「時間」が「物語」をつらぬいてしまう。そして、それはそれぞれ違う。似通っていてもまったく違う。だから「物語」を共有したと感じるのは錯覚であって、それぞれがかってに「物語」を自分に引き寄せているだけである。そのとき、他人の「物語」と自分の「物語」を結びつけるのが、「物語」から逸脱していく「詩」(もの)なのである。
 たとえば「赤い灯」。その「高さ」。あるいは、窓、橋、街路……。それはたしかに「ひびのはいったコップ」みたいなものかもしれない。いつでも壊れてしまう。「もの」であることを止めて「物語」の「時間」のなかに吸収されてしまう。
 そういうはかないものであっても、実は、壊れるときある種類の「音」を響かせる。それをひとは「さびしさ」と呼んだりする。なぜなら、そのとき壊れるのはほんとうは「もの」ではなく、「もの」をそっとかかえている「こころ」だからである。(西脇順三郎なら、絶対に「さびしさ」と呼ぶ。)そして、それは、どこまでもどこまでも、透明なまま響きわたっていく。どこまでも、というのは、時空を超えて、他人の「こころ」のなかをどこまでも、という意味である。
 それはある日、まったく忘れていたとき、つまり「物語」を放棄した瞬間に聞こえてくるかもしれない。そして、それがそんなふうに突然聞こえてくることをだれも止めることができない。

 詩とは、そういうものだと思う。

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